第五章《迷霧》:間話‐真実と少年達の物語(1)‐
開け放たれた扉の奥で少年が笑う。柔らかな巻毛を揺らす微風は細く開いた窓の隙間から吹き込んでいて、彼はそれの前に座っているのだった。貴族のように華美な衣服に身を包み、赤い皮張りのソファーに体躯を沈める少年は一枚の完成された絵のように見える。一瞬の間だけ猫のように細められた眼の、冷たい光が正面から男を射抜いた。
「どうも。ご機嫌如何かな? ユリシーズ公」
「……何? 呼んだ覚えは無いよ、ギルヴィート伯爵」
「はは、相変わらずつれない御子だ」
この、糞餓鬼めが。
内心激しく毒吐きながら、男――カルノア・ギルヴィートは笑みを浮かべた。“カーマロカ”における彼の地位は《伯》である。華族の世襲的身分制度に使用される爵位を、この組織では階級の名としてそのまま用いていた。
爵位とは上から、公・侯・伯・子・男となる。ギルヴィートはけして下層の人間ではなかったが、目の前の少年――ユリシーズ・ルイン“公”爵と比べれば雲泥の差があった。彼はそれを、快くなど思っていない。
「なぁに、特にどうといったこともないのですが……ファンダルス殿下はお元気ですかな? 是非ご挨拶に伺いたい」
「首領かい? 出かけてたんじゃないかなぁ……僕なんかに聞いても居場所はわからないよ」
さらりとはぐらかす、ユリシーズの狙いは読めていた。ギルヴィートはにやりと口角を引き上げる。
「――いえいえ。小生が申しておりますのは、ドン=ファンダルスではなく……継嗣殿下ですよ」
男が言えば少年は興味などないように静かに目を伏せる。頬杖を付く仕草は眠たそうですらあり、それがどうしたと言わんばかりであった。
「ウォルディ太子は仕事で出ている。暫らくは帰らない」
「……くく、公はご冗談がお好きのようだ。よもや“本物”の継嗣を知らないとは言わせませぬよ」
くつくつと喉を鳴らす男の向かいで、ユリシーズが不快げに眉根を寄せた。ギルヴィートの狙いに気が付いたのだろう、身体を起こして真直ぐに彼を睨み上げる。
「――お前」
「アイジャ・ラ・ファンダルス殿下にお目通り願いたい。……どちらに隠されたのですかな?」
ぴくり、と少年の肩が動いた。
何処でそれを聞いた? 低く唸るような声が響き渡って、かかった、とギルヴィートはほくそ笑む。白を切り通せないあたり、やはりまだ子供なのだ。
――“カーマロカ”上層には、ダンカと言う名の男がいる。彼は組織の現総帥であるラディーニ・C・ロベリオ・ファンダルス――通称ドン=ファンダルスの一人息子だ。
本来ならば組織の次期首領になるはずのダンカは数年前仕事の最中に大怪我を負い、以来前線を退いている。そこで継嗣として白羽の矢が立ったのがダンカの子ウォルディ――つまり、ラディーニの孫であった。
しかしこの話には、裏が存在する。
「今この組織に何が起こっているか、知らない貴公ではありますまい。カーマロカには、頂点に君臨する新たな人材が必要なのです」
「知っているさ。お前には手の届かない高さの話だ。違う?」
少年の言葉は男に何の影響も及ぼさなかった。手が届かない、雲上の物語。確かに昔はそうだった、思ってギルヴィートは口角を引き上げる。
代々煉獄は、ファンダルス一族の独裁であった。その血を引かぬ人間はいくら足掻こうとも上層に触れることすらできない、不変の世界。
ファンダルスは天上人だ。その不文律が揺らぎはじめたのは数年前――ダンカが不慮の事故により後継者の座を降りたのが切っ掛けだった。隠居生活に入ろうとしていたラディーニが再び首領の座に腰を据え、まだ幼いウォルディが世継に選ばれたのである。
それまでウォルディ・レノ・ファンダルスは存在こそ明らかになってはいたものの、その姿を見たものはいないとされていた。ファンダルスの子は普通、幼くとも十を過ぎれば仕事に就く。当時のウォルディにそのような動きは一切見られず、継嗣の地位に着いてからも任務に入る様子はなかった。
形だけの即位。
その頃からだろうか、一部の人間がまことしやかに噂話を広め始めたのは。
ラディーニもダンカも、ウォルディを仕事から遠ざけ続けていた。寵愛といえば聞こえは良いが、その様は些か異様だったように思う。過保護なふりをして彼を軟禁し、人目に曝さぬようにするその様子を見て、ある日誰かが言い出したのだ――ウォルディ太子は『欠陥品』である、と。
「ウォルディ閣下は“継嗣”のふりをしたまがい物」
ギルヴィートはその話を聞いた日の興奮を、まだ覚えている。
ファンダルスが絶えることなくカーマロカの頂点に君臨し続けた、その理由は彼らだけが持っている絶対的な“力”だった。人間である限りは決して越えられない圧倒的な差。ウォルディがその力を奮う瞬間を見た者は誰もいない。歴代のファンダルスがその身に受け継いだ奇跡を、彼は持っていないのではないか?
それを肯定するかのようにある日、ドン=ファンダルスは何処からか一人の少女を引き取った。名をアイジャという、彼女の存在は公爵位以上の人間にしか知らされない機密事項になる。ギルヴィートがそれを耳にしたのは全くの偶然であったが、同時にそのアイジャが特殊能力者であるらしい事も知った。
今しか、ない。
カーマロカは波立った。どの組織にも野心家は存在する。己の地位を限界まで高めたいと願うのは通りだ。組織そのものを手にしたいと願う人間は、ごまんと存在した。
醜い欲による下剋上。今までカーマロカでは成されなかったそれは、絶対的な壁が崩れ始めたことによって動きを見せていた。ギルヴィートもそれを狙う一人である。
昨日から総帥は所用でファンダルスの屋敷を開けていた。今が絶好のチャンスなのだ。一月前同じ機会が訪れたときには、結局継嗣を発見できずじまいだったのである。昇進を狙うもの達には確実に、焦りの色が浮かんでいた。
「ファンダルスの天下は終わるのですよ、公。今この組織内には幾つかの派閥があることをご存じか? 大まかに分ければ二つ、革命の為に継嗣を“殺す”か“殺さないか”」
少年の瞳に鋭さが増した。欲のままに行動を起こそうとしている人間が、革命などと綺麗事を言うのか。
一重に下剋上と言っても方法は様々だが、最も簡単なのはその頂点の首を獲ることである。総帥ラディーニはもうかなりの年を重ねていて老い先短い。ダンカは権力を失った。ならば狙うは残された、年若い世継ぎだけだ。
「……無駄なことは考えるなよ、ギルヴィート。僕を誰だと思っている」
「わかっていますよ、嗚呼、義妹思いのルイン公。この屋敷から二人を出したのは貴公ですな? お陰で随分と予定が押しているのですよ」
じり、と詰め寄っても少年は微動だにしなかった。意志の強い目がギルヴィートを捉えて揺るがない。
――この少年が組織にやってきたのは、アイジャよりも少し後だった。異例の早さで公爵位を得、なおかつファンダルスの中核と接点を持つ謎の子供。
「アイジャ殿下の存在を知るものは彼女の命を、知らぬ者はウォルディ太子のお命をそれぞれ狙っております。後者は無意味な行動ということになりますがな」
「……ギルヴィート」
冷えきった声だった。ざわりと揺らいだ空気に一瞬、ギルヴィートは背が粟立つのを感じる。しかしその発生源に目をやっても、見えるのはただの少年だ。
深呼吸して男はユリシーズに向かい合った。たかが子供一人、地位に差はあれど優勢なのはこちらである。
「……僕はね、カーマロカの次期総帥が誰だろうがどうでも良いんだ。でも、あいつに手は出させない」
凛と声を響かせた少年は首領の命により、アイジャの義兄の役を務めている――ギルヴィートが聞いた噂は本当のことだった。だからユリシーズはファンダルスに近づくことを許されているのだろう。たかが、そんな理由だけで。
アイジャを、継嗣を守ろうとする少年はギルヴィートにとって邪魔でしかなかった。その仕事ぶりを見たことはないが公爵なのだ、無力な偽物継嗣より戦闘能力は高いのだろう。目障りだ、と男は思う。
「こうしている間にも下賤の輩が殿下達のお命を虎視眈々と狙っているのでしょう。屋敷から逃がしたところで時間稼ぎにしかなりません――ならばいっそ小生に、」
「……ハッ、お前もその仲間だろうギルヴィート!!」
口を歪めて声を荒げる、ユリシーズの脳裏に一人の男が浮かんだ。ダウマンという、先日少年を訪ねて来た人間だ。階級は《子》、彼はウォルディの居場所を知りたがっていた。あれはアイジャの存在を知らない、ウォルディの命を奪わんとするグループの人間だったのだ。
そろそろ潮時かもしれない。ユリシーズはとうに悟っていた。――それでも、選ぶ時間を与えてやりたかったから。
「かのような者と一緒にされては困ります、小生の一派は穏健派ですよ。幼子の命を奪うなど正義に反する――ただ継嗣の存在を、手の内に収めようと言うだけ」
「……どうやって?」
胡乱な眼差しを向ける少年を嘲笑うかのようにギルヴィートは目を細めた。血を流さない大人のやり口は、まだ彼には理解できないかもしれない。
「なに、あと二年もすれば殿下も子を孕める年になる。カーマロカの実権をそのまま、我らへ戴くのですよ――長い目で見ることになりますが」
「………ッ、下種め!!」
吐き捨てた少年の肩にやんわりとギルヴィートは手を置いた。成長途中の身体はまだ細く華奢だ。
このまま一捻りに、できてしまいそうなくらい。
「――小生と穏便な取引をなさる気はありませぬか、無駄な犠牲が出る前に。不粋な連中はろくに頭も使わず、今頃偽の継嗣を追っているでしょう。ウォルディ太子のお命も危ぶまれますな!」
ははは、低く笑った男の声を合図とするかのように、ふらりとユリシーズが立ち上がった。声が壁に吸い込まれた後は、どうにも奇妙な沈黙が残る。
「………公? どうなされた」
俯いたまま口を閉ざしている少年の、違和感に気付いて声を上げる。するとギルヴィートの手を肩から払い除け、ユリシーズはゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥で、何かが揺らめく。
「ギルヴィート伯爵。何故僕がアイジャの義兄を言い付かったか、教えて差し上げましょうか」
突如丁寧な口調になったのが、逆に気味が悪かった。悪寒に一歩退いたギルヴィートの眼にニコリと笑った少年の顔が映る。
その白い腕がすっと前に差し伸べられた。瞬間、掌で爆ぜた何かにギルヴィートは目が眩む。痛いほどの鮮烈な光を帯びたそれが火花だと気付いたときには、渦巻く球体の火の玉に成長していた。
(これ、は?)
ギルヴィートは我が目を疑う。空気を巻き込んで大きく燃え上がる炎は、少年の手の内より生み出されたものであった。彼の意のままになる灼熱。この奇跡を、ギルヴィートは知っている。
……一度だけ、見たのだ。あのダンカがまだ戦地で功績を上げていた頃、彼の身体からほとばしった煉獄の焔を。
「何故だ……!」
何故この子供が、ファンダルスの力を。
疑問は声にならなかった。唇を開いたギルヴィートの、喉の奥から凄まじい熱気がせり上がってくる。身体の内部が焼かれる感覚。悲鳴は熱に飲まれて炭化した。
「これを見て生きているのはドンとウォルディ、アイジャ、それからサブナックと僕の部下二人だけですよ」
他は全員、死んだってこと。
言いながらユリシーズは天使のように微笑んだ。芝居がかった仕草で礼儀正しく一礼した、少年の姿はもうギルヴィートからは見えない。身体中火だるまになりながらそれでも意識を保っていられたのは、ユリシーズが絶妙な力加減で調整していたからだ。
「死にゆく貴男に敬意を、カルノア・ギルヴィート伯爵」
ごうごうと音を立てていた炎が瞬間、一層激しく燃え上がった。一気に上昇した熱気で空気が揺らぎ、ぱちんと何かが弾けて消える。
「……お前は、僕の炎で焼け死ぬに相応しい下郎だった」
徐々に勢いを失った火は、ふっと掻き消えるように消滅した。静かに閉じられた少年の掌には、無論火傷の跡などない。
天井も床も一切を汚さぬまま、黒々とした炭灰だけがその場には残る。窓から吹き込んだ風がそれを巻き上げたのを一瞥し、ユリシーズは部屋を後にした。