第五章《迷霧》:籠鳥(2)
始業を告げるベルの音が響いている。同じメロディーを二度繰り返したそれの、ぼんやりとした余韻が溶けていくのを聞いていた。
授業がはじまってしまった、少女はぼんやりと思う。教室に行かない自分達は、生徒としては間違った行為を行っていることになるのだろう。
けれど全く構わなかった。もとから生徒としては異端な存在である彼女は、いくら単位を落とそうとも退学することはない。逆に全ての単位を取り零すことがなかったとしても、卒業することはない。
少女は“学園”という名の、籠の中にいるのだった。鍵は掛けられていない、扉は開いている。でも彼女には、羽ばたいてゆくことの出来る空がない。
「……ロア」
少女は共に授業をエスケープしている、銀髪の相手を見つめた。日本人のそれとは違うプラチナの輝きが陰の中でもまばゆい。同じ色の瞳は水銀のような輝きを隠して、今は伏せられてしまっている。彼女もまた、この籠で世界と隔絶された人間だった。
ロアル、と再び少女――百瀬は相手の名を呼んだ。授業をサボってまで百瀬をここに呼び出したのはロアル自身だというのに、いざ顔を合わせてみれば無言を貫いている。少し調子を強めて再度呼び掛ければ、やっとロアルは顔を上げた。
「……――モモセ、」
「話っていうのは」
例の噂についてでしょう?
先手を打って百瀬は、ゆっくりと言葉を唇に乗せた。静かに一つ頷いて肯定する、ロアルの顔が心なしか青白い。
百瀬とロアルが今回、東海林愛の率いる班に加わることになったのは偶然だった。その日その時間たまたまその場所にいて、たまたま持ち上がった“学園展”の話題に巻き込まれることになっただけ。ちょうどその場に集まっていた七人で班を結成した、その中に含まれただけの話だった。――それがこのような題材を選んでしまうなんて、一体誰が予想できただろう。
怖いもの見たさに行動を起こすことは、この年頃の少女ならば一度や二度あることだ。それでも百瀬には、“この話題”に気乗りできない理由があった。それはこの、ロアルもわかっていたはずなのに。
「……どうしてわざわざ、あの噂を選んだの」
百瀬は声を潜め、一番気になっていた点について言及した。
――この“学園”には以前から、“少女の亡霊”が現れるという怪談が伝えられている。腰まである長い黒髪を靡かせて校舎内を彷徨い歩く、生徒と同じ年頃の少女の話だ。噂の立つ頻度は数か月に一度。目撃情報は多いにもかかわらず、その詳細を知るものはいない。
ただの噂話ならば構わなかった。百瀬がこの怪談に過剰な反応を示すのは、彼女に“亡霊”の心当たりがあったからである。
「“あの人達”と関係があったらどうする気?」
百瀬はたった一人だけ、長い黒髪の少女を知っていた。自分自身も艶やかな黒髪をしている百瀬であるが、“彼女”のそれとは違う。あれは闇をそのまま閉じ込めたような、不可侵の色をしていた。
“あの人達”と曖昧な表現をしたのは、百瀬が“彼女達”について詳しいことを何一つ知らなかったからだ。
――否、一つだけ。一人だけ、知っている人間もいる。
「亡霊なんかじゃ、ないんじゃないの? もしここに“あの人達”が――」
「……来てるのよ」
静かに零された言葉を理解するのに時間が掛かった。しばし口を閉ざした百瀬は、漸くロアルの言わんとしていることを悟って目を見開く。
まさか。思わず言葉にしたそれは無意味だと、百瀬自身が一番良くわかっていた。嘘を吐く意味など、微塵にも存在しない。
「会ったの。会って、第四棟の鍵を開けておくように言われた――ルカ・ハーベント、本人が来てる」
「……開けたの?」
「ええ」
消灯時刻を過ぎれば、寮棟の入り口は翌日の朝まで鍵が掛けられる。その鍵の管理をしているのは各寮の寮長だ。
瞠目した百瀬の黒く濡れた瞳が微かに揺れた。動揺しているのはロアルも同じで、小さく無理な笑顔を作って息を吐く。
「四棟ってね、校舎に続く地下通路があるんですって。どうして“あの人達”が私をここの寮長に据えたのか、やっとわかった」
「地下通路なんて……ロア、」
あの人達は、何をしに来たの?
問えばロアルは目を伏せて、静かに首を横に振った。わからない、と銀髪の少女は言う。わからないけれど、でも。
「清川芽衣子を殺したのは、あの子かもしれない」
「……!? そんな、」
「そんなことないなんて、言い切れる?」
ぐっと言葉に詰まった百瀬を、少女のやわい銀色の瞳が見つめる。その目はけして悲しみを湛えているわけでも、怒りを帯びているわけでもない。ただあるがままの事実を懇々と諭す、それだけを目的としていた。
忘れてしまったの? ロアルは百瀬に視線をやったまま、困ったように笑いかけた。責めるような声音ではなく、幼子を宥めるように。
「“あの組織”はね、犯罪シンジケートなのよ。犯罪者の集団が――殺人犯が、大勢集められている」
「……わかってる」
“あの日”百瀬が説明されたのは、たった今ロアルが語ったものと寸分違わぬ内容だった。たったそれだけの情報を持たされ、身一つでここにやって来たのだ。
わかってる。少女はもう一度呟いた。
「どうしてルカが学園にいるのかは知らない。でも何かきっと、良くないことが起こるわ」
「……その始まりが、清川芽衣子……?」
「彼女は一般の入学生だった。“あの組織”とは、関係のない」
そこで何かを逡巡するようにロアルは言葉を切った。それを見て百瀬もふと眉をひそめる。
ここでの生活が長いロアルは、“あの組織”の伝で“学園”にやって来る生徒の殆どを把握していた。そもそも百瀬が彼女に出会うに至ったのも、それが関係してのことだ。
――無関係な一般の生徒に、被害が出ている。その事実の重大さに気付いた途端百瀬は、血液が凍るような心地がした。
「噂の“亡霊”がルカかはわからないけれど……目撃情報のうちいくつかは必ず、あの子のことだわ」
「もし、そうなら」
「噂を調べて遡ったアイたちが、あの子に――“あの組織”に辿り着くのは危険なのよ」
ロア、あなたまさか。
目の前の少女は最初から、これを危惧していたのだ。漸くそれを悟って百瀬は声を上げる。
「皆に“あの組織”のことを、気付かせないために……?」
確信をもって問い掛ければ、ロアルは小さな微笑みを浮かべた。それからまた表情を引き締め、小声で告げる。
「これは私達だけの秘密にするつもり。ここには“あの組織”を恨んでいる子だっているわ、この話は伝わらないほうが良いと思うの。――“亡霊”についての噂は、私とモモセで何かでっち上げましょう」
「……わかった」
真相の捏造を承諾して百瀬もまた、かの組織に想いを馳せる。ただ一人の肉親は今、何処で何をしているのだろうか。
(……千瀬、)
百瀬は今も後悔している。
血筋の業を全て押しつけ、のうのうと生きていたあの日までの自分。あの時全てを失くしたのは、自分ではなくあの子供だった。
百瀬は今も後悔している。
血に濡れた家の中で立ち尽くした最愛の妹の名を、あの日一度も呼んでやらなかったことを。