第五章《迷霧》:洗礼と福音(2)
ルカ・ハーベントは見つからなかった。
一日に二人も殺される、それはどう見ても異常だった。闇に潜む殺人犯の活動が、活発化していることも想像される。ブリックマンの死からそんな観測を抱いたロアルと百瀬は、二人連れ立ってルカを探していたのだ。しかしそれは徒労に終わったらしい。ミクと名乗ったほうの少女でさえ、影も形も見当たらなかった。
こうなればオミを探すかもう一人、指定された少年の方に行くしかあるまい。一度部屋へ帰ると言う百瀬と別れて、ロアルは一人校舎の中を歩いていた。百瀬とは後でまた待ち合わせることになっている。
建物内は閑散としていた。授業が中止になっているのだ、普段なら辺りを賑わわせている生徒達も、教師陣でさえ自室に閉じこもっている。
嫌な感じだ、とロアルは思った。びりびりと痺れる、緊張感を孕んだ空気の流れ。何か、良からぬモノが動こうとしているのではないか。
それは勘ではなく確信だった。昔から少女は、この手のものに聡い。
上履きが動く足に合わせてぱたぱたと音を立てる。時折リノリウムの床を擦るゴム底の、きゅっという音が耳に付いた。
静かだ。生き物がいなくなってしまったような、この世に一人きりのような錯覚に囚われる。寮に帰ればきっと、大勢の生徒達がいるというのに。
「……?」
ふとロアルは顔を上げる。ほんの少しの、確かな違和感だった。
「だれ?」
疑問をそのまま声に出せば、ちょうど死角になっていた廊下の角からゆるり、一つの影が現れた。ロアルは首を傾げる。どこか見覚えのあるような顔は、彼女の記憶によれば二棟か三棟所属の男子生徒だった。
きっちり着崩されることもない制服と黒縁の眼鏡をかけている、一見あまりぱっとしない少年である。大勢の中にいれば目立つこともないだろうが、ロアルは今までに数回見かけていた。それも彼女の学園生活が長い故の結果だろう。
「第四棟の寮長ですね?」
「そうだけど……あなたは?」
話し掛けられて初めて知った、その声は存外に穏やかで低い。妙に老成した雰囲気に首を傾げる、ロアルの前で少年は続けた。
「内藤紀一、と言います」
「はぁ」
「――――仲間からは、【ゴスペル】と」
…………え?
唇だけ開いて硬直した、ロアルの眉間に銃口が突き付けられる。引き金に手を掛けているのは目の前の少年――内藤紀一、だった。
「仕事なんで。すいませんね」
頭の中が真っ白になる。何も考えられなくなったロアルを見つめながら、少年は申し訳なさそうに呟いた――その顔は、笑っていた。
しかし刹那、弧を描いていた彼の唇が不自然に歪められる。
「――! チ、」
容姿には似合わぬぞんざいな仕草で舌打ちし、内藤――否、【ゴスペル】が身体を捻って飛び退った。次の瞬間今の今まで彼が立っていた位置に連続して三本、何処からか飛んできたナイフが甲高い音を立てて突き刺さる。
一体何が起こったのか。思考を放棄してしまった頭で必死に考えを巡らせるロアルの、背後から新たな人間の声が聞こえた。
「ちょっと邪魔するぜー」
不敵な笑みを浮かべて【ゴスペル】と対峙する、見知らぬ少年をロアルは見つめる。ひゅっと腕を振ればその掌には、平べったいスローイングナイフが現れた。おそらくは袖口に仕込まれていたそれが、先刻自分を救ったに違いない。
そこでようやくロアルは、彼の正体に思い至った。
「あなた、“ルシファー”の……?」
「ご名答。――チトセ!」
ロアルをちらりと見て笑った少年が次の瞬間、壁に埋め込まれていた非常灯の一つを蹴り壊した。何を、と問う間もなく連動したように床の一部が割れて、そこから黒い棒状の物が吐き出される。
目を見開いたロアルの視界のなか、それを掴んだのは黒髪の少女だった。何時の間に現れたのかはわからない、少女はそれの張り出した部分を親指の先で押し上げる。黒と黒の隙間から、煌めく白銀が覗いた。
(刀、だ)
ロアルが気付いたときにはもう、チトセと呼ばれた少女の手には完全な抜き身の刄があった。常人では目にも止まらぬ速さで一閃、切り掛かった少女の一太刀を【ゴスペル】は正面から受けとめる。鈍い音がして切っ先が、銃の縁にめり込んでいた。
(……マズイな)
一瞬の攻防を目の当たりにした駿は小さく唸る。千瀬の第一撃は決して悪いものではなかったのに、相手は何処か余裕を残しているように感じられた。
EPPCのように、戦闘に特化したタイプの人間なのだろう。そしておそらくは一般人の出である駿や千瀬とは違う、特別な訓練を積んだ。
「アンタ、立てる?」
力を失って床に座り込んでいたロアルの腕を掴む。そのまま上へ引き上げて、駿は彼女を壁際へ押しやった。動くなよと念を押し、素早く“敵”へと視線を戻す。
全力でぶつかればこの人数差だ、息の根を止めることはできるだろう。しかしそれではいけないのだ、捕らえて口を割らせなければならない。殺さないほうが、ずっと難しいのである。
(だからこうしてフォーメーション組んでるんだろ)
独りごちてナイフを構える、駿の瞳に怜悧な光が宿った。千瀬の刀によって使い物にならなくなった銃を床に放り投げ、自称“内藤紀一”は短刀を構えている。何処に隠し持っていたのかはわからないが、千瀬が間合いを測っているのが駿にも良くわかった。
――あの千瀬が、飛び込んでいこうとしないほどの相手だ。
「……っ!」
刹那、息を呑む音が聞こえた。
力強く一撃、踏み込んできた相手に千瀬が応戦する。刃と刃の競り合う高い音が響いて弾けた。驚くべきことに力負けしたらしい、千瀬が僅かによろめいた隙を見て相手の少年がぱっと踵を返す。
しまった、思って駿の投躑したナイフは寸でのところで躱された。このままでは逃げられてしまう――――わけには、いかない。
「――そっち行ったぞローザ!」
駿の声に合わせて影から躍り出た、ロザリーは敵の退路を塞ぐように立ちはだかった。馴染みのリボルバーが銀色に輝く。
銃口を真直ぐに向けられて一瞬たじろいだ少年を、取り押さえようと駿が駆け寄る。
異変が起こったのはその時だった。寸分違わぬ正確さで狙い定めていたはずの、銀の銃口が僅かにぶれを見せたのである。気付いたのは駿だけではなく、標的となっていた本人もだった。
「ローザ!?」
「……っ、」
少女の際限まで見開かれた、銀灰の瞳が揺れている。その視界には壁際で立ち尽くす、銀髪の少女が映っていた。同じ色の髪、同じ色の瞳。
駿の声で咄嗟に我に返って引き金を引くも、弾丸はロザリーが照準を合わせた位置からかなり外れて壁を割った。その隙に横を擦り抜けていく敵に、少女は一歩たりとも反応できない。
「待て! ――おい、チトセ!?」
逃げた相手を単身追って消えていく、千瀬の後ろ姿と駿の声。深追いするなと叫んだ、彼の声は届かなかったらしい。
「……ローザ、どうしたんだよ」
小さく息を吐いて怪訝な面持ちを浮かべる、駿の方を見ることはできなかった。ロザリーはただ一点を凝視したまま動かない。その様子を見て漸く駿は、少女の目が何を映しているのかを知った。
「おい……冗談だろ……?」
笑うことすらできない、禁断の邂逅。良く似た容姿が鏡のように向かい合って場の空気を止めていた。何度も我が目を疑ってついに、二人の少女はお互いの存在を認める。
チャリ、と小さな音を立てたのは銀のブレスレットだ――あの血の錆びに塗れた。
「……おねえ、ちゃん」
呼ばれて身体を震わせた少女を、駿は目を見開いて見つめた。まばゆいプラチナブロンドは、ロザリーにも見られる特徴だった。
――第四棟寮長の名は、ロアル・E・ウィルヘルムという。
彼女はロザリーの、実姉だった。