第五章《迷霧》:洗礼と福音(1)
息を潜める。走りながら五感を研ぎ澄まして気配を探る、少女の目的地にはまだ遠い。“目的”そのものが移動しているのだ、無理もなかった。だから尚更、急ぐ必要がある。
いつも腰に提げている愛刀は、目立ちすぎて持ち運べない。生徒に紛れ込むため身に付けた制服のまま、慣れたブーツにだけは履きかえて疾走する。胸に隠した短刀だけでは心許ないが、時は一刻を争った。
連絡を入れたので、じきに少女の仲間もこちらに向かうだろう――間に合えば、良いのだが。
黒沼千瀬の前に“彼女”が現れたのは、数刻前の事だった。身を隠していたにも関わらず居場所をあっさりと突き止め、知らせがあるのだと告げた、彼女の正体を千瀬は知らない。
襟足をかなり短く切り揃えた髪の、細い体躯の少女。年の頃は千瀬とそう変わらないだろう。服は簡素なシャツとパンツの組み合わせで、それで生徒ではないのだと知れた。名を問えばたった一言、“ラムダ”と告げる。
困惑する千瀬に“ラムダ”は、簡潔に用件のみを伝えた。曰く、現在進行形で数名の生徒が命の危険に晒されている、と。
その“生徒”達が、ルシファーの協力者であることは千瀬にもすぐ理解できた。全部で何人いるのかも、一度見かけた“ショウジ アイ”以外はその顔と名前も千瀬は知らない。
「危険ってどういうことですか……?」
内情を知っているらしいその口振りから敵ではないと判断し、千瀬はラムダに向かい合った。感情の読めない瞳をしている、と声には出さず思う。その様子が誰かに似ているような気がした。
「わかりません。ですが、不穏な影が近付いているとのことです。私は貴女方にそれを伝えるよう、言われただけなので」
「それ、誰が……?」
淡々と敬語で話す、ラムダはどうやら何者かの使いらしい。見つめる千瀬の黒い瞳を、彼女は真直ぐに見つめ返した。
「――ルカ様です」
「ルカ、さま」
……あれ?
鸚鵡返しに呟いて首を傾げる、千瀬の脳裏を何かが過っていった。前にも一度、こんな会話をしたような気がする。はて誰だったか。
考えている最中についと踵を返して立ち去ろうとした、ラムダを千瀬は慌てて呼び止める。
「ちょっと待って!! ルカは何処に?」
「ルカ様は今、この“学園”内にはいらっしゃいません」
「え……?」
千瀬は目を見開いた。
こんな時に現場を離れているなんて。ルカは、今回の仕事のキーパーソンなのに。
「ある重要人物とコンタクトをとるためです。これ以上は申し上げられません」
「そんな……だってルカがいないと」
生徒達の位置さえ、わからないのに。
絶句した千瀬を一瞥して、今度こそラムダは背を向けた。去り際に一言、置き去りにして。
「“例の生徒達”の生死は実質ルシファーに影響ありませんが、ルカ様は貴女方に選択肢をお与えになりました。助けるのも見殺しにするのもお好きなように、と」
「――チトセ!」
廊下の角を曲がったところで走り出して来た少年と合流する。説明しろという言葉に促されて、足を止めることはないまま事の詳細を千瀬は語った。
大方聞き終わった後、袖口の仕込みナイフを確認しながら駿が小さく唸る。
「――じゃあその“ラムダ”って奴もルカの使いってことか」
「奴“も”?」
「……ちょっとこっちもな」
聞き咎めた千瀬に曖昧な返事だけ返して、駿はあのカイという少年のことを考えた。どうにも同じ匂いがする。ルカは自分の配下に、一体何を置いているのだろうか。
「つーかルカは? 何で本人が来ないんだよ、アイツが全員の位置を把握してるんだろ……!」
ルカは人間の気配を探って位置を把握する、探知機のような役割を担っている。千瀬は前に一度その能力について、ルードから聞いたことがあった。
彼女は自分を中心とした半径約五キロメートル以内にいる人間の動向を意識せずとも知ることができる。意図的に探れば、もっと広範囲でも可能だった。ただし、見ず知らずの人間に関してはその位置はわかっても、個人の特定はできない。一度接触した相手以外は“その他大勢”として一括りにされているため、あまり意識されることはないのである。
今まで死んだ者は全て、ルカが知らない人間だった。注意していなければ殺されるまで、その存在に意識を向けることもない。
しかし五十嵐沙南をはじめとする“七不思議班”のメンバーは全員、一度ルカと顔を会わせている。あの瞬間からルカは、彼女たち全員を監視下に置いていた。そして少女達に忍び寄る影に、いち早く気が付いたのだ。
「ルカは今、この島にいないんだって……!」
「なんだって!? こんな時に……ッ」
「人に会いに行ってるって聞いた。とっても、重要な人だって」
「ンだそりゃ、」
舌打ちしたい衝動を堪え、駿は前を見据える。わからないことばかりだ。動くなと言い捨ててウォルディの部屋に押し込めてきた、あの三人の少女も気に掛かる(冬吾が仰天していたがそれは無視した)。
「ルカは助けるか見殺しにするか、あたし達に選べって――」
「馬鹿! 問答無用で助けに行かなきゃヤバいだろお前、あの中に自分の姉貴がいるってわかってんのか!?」
「――――!?」
知らなかったらしい。
動揺を顕にした千瀬を見て、失敗したなと後悔するがもう遅かった。気を紛らわすべく、話題を逸らすことを駿は試みる。
「……つーか、ルシファーの協力者がピンポイントで狙われるのっておかしいよな。俺たちの存在を相手は知ってんのか?」
その“相手”が“オリビア”なる者なのかはわからない。調べるにも情報はゼロに等しいし、唯一の手がかりは二人揃って行方不明だ。
ルカにはオリビアという名前だけ、ウォルディの事を話した際に駿から同時報告されている。しかしルカ本人の反応は『ふぅん』と淡泊なもので、とても重要視しているとは思えなかった。“学園”に“異質なモノ”が入り込むことなど、よくある話なのだという。
「わかんないよ……」
へにゃりと情けない声を上げた千瀬を見て、ダメだこりゃ、と思う。やはり姉の話は地雷だったのだろうか、少女にとってその存在は大きすぎるのだ。元より容量の小さい頭が一杯になって、この先の動きに支障をきたすようでは困る。
「……心配すんな。俺は無駄な死人が出ることには反対だ」
「うん……」
「お前だって、最初から助けるつもりで俺たちを呼んだんだろ」
駿が言い終わるのと同時、二人の視界に銀髪の少女が飛び出してきた。ロザリーは片手に使い込んだ銃を握っている。大丈夫だというように、千瀬に向かって微笑んだ。
「チトセ、お前刀は」
「隠してあるの、取りに行きたいんだけど――」
“学園”内にいくつもの仕掛け扉があることは駿も知っていた。千瀬の指差した方向には、微かだが人の気配があるように思える。
ルカのいない今、生徒達の居場所を突き止めるには自分の感覚だけを頼るしかなかったが、間違いはないだろう。タイミングはギリギリに違いない、と駿は独りごちた。
「シャキっとしろよ、チトセ」
「――うん」
三人は走るスピードを加速させる。
何だか妙な心地だった。だって今回は、奪うほうではなくて。