第五章《迷霧》:Unknown‐Unknown(2)
* * *
「――クッソ!」
一人悪態を吐いた男の声は、虚しく夜の校舎に吸い込まれてしまった。こんな夜中に呼び出されて、年下の同胞に偉そうに命を下されれば頭にもくる。しかし世は実力主義だ。逆らう権限を持たない自分が、最も腑甲斐ない。
男は仲間内では、【コンタツ】というコードネームで呼ばれていた。ロザリオを指す神聖な名であるが、どうにも響きが悪い。日本語の“ポンコツ”と音が似ている、そう言って嗤ったのは【ミリアム】の名を与えられた生意気な少年だった。思い出して、【コンタツ】は苛々と頭を掻く。あれは仲間内では最も技術に長けた人間だ。小憎たらしいことこの上ない。
(……さて、どうするか)
【コンタツ】は目を細めた。目の前には死体が一つ、今宵の犠牲者である。胸には小さな穴が一つ開いていて、他に絶命の原因は見当たらなかった。
弾丸はきっと体の中心、心臓に食い込んで止まっているのだろう。出血は最小限に押さえて最大のダメージを与える、この技術こそが【ミリアム】の強みだった。あの少年が重宝される所以だ。
対する【コンタツ】も先日一人始末したのだが、どうにもそちらは不格好であったように思う。派手な出血のわりには一撃で仕留めるに至らず、その場所も悪かった。全ての行動は仲間の一人である、“目”と呼ばれる監視役に報告することになっているのだが、気乗りはしないというものだ。
一つ伸びをして【コンタツ】は、死体の纏う服に手を掛けた。ずるずると引き摺り担ぎ上げれば、彼よりは小振りの体躯は床から完全に離れた。
これからこの気の毒な元・生物を、適度に人目につく場所に移動する。現在地は人気が余りにも少なくて、下手すれば死体がこのまま朽ちてしまうからだ(【コンタツ】はそれでも構わなかったのだが)。
どこにしようかと考えを巡らせる。先日彼が犯した失態のように、目立ちすぎる場所ではいけない。
――立ち去る彼の後ろ姿を見つめる瞳があったことに、【コンタツ】は終ぞ気付かなかった。
* * *
「なにこれ……?」
少女たちが覗き込む中、テーブルの上に沙南は封筒の中身を広げていく。写真だ、と双子が声を合わせた。
「ずいぶん古いですねェ……」
誰でしょうコレ。言いながら、うるきが一枚の写真を摘み上げる。沙南にもわからない、それに写っているのは一人の男だった。
燕尾服をかっちりと着込んだ彼の顔に笑みはない。モノクロの為にはっきりとはしないが、どこか建物が背景になっているようだった。
「こっちは……同じ人?」
愛がぺらりと写真を持ち上げる。同じ顔つきの男が少しだけ老けて、そこにはいた。隣には見知らぬ女性が立っているが二人とも無表情で、不機嫌にさえ見える。
その後も“男”の写真は何枚か続いた。それは単独であったり、誰かと一緒であったりと様々。男の年齢は写真ごとにばらばらで、年老いたり若返ったりしている。
――と、ふいに写真を検分していた絹華の手が止まった。
「……あの、これ」
「どれ?」
差し出された写真を目にした、全員が息を呑む。
それは今日初めて見る、人物の写っていない写真だった。一見風景画のようにも見える、セピアに色褪せた海。その中心にぽっかりと浮かぶ黒い影の正体を、少女達は瞬時に悟った。
「この島だ……」
その姿をはっきりと見たことはない。“学園”に入学する者は全て、フェリーの中から外を見ることなど無いまま島へと連れてこられたからだ。
それでもわかる、それは直感に似た確信だった。これは外から見たこの島だ。少女達の世界を形成する、孤島の檻。
「待って、裏に何か書いてある」
絹華の手の内から抜き取って裏返す、愛の眉が僅かに寄った。何これ。落とされた呟きを拾って、皆その裏面を覗き込んだ。
消えかけた、滑らかな筆跡がアルファベットを紡いでいる。
“Erinyes‐Gloria”
読み取りづらい筆記体に皆が頭を悩ませる中、ロアルがぽつりとそれを読み上げた。
――エリニュエス=グロリア、と。
「えにゅ……?」
聞き取れなかったのだろう、愛がしかめっ面で首を傾げた。それを見て小さく笑みを零し、ロアルは再び口を開く。
「“gloria”は聞いたことあるんじゃない? 良くミサとかで歌われてる」
「ああ、“栄光あれ”ってやつデスね」
グローリア、グローリア。軽く旋律を浮かべてみせるうるきにロアルが頷く。キリスト教徒でもなければミサに参列した経験もないその他のメンバーは、ただ目を白黒させるばかりだった。
「“Erinyes”はギリシャ神話の、復讐の女神のこと。一人ならエリニュス、複数ならエリニュエスと呼ぶの――だからこれは後者ね」
「……はぁ」
「復讐?」
「そう。蛇の頭髪で翼を持ち、鞭と炬火で罪人を追求するの。【アレクト】【メガイラ】【ティシフォネ】の三姉妹を合わせて“エリニュエス”と呼び、彼女達は特に尊属殺人に対して厳しく報復する」
ぽかーん、という音の似合う顔を全員が浮かべていたことだろう。当たり前のことを語るようにすらすらと述べた、本人はどこか遠くを見つめていた。
「……良く知ってるね、そんなこと」
感心した様子の沙南に、ロアルは曖昧な笑みを浮かべる。どこか困ったような表情だった。
「うん――うち、こういうの詳しい家柄で」
「……そうなんだ」
沙南はぱちぱちと目を瞬いた。たった一言だが、ロアルが自らの生家について語ったのは初めてのことである。
そんぞくさつじん、って何。話について行けず目を回す愛の問いには、丁寧にうるきが答えをやっていた。殺人は殺人でも、血縁者を殺してしまうことデスよ。
「んでこの、エリなんたらってのは何なわけ」
「エリニュエス=グロリア、ね」
面倒になったらしい愛の言葉を沙南が訂正する。質問に答えたのは、今度は百瀬であった。
「それなんだけど――たぶん、島の名前なんじゃないかしら」
「名前ぇ?」
首を傾げた愛の目の前でばさり、一冊の本が開かれる。分厚く古びたそれはあの禁書庫から持ち出したもので、唯一島に関するらしい記述を発見できた物だった。
英語で記されたそれを読み解いたのはロアルである。彼女の口からは昔この島が軍事施設として使用されていたこと、そして当時この場所ではある神を盛んに讃えていたらしいことが語られた。
「軍事施設とは言っても――最終的に、それに関する罪人を裁く場所になってたみたい。島に懲罰用の地下牢があったって」
「なーるほど、それで“報復の女神”なんですネェ」
「ち、ちょっと待ってよ! “学園は元軍事施設”って本当だったの?」
嘘みたい、口を揃えて双子が呟く。沙南とて信じられない気持ちで一杯だったが、もう何だって受け入れるつもりでいた。
それにまだ写真は残っているのだ。おそらく本当に問題なのは、ここから。
「……次はこれ、見てくれる?」
事前に確認して一纏めにしていた、数枚の写真を差し出した。裏を向けて渡したのは、それを目にした瞬間の衝撃が未だ抜け切っていなかったからだ。
写真を表に返した瞬間、少女達の眼が限界まで見開かれる。小さな悲鳴を上げたのは薫子だろうか。あとは全員、身動ぎ一つできない状態だった。
「なに、これ……」
五つぐらいだろうか。そこに写っていたのは一人の、まだ年端のいかない少女であった。色の無い写真でもはっきりとわかる漆黒の髪が肩の辺りまで伸びていて、瞳はそれと同じ色をしていた。白い肌と服と、その黒とのコントラストが目に痛い。
その少女の頬に黒い影が付着していた。もしこれがカラー写真ならば、鮮やかな紅をしていたに違いない。おとがいから首を伝って胸の辺りまでをべっとり染め上げた血液は、こちらを見据える彼女のものではないのだろう。小さな足を浸している血溜りは明らかに、人間一人分の致死量を越えていた。
「この子、何なの……?」
何故カメラの主はこんな写真を撮ったのだろうか。シャッターが切られた瞬間の、現場はどのような状況だったのか? 能面のように表情を失っている、少女の写真は何枚か続く。
妙な気分だった。
まるで一人の人間の成長を、早送りでみているかのような。写真の中の少女は少しずつ年を重ね、美しく成長してゆく。たいていの写真にはさっきまでよく見かけた正体不明の男が隣に立っていて、他何枚は彼女と年頃の近い、見知らぬ少年少女達と一緒である。切ったことが無いのだろうか、伸びることをやめないその髪は嫌でも目を引いた。
うち一枚などは日本の着物を身に着けていて、まるで市松人形のような風体である。日本人とは違う顔つきがどこか、幻想的でさえあった。
黒髪の少女が十歳前後まで成長してからは例の男の姿がぱったりと途絶えてしまい、何があったのだろうか、その後は終ぞ姿を確認できなくなる。現在の沙南達と同じ位の年齢まで成長した少女の姿は、誰もが知る一つの噂を連想させた。
腰の辺りまで伸びた長い髪とぬばたまの瞳。凝縮した闇を宿らせた、彼女は。
「少女の、亡霊――」
誰にともなく呟いた愛の、言葉の響きが全員を震わせた。絹華などは写真を凝視したまま、ぴくりとも動かない。
「……まさか」
「だってそんな――、」
口々に否定を並べながら、しかし全員が理解していた。ロアルと百瀬が無言を貫いていた、それが証拠だったのかもしれない。
“学園”を騒がせる“亡霊”は彼女なのだ。その存在は本当に霊魂の類なのか、はたまた。
「あれ? まだ一枚残ってた」
沙南の手の動きに合わせて揺すられる、茶封筒からひらりと一枚落下する。そこに写っていたのはあの初老の男と、それを取り囲む六人の子供達だった。
幾分か前の写真なのだろう、例の少女も幼い。なぜかこれ一枚だけは鮮やかな色がついていて、モノクロとセピアの海の中では一際異彩を放っていた。
黒髪の少女は中央の椅子に腰掛けた件の男の膝の上、抱えられるように座っている。その左に銀髪の少年、右には金髪の少女が見事な対になって立っていた。その後ろに並ぶ三人のうち、両端の二人は若干年上のように見える。活力に溢れた笑顔を浮かべる大柄な少年と、淡く微笑む金の巻毛の少女だ。中央、椅子の真後ろに立つ少年は僅かに背が低い。
「この子、何だかマリリンに似てませんかネ?」
「まりりん? ……ああ、マリアのことね」
うるきの指差した右端の少女の、柔かなウェーブは確かに似ていた。映画研究サークルの部員の一人、マリア・ウィンチェスター。写真なので良くはわからないが、穏やかな顔立ちもどこか似通った部分を感じさせる。違うのは瞳の色で、写真の少女が深紫なのに対しマリアは波璃のような青だった。
「この男性は、どちらサンなんですかネェ?」
写真を検分しながら呟いた、うるきの声にロアルが顔を上げる。たぶんだけど、“学園”の初代理事長。彼女の言葉に今度は沙南が目を丸くする番だった。
「え、ええ!? 本当に?」
「オミが言っていたでしょう、あの部屋の物は全て彼の私物だって。だとしたら――」
「それは……そうかも」
「だとしたらこの子達、理事長殿のお子サンですかネ?」
「こんなに? 血縁だとしても年齢的には孫っぽくない?」
闇を切り裂くような甲高い音が聞こえたのはその時だった。一斉に顔を上げた少女達の耳が拾い上げる、それが悲鳴だと最初に気が付いたのは絹華だ。
何かが起こった。今この状況でおとなしく布団を被っていられるほど、彼女達は呑気ではない。
「絶対一人にはならないで!」
ロアルの声に従って一塊に廊下へ飛び出す。乱雑に封筒へと詰め込んだ写真は胸に抱えたまま、沙南も皆の後を追う。
急いだせいで誰も気が付かなかった。最後の写真の裏には消えかけた、小さな文字が綴られていた。
“堕天使達に祝福を”