第五章《迷霧》:間話
* * *
「アサカ ツネヒコを知ってる?」
突然声を掛けられて振り返った、少年の目の前に金の髪が散る。真直ぐに流れ落ちるそれの隙間からは、硝子玉をはめ込んだような碧い眼が覗いていた。
少年はぎょっとして身体を強ばらせたが、三度息を吐くことでそれを隠した。涼やかな声のトーンとこの時間帯から一瞬、今話題になっている“少女の亡霊”が現れたのかと身構えたのだ(時刻は午前一時を回ったところだった)。
噂に聞いていたのは黒髪黒目、しかし目の前の彼女は違う。少年はゆっくりそれを確認して、それから漸くはっきりと面を上げた。
「誰だって?」
「ツネヒコ、よ。アサカ ツネヒコ」
「……さぁ」
少年は首を捻る。彼は第一寮に所属していたが、生憎そんな名の生徒に覚えはなかった。教師にも、ツネヒコいう名の人間はいない。
「それじゃあ――アサカ、という姓の子はいる?」
「ちょっと待てよ……ああ」
少年は続いた質問に逡巡したあと、今度は一つ答えを見つけた。
確か、数学のクラスが一緒だった奴が一人。
「安積直希って奴ならいたかも。三棟……かなぁ、よくわかんないけど」
「――そう。血縁者かもしれない」
ありがとう。
ふわりと微笑まれて少年の心臓は情けなく跳ね上がった。まるで人形のようだ、激しく血の巡ってぼんやりしはじめた頭で思う。
こんな子、この“学園”にいたっけ。
「貴方、名前は?」
「お、俺? えと、佐々木です!」
「そう。私はね、ミクっていうの」
M、I、C、K、で“Mick”よ。
正面に立つ少女の唇が柔らかく動いて、呪文のようにそのアルファベットを紡いだ。
ミク、とつられて少年も口にする。忘れられない名になりそうだと、火照る頬を隠しながら思った。
「覚えた?」
「あ、うん」
「――それじゃあ、今から忘れてくれる?」
……え?
ぽかんと口を開けた少年が疑問の音を口にしたときには、少女の白く細い指が彼の額へ向けられていた。
* * *
こんな時間にふらふらと出歩く影を見つければ、声を掛けずにはいられない。お節介で世話焼き、それが彼女の性だ。だからこそ第六棟寮の長を任されているのだと、本人は思っている。
「鍵を、探しているの」
声を掛けた相手はそう呟いた。長い黒髪を重力のままに流した、どこか浮世離れした少女である。
制服から細い手足の見える小柄な彼女は、六棟の所属ではなさそうだった。“入れ替え”による出入りの激しい第六棟であるが、寮長が生徒を見間違えることなどまずあり得ない。
「キーって鍵だよねぇ。家の鍵? 寮の鍵ならあたしが持ってるけど」
他棟の生徒だろうとあたりをつけて話し掛ければ、黒髪の少女はゆるゆると首を横に振った。
違うわ、と。穏やかな、しかしはっきりとした声で彼女は言う。
「“あそこ”の鍵なの。“あれ”が隠してある、場所」
「……宝探し?」
「鍵はツネヒコが持っている。“あれ”は他人の手に渡ってはいけないから、取り返すの。ツネヒコ、知ってる?」
少女が首を傾げれば、さらりと黒糸が頬を流れた。
質問の意図が全く掴めない。困って首を横に振れば、少女は哀しげな色を浮かべる。
「そう……貴女も知らないのね」
瞬間、生温い風が吹いた。
刹那の瞬きの合間に、黒髪の少女は消え失せていた。
* * *
“学園”の至る所には、経営者側から派遣された警備員が控えている。彼らの活動は生徒達の安全と学園の秩序を守る為にあり、深夜の見回りもまたその一貫だった。
その警備員の前に“それ”が現れたのは突然である。いつもの巡回路をいつも通りに歩いていた、そんな彼の喉元に、突然白刃が突き付けられたのだ。
ひゅっと息を飲んだ警備員の、身動き一つとれないのを嘲笑うかのように“それ”は唇を歪ませた。そのまま彼の耳元に顔を寄せ、感情の欠落した声で“それ”は問う。
「《悪魔のデータ》は何処にある?」
そんな物、見たことも聞いたこともなかった。声を出さずにそれを伝えるべく(既に恐怖で彼の喉は凍り付いていた)、警備員は必死に首を横に振る。
その様を確認したのだろう、“それ”は至極つまらなそうに呟いた。
「そうか――残念だ」
手首を一閃する。切っ先が鈍く煌めく。
一本の斬撃を染め上げた、紅い飛沫は夜の闇へ。