第五章《迷霧》:ラワンデルの香りを(1)
ラベンダーが揺れている。
濃い芳香と薄紫の絨毯、最初で最後の穏やかな記憶。
失ったものは、何?
*
不機嫌を絵に書いたような顔だ。
駿を見た瞬間、ロザリーはそう思った。少年の背後には何故かラベンダー。茎を手折られた後に糸で縛り、逆さまに吊してある。ポプリでも作る気なのだろうか。
……駿が?
「ンなわけねーだろ」
心の声はどうやら外まで漏れていたらしい。眉間に深く皺を刻んだまま呟いて、駿はラベンダーに目をやった。嫌な匂いだ、呟けばロザリーが、そう? と首を傾げる。
「……俺は嫌いだ」
あの家にはずっと、ラベンダーの芳香が満ちていたから。
「変なのー」
心底不思議そうに言うロザリーを黙らせる。二人が今いるのは寮内の駿の部屋で、播磨亮平は部活動のため留守にしていた。亮平とロザリーを会わせずに住むので、状況は丁度良い。この後部屋に来ることになっている千瀬とは、なおさら会わせるわけにはいかないのだが。
駿の不機嫌の原因はこの似合わないラベンダー(学校の庭に生えていたものを綺麗だと言ってウォルディが摘んだ)(あげく他人の部屋に吊して消えた)の他に、今から千瀬の持ってくるであろう知らせにあった。組織上層、つまりルカ達からの司令である。
嫌な匂いがした。
「来た」
ぴくり、ロザリーが顔を上げる。同時に駿のネクタイが、内蔵された感知機によってブルブルと振動した。程なくして小さなノックの後、ドアの隙間から見慣れた顔が覗く。
「入れよ」
「お邪魔しまーす……」
鍵を掛けろと言われるのに従って手を動かした後、千瀬は物珍しそうに部屋の中を見回した。生徒として正規の入学手続きをしていない、千瀬には部屋があてがわれていない。故に彼女がゆっくり寮を見るのは今回が初めてだ(アイジャの部屋を訪ねたときはそんな余裕無かった)。
「……で、上は何だって?」
「“予定通りに”って。……ルカとミクが、例の生徒達と接触したらしいの」
わお。声を上げたのはロザリーで、駿は苦い表情を浮かべただけだった。
事前にミクから話を聞かされてはいる。不穏分子の早期発見の為に、生徒を数人ルシファー側に抱き込もうというものだ。駿は反対派だったのだが、無論逆らう権限など持ち合わせていない。
「例の、ってアレか……七不思議を調べてるとかいう物好きな奴ら」
「ななふしぎ?」
「何だチトセ、お前知らねーの」
千瀬は首を傾げた。七不思議、と言う響き自体には覚えがある。それと今回選ばれた生徒達に何の関係があるのだろうか。
例の生徒というのは、千瀬がアイジャの部屋ですれ違った少女(後の調べで名前は判明した)を含むグループのことである。彼女達は清川芽衣子の死因を、その裏に潜む影を、探していたのでは?
「なんでも元々、“学園の七不思議”っつー妙なモンを調べて学園展で発表するつもりだったんだと」
「へぇ……」
「一年くらい前から“学園”に生徒として潜り込んでる奴が何人かいてさ、そいつから上には随分前から報告が行ってたらしい」
「そうなの!?」
では既にルカ達が目を付けていたグループと、今回千瀬が報告した人物の所在が偶々一致したというわけか。偶然て怖いな、千瀬は呟く。
それにしても、一年も前から組織員を派遣しているとは。ロヴの周到さに恐れ入る、とこの場にいた誰もが考えた。
「……じゃあ、あたし達の知らない仲間がまだここにはいるんだ」
「帰還したらそいつら全員だって聞いたぜ」
「へぇ……あ、」
思い出した。言いながらぽんと手を打った千瀬を駿が見つめる。この少年に伝言が一つ、あったはずだ。
「えーと……『生徒達には連絡中継先として武藤駿を指定してあるのでヨロシク』ってミクが」
がん!
駿が机に額をしこたま打ち付けた音である。痛そう、と呟いたロザリーの横で瞬間がばりと顔を上げ、少年は叫んだ。
「ふっざけんな!!」
「暇が出来しだい挨拶に行ってね、とも」
「行くかァァァ!!」
俺は絶対会いたくない。言いながらぜぇぜぇと肩で息をする。落ち着かせるように少年の背を撫でながら、別に良いじゃん、とロザリーが呟いた。
「女の子と友達になれるかもよー」
「ばかやろー、ンなことどーだって良いんだよ。……お前等、俺が何で生徒巻き込むのに反対してたかわかんねェの?」
二人して首を傾げる様を見て、駿は長い溜息を吐いた。このぼんやり思考の少女達は、駿には些か荷が重い。
「あのさァ……考えてみろよ。一般人を巻き込む前に、もっと使えるやつがここにはいるだろ」
「どういう意味?」
「ルシファーの言いなりに動ける人間が、さ。少なくとも三人はいる」
「……あ」
自分達の姉妹の話をしているのだ。気付いた千瀬はロザリーと顔を見合わせた。何も知らない一般の生徒まで使おうという時に、貴重な駒を無視しておくルシファーではない。
「お前らの姉ちゃんにも俺の妹にも、もう協力命令が出てるんだろうな」
「そんな……」
姉を巻き込んでいる。気付いて千瀬は顔を青ざめさせた。それはロザリーも同じだったようで、灰色の瞳を限界まで見開いている。
「俺たちはこっちの都合で勝手に巻き込んだ相手を、更に危険な状況にぶち込んだ」
「で……でも、シュン。妹さんに会えるかもしれないじゃない」
「どのツラ下げて会えっての……」
お前たちは胸張って再会できるのか?
真っすぐな問い掛けに少女達は息を呑んだ。悩まなくてもわかっている、答えは否だ。
会いたいという気持ちはあるけれど、
(姉さんの世界を壊したのは、あたしだ)
千瀬はぎゅっと拳を握り締める。会えない。一年と少しの時間では、罪を償う術など見つからなかった。それどころか数多の人を殺め、血のうえに血を塗り固めて。
ちゃり、と金属の擦れる音がした。ロザリーが身に付けたブレスレットを、手首ごと握り締めている。
「……あたしもお姉ちゃんも、ルシファーに感謝してるよ。だって迎えが来なかったら、死んでた」
「ローザのとこはそうなんだろ。チトセだって。お前らは多少後ろめたくても姉貴達に会ってくれば良いよ――俺は」
俺は、駄目だから。
ぽつりと落とされた言葉に顔を上げる。千瀬の視線の先、駿は何かを堪えるように俯いていた。
あいつはルシファーを恨んでる。俺になんて会わないほうが、幸せに生きていけるよ。
落とされた言葉には、哀しみが滲みだしていた。
「そんな……! だって妹さんにとって、シュンはたった一人のお兄さんでしょう!?」
「一人じゃ、ねーよ。俺の上に二人いる。俺、実は三男だから」
突然の告白に目を見開いたのは千瀬だけではない。初耳だと呟いて、ロザリーは恐る恐る問い掛ける。
「その人達は……?」
ああ、と。
言いながらふと笑った駿が何を考えていたのか、少女達にはわからない。
「…………俺が殺した。もう、三年も前の話だ」
ラベンダーの香りがする。部屋一杯に紫の霧を漂わせて、脳の奥を揺さ振って。
あの日泣いていたのは、誰だったのだろうか。