第五章《迷霧》:屍の謳(2)
『ゲームをしないか?』
***
ウォルディ・レノ・ファンダルスが少年に持ちかけた“ゲーム”とは、何の変哲もないチェスであった。
ウォルディは駿を部屋に招いて椅子をすすめた後、隅に置いてあった古いトランクから盤と駒を取り出す。負けたらペナルティーね、内容は勝者が決めよう。矢継ぎ早に言われることに無理矢理頷かされ、話の流れがとんと見えない駿は目を白黒させたまま、気付けば相手に乗せられ駒を手にとっていたのだ。
「――はい、チェックメイト」
ウォルディから晴れやかな声が零されたのは、ゲーム開始からものの十分も経たぬうちであった。無理もない、駿は生まれてこの方チェスなどというゲームに親しんだことのない――正真正銘の、初心者だったのだから。
「俺の勝ちだね、シュン君」
「……ちょ、ちょい待てェェェェ!!」
にこにこと柔らかい笑みを向けられて漸く、駿は自分の置かれた状況を思い出した。我に返った途端大声で叫べば、何どうしたの、と呑気な返答がある。
「どうしたの、じゃねェよ! 何これどーなってんだよ、何でさっきの話の流れからこうなるんだよ!?」
「えぇ? ゲームをしようって誘ってチェス。何か問題でも?」
穏やかな、しかし底の知れぬ笑みを浮かべる相手をシュンは睨み付けた。
――ウォルディという少年は、“ただの生徒”ではない。それは駿とて同じことだ。お互いにそれを知った上で(駿の場合不本意ながら知られてしまったわけだが)向かい合っている今現在の状況は、駿にとって危険極まりなかった。
……こいつ、何を企んでいる?
予断を許さぬ事態に在りながら打開策を見つけられない、駿の葛藤を知ってか知らずか、ウォルディは愉しげに口を開く。
「ペナルティーは、そうだねぇ。俺の言うこと、シュン君には三つ聞いてもらおうかな」
「……てめェ、」
ハナっからその気だったのか?
低く唸るように言えば、とんでもないとウォルディは苦笑する。しかしそれは嘘だろう。彼は最初から、自分の勝利を確信していたに違いなかった。
(しかも三つかよ)
言うことを聞く、は言い足せば、“何でも”という言葉が来る。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、しかし駿はそれ以上異論を唱えなかった。
負けは敗け、一度受けた勝負に待ったはありえない。物事に真直ぐ体当たりでしか取り組めない少年の、哀れな性分だった。
「じゃあ、早速一つ目をお願いしようかな。……来てくれるよね、シュン君」
*
ウォルディに連れられてやって来たその場所に、思わず駿は眉をひそめた。そんな彼にはお構い無しで、目の前の人物は飄々としたままである。
“学園”南方一階、正面エントランス。今やここの生徒誰もが知っている――昨晩、この場所で一人の男が死んだ。否、正確には“殺された”のだ。
「ここでの事件は聞いてるかな?」
「……皆、知ってんだろ」
死んだのは警備員であったという。遺体を目撃した者の話を照合すれば、死因はおそらく出血多量によるショック死だ。
大きなブルーシートで覆われている床は、本来なら起毛絨毯が艶やかな光沢を見せているはずだった。今はきっと、こびり付いた血痕で汚れている。
「シュン君。警備員を殺した人物に、心当たりはないかな」
「……探偵の真似事でもしようっての?」
返す言葉を慎重に選ぶ。胸中の動揺を悟られぬようにしながら、駿は真直ぐウォルディを見据えた。
どこまで知っているのか、どこまで知られているのか、そして彼は何者か。ウォルディという人間に対する情報は、あまりにも少ない。
「シュン君、君は本来ここの生徒ではないようだけど」
隠しても無駄だとわかっていたので、その問いには頷いた。満足げに笑って、ウォルディは再び言葉を紡ぐ。
「少し前に死んだ、清川芽衣子という生徒がいたね。今回警備員を殺した奴と、彼女を殺した奴は同一だと思ってる」
「……清川の死因は生徒に隠されてたはずだぜ」
「ふふ、君がそれを言うの? 見に行ったくせに。射殺だったね」
――つけられていたのか。
ウォルディの言葉を聞いて駿は思い切り舌打ちをした。どうやらこの少年は駿が気付くよりずっと前に、駿についてかぎ回っていたらしい。それから一連の殺人についても。
(……マズイな)
駿の背を嫌な汗が伝っていった。ウォルディは駿や千瀬から、“ルシファー”という巨大犯罪シンジケートに辿り着いたのだろうか。
「正直に答えてほしいな。彼らを殺したのは、君の仲間かい?」
「……ちげェよ」
これは本当だ。清川芽衣子と警備員を殺したのは、少なくとも“ルシファー”ではなかった。犯人ならばこっちが知りたい、と駿は思う。
彼の返答に対してウォルディは、だろうと思った、と呟いただけだった。疑われているわけではないらしいと気付いて、駿は怪訝な面持ちを浮かべる。
「お前……?」
「俺は理由あって、ある犯罪者を追っている。清川芽衣子と警備員を手に掛けたのは、おそらくそいつだ」
――“オリビア”を知ってるかい?
問われた名に心当たりなどなく、正直に駿は否と答えた。片眼鏡の奥、ウォルディの瞳が深い色を帯びる。
「女の名前……?」
「女だ、と言われている。姿をはっきり見た者はいないらしいけれど――今回、それがこの“学園”に入ったとの情報を得た」
「何でここに、」
「言い伝えがあるそうだね。“学園”に隠されている“何か”――あながち、嘘ではないみたいだ」
オリビアの狙いはそれだよ。
やんわりと吐かれた言葉に駿は表情を曇らせた。“ルシファー”側の捜し求める“何か”と、“ツネヒコ”なる人物のことが頭を過る。まさかそれと、関係が?
「一説によれば、オリビアは殺しのエキスパートだ。邪魔者は容赦なく排除する。生徒だろうが、教師だろうが、警備員だろうが」
「それって……!」
「もたもたしているうちに、二人も死者が出ちゃってね。捕らえて裁くのが俺たちの役目なのに」
「……俺“たち”?」
問えば、仲間がいるのだとウォルディは笑う。この学園内にいるのさ、君たちみたいにね。
ぐっと言葉を詰まらせた駿の肩を、ウォルディはぽんと叩いてみせた。
「シュン君達については、今のところ興味無いから心配しないで。もしかすると俺たちの敵かもしれないけれど、俺はここで任務を遂行するだけ」
「……お前は、何者なんだ? 任務って――」
「そこは黙秘しようかな。オリビアを裁くのが俺の仕事だから、ここに来たんだ。……まあこれは“表向き”だけど」
悪戯っぽい笑みを浮かべるウォルディのことが、ますます駿はわからなくなる。一先ず敵として、急を要するわけではなさそうだが。
「表向き……?」
「俺が“本当に戦わなくちゃならない相手”は、別にいるから」
おっと、お喋りが過ぎたね。
言ってウォルディは気を取り直すように正面を向いた。その目に駿を映し、有無を言わせぬ口調で告げる。
「もし君や君の仲間がオリビアについて情報を得たら、包み隠さず俺に教えてほしい。これが、二つ目の“お願い”だよ」
「拒否権はない、ってか」
「真面目にやらないと“あいつ”が怒るんだ。正義感の固まりだから――」
言いながらウォルディがふと目線を横に流した。彼の見る先に何があるのか、駿も既に気付いている。
先刻からエントランスの陰に、人の気配を感じていた。おそらくは一般生徒だろうから、放っておいても害はない。しかしこれ以上この場で話を続けるのは憚られる。
「最後の一つは、然るべき時までとっておくことにするよ」
ウォルディのその言葉を最後に、駿はエントランスに背を向けた。