第五章《迷霧》:間話
数刻前の出来事である。
少女がそれに気が付いたのは必然だった。
がくん、と前のめりになる。急に体中の血が下がって、軽度の貧血を起こしたような心地になった。思わず壁に手を突いてそのまま背をもたれる。
「……ウォルディ?」
呟いた声は擦れていた。嫌な感じがする――これは予感ではなく確信だ。
カタカタと震えはじめた指先をぎゅっと握り締める。酷い悪寒。何かが起こった事とそれが何であるかを、この時既に少女は把握していた。
「ウォル、ディ……」
消えた。
消えた。
消えてしまった。
この世から失われた存在を知っている。どうして? 少女は誰にともなく問い掛けた。
その場所は、今彼女がいる場所からは遠い。彼女自身がそこから逃げるようにして、ここに身を隠していたのだから当たり前である。
その場所で、先刻大きな衝撃の波が発生したこともわかっていた。人為的な爆発。それでもその時は、こんな感覚を覚えたりはしなかったのに。
「どうして」
頭の中が真っ白になる。何も考えられなくなる。
その場に蹲るようにした彼女は、思考を停止した状態である一つの本能に従った。抱え切れなくなった怒りと悲しみをを、発散させる術は何か?
少女にとってそれは、呼吸をするに等しく容易いことだった。
「どうして?」
少女の小さな身体が淡い光に包まれた。――否、少女そのものが発光したのだろうか。
冷たい床に触れた掌の先、接触している部分がぴしりと乾いた音を立てる。次の瞬間、浅く走った亀裂に沿って鮮やかな紅の炎が揺らめいた。
「ウォルディ……」
彼女は自分に秘められた能力を当たり前のものだと思っていたので、それの行使に戸惑いを感じたことはない。自分の“教育係り”に任命された仮初めの兄も同じ力を有していたし、何よりもその能力は彼女の祖父を喜ばせた。少女にとっての異端はむしろ、力を持たない人間たちのほうだったのだ。
「誰が、あなたを殺したの」
少女の怒りに同調するように勢いを得た炎は彼女の身体を中心に、ぐるりと渦を描いて広がった。床から壁へ、壁から天井へと蛇のように這い伝わってたちまち一面火の海となる。
「許さない……」
少女はふらりと立ち上がると、覚束ない足取りで廊下の奥へと進んでゆく。
彼女がその場から消えた瞬間、残された火炎が現実の熱を帯びて校舎を燃やし始めた。
* * *
同時刻。
鬱蒼と生い茂る木々に覆い隠された島の裏側に小さな船が錨を下ろした。人々の目から隠れるよう明確な意志を持って停められたそれから一つの人影が降りてきたことに、この時まだ誰も気付かない。
その人物は単身島へと上陸すると、真直ぐに学園の内部へ入っていった。まるで中の様子など全てわかっているかのように、迷いの無い足取りで。
――エリニュエス=グロリア全体の様子を把握する能力を持ったルカ・ハーベントが島に帰還したのは、奇しくもこの数分後の事であった。