第二章《模索》:神出鬼没(2)
やぁ、と彼は笑った。
二十代半ばぐらいだろうか、繊細な印象の青年である。襟足の長い髪は黒、肌の色は黄色人種を表す千瀬には見慣れた色だ。彼は色の濃いスーツを着流し、上品な微笑みを湛えたままちらりと千瀬を見下ろした。
「アレキサンダー、ちびちゃんが居なくなっちゃってね」
青年は困ったように笑みを浮かべると、躊躇いなくレックスの巨体に触れた。そのままレックスの背中を勢い良く覗き込む。うーむ残念、と声。
「君には懐いてるからここにいるかと思ったんだけどね……違ったみたい」
彼は大袈裟に首を竦めてみせると、お邪魔しました、と素早く踵を返そうとした。刹那呆気にとられる千瀬の後ろから、青年に向かって駿が大声を浴びせる。
「おい、イチハラ! ドアから入って来いっていつも言ってんだろっ」
「シュン君が気付かなかっただけじゃない? ちゃんと、ドアから入ったかもしれないよ」
ね? と首を傾げながら青年はにこりと笑う。気持ち悪いと叫ぶ駿の言葉は彼の耳には届いていないらしい。
「じゃあ、もしルードが来たら教えて。……あ、そうそう」
青年はその場でぽんと手を叩いた。軽やかにUターンすると、茫然とする千瀬に向かって手を突きだす。そのまま半ば強引に握手。
「よろしくー。俺は市原 恭吾。キョーゴって呼んで」
シュン君みたいにファミリーネームの呼び捨てはやめてね、シュン君ってば俺には冷たいんだよ傷つくよねー。
目を瞬かせる千瀬に言うだけ言うと、恭吾は満足したようにゆっくり歩いて部屋を出ていった。
ひらひらと、それは爽やかに手を振りながら。
「……俺、あいつだけは苦手だ」
虫が合わないとか性格が違うとかそれ以前の問題だ、と虚しそうな声で駿は呟く。それから深い溜め息。
「あの人、上から降ってきた」
千瀬が言うと、少年は腕を組んで頷いた。
「だよなぁ。いつもそうなんだ、あいつ。突然現れてさ。絶対ドアからは入ってねぇんだ。ここの天窓は小さすぎるし……やっぱりマジかもな」
「何が?」
「〈マーダラー〉以上は全員能力者、って話が」
千瀬は目を見開いた。確かにその話には覚えがあったが、でも。
「あの人〈マーダラー〉なの? 〈ソルジャー〉じゃなくて?」
マーダラーとは千瀬の所属するEPPCの、千瀬達より一つ上の階級のことである。マーダラーの人々をもっと年配の屈強な男性(いかにも、という風体の)と想像していた千瀬にとって、恭吾は余りにもそのイメージとかけ離れた存在だった。
ロヴといいルカといい、この組織の人間は皆常識からにずれているように感じる。(あくまでも少女の中での常識、だが)
「どちらかといえば上品そうなのに」
「……上品? 冗談だろ!」
少女の独り言に反応した駿が、あいつの腹は真っ黒だと吐き捨てた。
では以前駿が言っていた『神出鬼没』は恭吾のことなのだ、とぼんやり千瀬は思う。
「〈マーダラー〉ってことは仮にも上司なのに」
今だに恭吾への悪罵を吐き出し続ける駿を見やって千瀬は呟く。階級内の権力に差は無いとはいえ、一応の敬意は払うべきではないのだろうか。
――そこまで考えて少女は思考を諦めた。彼が首領にでさえそうだったのを思い出したからだ。
「なに、かまやしないさ」
駿の代わりに答えたのはレックスだった。千瀬は振り返り、彼の目を真直ぐに見つめる。その揺るぎない視線に思わず大男はたじろいだ。
「……レックス」
「お、おう」
「“アレキサンダー”って誰」
「…………………俺」
レックス――否、アレキサンダーは苦笑した。
*
名前が嫌だったんだ、と彼は語る。
「昔から思ってたんだよ、俺には合わねぇって。そしたらな、ルカがこのあだ名を考えてきた」
まだガキの頃の話だと彼は笑った。目を懐かしそうに細め、ひどく楽しそうに。
「チトセはレックスって呼んでくれよ。キョーゴが本名を呼ぶのはただの嫌がらせだ」
そういうと、レックスは何か書いたメモを千瀬に見せる。彼が持っていると、標準サイズの鉛筆も竹串のようだ。
千瀬はメモに書かれているアルファベットを目で追った。
(Alexander、Alex、Lex……Rex)
どうやらこのニックネームは、連想ゲームの様な過程を経て完成したらしい。それにしても随分と手の込んだ。ルカが考えたということは、ルカとレックスは幼い頃からの知り合いなのだろうか。
「ガキが考えたにしちゃ上出来だろう?」
レックスは満足気に笑む。アレキサンダーと言う名はこの組織に入るとき捨てたようなもので、彼はもう『レックス』と言う存在なのだ。恭吾はわざわざ掘り返して楽しんでいるけれど。
アレキサンダーと言う名の何が嫌だったのかはわからない。尋ねようとして少女は僅かに迷った。……立ち入ったことを無闇に聞いてはいけない。
「そう言えばチィ、お前は」
「え?」
「お前の名前さ。俺には漢字はわからないが、どういう意味があるんだ?」
日本人はその漢字一文字に意味を込めるらしいな、と男は言う。それは純粋な好奇心、詮索などではない。――けれど少女は答えに窮してしまった。
「あたしの、名前?」
この『瀬』という字を名に使うのが習わしだったと言えば男は納得するだろう。納得できないのは千瀬のほうだ。
意味。この名の意味なんて知らない。気付いたらそう、何時の間にか―――――
少女の思考はそこまでで中断された。聞こえたのは、耳を抉るようなけたたましい音。彼らが監獄と呼ぶこの部屋いっぱいに、甲高いサイレンが響き渡ったのである。
「……仕事だぜ」
駿が静かに立ち上がった。