第五章《迷霧》:優幻挽歌(2)
――――“ウォルディ”
(だれ?)
短い夢の合間にふっと意識が浮上した。血を流しすぎたのだろう、目は霞み喉が焼けるように熱い。
ウォルディはゆるゆると瞬きを繰り返した。生理的な涙が零れて少しだけ、視界が明るくなる。瞳が目の前の人影を捉えて、少年の口元が僅かに弛んだ。
どうしてこんなところにいるのだろう。自分の名を繰り返し呼ぶこの少年が、最後の糸を繋ぎ止めているらしい。
「しゅん、……くん」
「ウォルディ!?」
捻り出した声はざらざらと擦れていた。ウォルディが意識を取り戻したことに気付いた、駿はもう一度その名を呼ぶ。少年の顔は青ざめていて、らしくないな、とぼんやりウォルディは思った。
「お……まえ、何やってんだよ……っ」
肩を掴んでいる手が弱い。朦朧とする意識をどうにか引き止めてウォルディは、目の前の少年に目をやった。
駿が何か喋っている。怒っているのだろうか。
「お前わけわかんない事ばっか言い逃げして、探しても見つかんねーし、やっと見つけたと思ったらなんで……っ、なんでこんな死にかけてんだよ」
しにかけて、いる。駿の言葉を頭の中だけで反芻して漸く、ウォルディは自分の置かれた状況を細部まで把握した。
嗚呼、と嘆息する。
(そうだ………ひとり逃がした)
自分に致命傷を負わせた人物を脳裏に描き、始末し損なったことを思い出した。だが、あれ一人だけならばどうにかなるだろう。役目は無事に果たせたのだ。
――なぁコレ抜いて良いの?
混乱しているのだろうか、震えるような声が聞こえた。これ、とはきっと槍のことだ。ウォルディの腹に深々と刺さったままの。
他人事のように考えるウォルディの一方で、駿は身体の末端から血の気が引いていくのを感じていた。突き付けられた事実に腕が強ばる。どうにかしなければ、その言葉ばかりが頭をぐるぐると回った。
「なぁ、どーすりゃ良いの? 止血とかってどーやんの、俺、こーゆー時どうするのか知らないんだ。殺すばっかで助けるやりかたなんて全然……っ」
「……いらない、よ」
シュン君。
呼ばれて駿はその目を際限まで見開いた。何言ってんだ馬鹿野郎! 飛んできた罵倒にウォルディは微笑みを浮かべる。
「ほっといたら死んじまうだろーが!」
「……ん。良い、もう……じゅうぶん、だから」
だから、最後に一つだけお願いを聞いて。
ゆっくりと言えば駿は開いていた口を閉じて押し黙る。納得したわけではなく、二の句が次げなくなったのだとウォルディにもわかった。
「ゲーム、を、したよね。約束……がまだ一つ、残って」
「なに……いってんだよ」
確かに二人は以前ゲームをした。なんて事のないチェスだ。駿が負けて、ウォルディの言うことを三つ聞くという“約束”を。
――でもこんな時に。そう続けたいだろう所を無視して、被せるようにウォルディは言葉を繋げる。聞いてくれるよね? 問えば駿は逡巡した後、俺に出来る範囲内なら、と小さく答えた。
十分だ。得た応えに満足してウォルディは笑う。
「い……と、が」
「え?」
「いもうと、が。いるんだ」
初めて口に出した響きは柔らかく、どこか切なかった。馬鹿だったなぁ、思いながらウォルディは微笑む。
さっきも夢を見ていた。兄と呼ばれる自分と、幸せそうに笑う彼女の情景だ。実際は見えない壁に阻まれて、あの娘がウォルディに笑いかけることなど滅多に無かったように思う。
ダンカの正妻アリアドネ――ウォルディの母だ――は愛人としてのフローラを快く思ってなどいなかった。当然娘であるアイジャにも冷たくあたり、継嗣の座が完全に移行してからはその態度もより酷いものになる。
アリアドネがアイジャに一度だけ歌ってやった子守歌は、挽歌だった。アイジャの知る歌は唯一それだけ。
可哀想な少女に対しウォルディは、兄と名乗ることを許されていなかった。
「伝えて、」
「………っ、なんて?」
「あいつ、何……も、知らないから。教えて、やって」
お前は生きなくちゃいけないんだ、って。
言い切った瞬間に肺が嫌な音を立てて鳴った。どうやら傷が達していたらしい。同時に血を吐くのを見て焦ったように声を上げた駿を、やんわりとウォルディは押し留めた。
「おい……ッ」
「兄、らし……ことなん、て、一度も」
「ウォルディ!」
「で、も、大切だった……」
半分しか血は繋がっていなかった。自分に無いものを全て、持っていた。憎く想った事は何度だってあるけれど、それでも。
たった一人の、大切な妹。
「ごめん、ね」
最後に泣かせてしまった少女と、巻き込んだ目の前の少年へ。二つ分の謝罪を唇に乗せてウォルディは瞼を下ろす。もう目を開けていたところで、白くぼやけて何も見えなかった。
駿が腕を掴んでいるが、感覚がひどく鈍い。神経の伝達が上手くいっていないのだろう。
「今日、は……少し、寒いね……」
それからぽつり、ぽつりと世間話のような他愛無い言葉を口にするウォルディを、随分長い間駿は見つめていた。時々相槌を打ちながら、その身体がどんどん冷たくなってゆくのを。
自分達が命を摘み取る時とは違う、緩やかな死には慣れていなかった。それでも駿が目を逸らさなかったのは、ウォルディ自身がそれを享受していることに気付いたからだ。
ウォルディは、死にたいとも生きたいとも言わなかった。そうしているうちに段々と会話の間隔が開いていって、ついには一言も喋らなくなって。
「……ウォルディ?」
途絶えた呼吸音と鼓動を確認して、駿はぎゅっと拳を握り締める。伏せられた儘の睫毛の先、かけられた片眼鏡には傷が入っていた。それをそっとはずして、ポケットにねじ込む。
突き刺さった状態の槍に手を掛けて力強く引き抜けば、鈍い音と共にずるりと抜けた。それを床に投げ捨てて立ち上がった駿の背後で刹那、ガラリと石の崩れる音がする。
「誰だ」
鋭く問うて振り返った駿は、自分と同じ背格好の人影を見とめて瞠目した。どうして、こんな所に、
「その声、武藤……ッ? お前そこにいんの!?」
「播磨……!?」