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さようなら、道化師さま

作者: 青波鳩子
掲載日:2026/09/01




  

  

リュシエンヌは王子宮の庭に、婚約者の第一王子ランドルフとの二人きりの茶話会に招かれていた。

やわらかい風が頬を撫で、庭園の薄桃色のバラを揺らしている。


「リュシー、君のドレスと僕のコートが出来上がったよ。ドレスは明日にもオルコット公爵家に届くだろう」

「ありがとうございます、とても楽しみですわ」


ランドルフが紅茶を口に運ぶのを見守りながら、リュシエンヌもひと口飲んだ。


「……こちらの紅茶、面白い風味でございますね」

「そうだろう。街中ではこれが人気らしくてね。少々スパイシーだがそれが癖になる」


満足そうにひとつ頷いて紅茶を飲むランドルフを、リュシエンヌはそっと見る。

ここしばらくのランドルフは忙し過ぎると、リュシエンヌの知り合いでもある側近の一人からこぼすように言うのを聞いた。

第一王子が多忙なら側近も当然多忙で大変だという、軽い愚痴と受け止めてその時は聞き流していたが、そんなランドルフが街中で人気という茶を癖になるほど飲んでいるということに、少し引っかかるものがあった。

どこでこの紅茶のことを知ったのか。

それが街中で人気であることも。

リュシエンヌは友人や母と、街中のいろいろなティーサロンで紅茶とおしゃべりを楽しむことはよくあるが、この変わった風味の紅茶が人気であるとは知らなかった。

シナモンの香りがややきつく感じるこの茶の人気の出所を調べてみようと、リュシエンヌは胸の中にしまい込んだ。


リュシエンヌは幼い頃からランドルフを慕っていた。

ランドルフは優秀で見目麗しく、第一王子として将来の国王に一番近いところにいる。

リュシエンヌが生まれたオルコット公爵家は、王族の系譜に連なる家だ。

温厚で家族を大切にしているオルコット公爵と慈愛に満ちた母、そしてリュシエンヌを可愛がる兄がいる。

リュシエンヌは末子で家族から大切にされ、おっとりとしていながら物事をさっぱりと捉える性質を持っていた。

リュシエンヌの家族は末娘の幸せを見守っていた。


***


国王主催の夜会のため、ランドルフからドレスが届いた。

今回の夜会のドレスコードに色の縛りはなく、そうした時は青のドレスが贈られてくることが多い。

青はランドルフとリュシエンヌの瞳の色だ。

二人のその色はよく似ていて、夜の静かな湖面のように涼やかさを湛えている。


「お嬢様、ご機嫌麗しゅうございます。さっそくですが、こちらが第一王子殿下よりご依頼のドレスでございます」


ドレスメーカーの責任者がトルソーに掛けたのは、思ったとおり青いドレスだった。


「とても素敵なドレスよ、リュシー」


リュシエンヌの母であるオルコット公爵夫人が、トルソーの後ろに回りながらそう言うと、ドレスメーカーの責任者が大きく頷いている。


リュシエンヌもドレスに触れて仕上がりを確かめる。

ドレスの胸元はハートカットだが、そこから首の立ち上がりまでレースで繋がっていて肌が露出しないようになっている。

リュシエンヌが好きなデザインだった。

一通りの検分が終わると、ドレスを持った侍女らと共に続きの隣室に向かう。

リュシエンヌはドレスに袖を通した。


(本当にとても素敵だわ。ただ……ランドルフ様と私の瞳の色に寄せたにしては、少々お色が淡いような……)


リュシエンヌは、そう思いながら三枚重ねられたスカート部分の布に触れて、その手触りの柔らかさに微笑みを浮かべる。

外側から順に、『慎み』『おてんば』『秘密』と呼ばれる三枚重ねの布の、微妙な色合いがとても美しい。

そのグラデーションに魅せられて、全体の色味が淡いと感じたことは気にならなくなった。

リュシエンヌはドレスを軽くつまみ、皆が待つ部屋に戻る。


「ああ素晴らしいです! 白百合のようにお美しいお嬢様には、やはりこちらの胸元をレースで覆った清楚なデザインのほうが良くお似合いでございました」


その言葉に、母が眉間に皺を寄せたのをリュシエンヌは見た。

だが、それが見間違いだったかのように母は微笑みを浮かべている。


「そうね、リュシーは胸元が緩いものより、このように清楚なものが似合うわ」

「とても美しく素敵なデザインで気に入りました。夜会が楽しみですわ」


リュシエンヌの言葉に、部屋にいた誰もが顔をほころばせ、そして侍女を残して皆が部屋を出て行った。


ドレスが気に入ったことと、先ほどの母が一瞬浮かべた表情からくる違和感を区別してリュシエンヌは頭に置いた。

耳にした言葉、目にした表情、違和感を覚えたことを曖昧にしたままで、良いことなどひとつもないとリュシエンヌは知っている。


ドレスが入っていた大きな箱を、侍女が片付けようと持ち上げた時、カサリと小さな音が聞こえた。

言うなれば、箱の中に小さな蝶がいて紙箱にぶつかったような音だ。


「箱はしばらくこのままにしてちょうだい。ありがとう、下がっていいわ」

「かしこまりました」


侍女たちが部屋を出て行くと、リュシエンヌはドレスの箱の蓋を開ける。

箱の隅に、折りたたんだメッセージカードがあった。

リュシエンヌは箱に腕を入れてカードを拾い上げ、静かに開いた。




    愛しのジゼルへ


  僕からのドレスを受け取ってくれ

  膨らませなくてもいいように、幾重にも布を重ねた

  僕の愛を君の掌に重ねたイメージだ

  特別な夜に特別な席で、待っている




リュシエンヌの耳にキーンと硬質な音が走り、目の前が一瞬暗くなった。


( ジゼル……? 誰なの……)


送り人の署名がなくても、誰が書いたものかはリュシエンヌにはすぐに判ってしまった。

ランドルフの酷い裏切りを、こんな形で知るとは思いもしなかった。

掌の中の二つに折られたカードが、毒蛾に見えた。

握り潰したくても毒蛾ならば傷つくのは自分だと、リュシエンヌは思いとどまる。

リュシエンヌはその毒蛾を、使わなくなったイヤリングを入れている宝石箱の下の引き出しにそっと入れた。

ランドルフの筆跡を隠そうともしていないと判るこのカードは、リュシエンヌの未来に繋がる扉の鍵になるだろうが、果たしてこの鍵で開ける未来は明るいものだろうか。

毒蛾の亡骸を弔うように、美しい黒いレースのハンカチをそっと掛け、宝石箱の引き出しを閉じた。



その晩リュシエンヌは、ベッドの中で声を殺して泣いた。


(……愛されていると思っていたなんて、私はとんだ道化だったわ……)


ランドルフの優しい言葉も、好きだった声も仕草も、涙の河に呑まれて流れていく。

笑顔を向けられて熱くなった頬。

戴いた贈り物を、探してくださっていた時間に感謝したこと。

そんなリュシエンヌを、ランドルフは嗤っていたのか、憐れんでいたのか。


(すべてが嘘だった……ランドルフ殿下の愛は、ジゼルという人にだけ向けられていた……)


何もかもが流れて消えると、そこに父や母や兄たちの笑顔が浮かんだ。

大切に守られているリュシエンヌもまた、守らなければならない人たちがいると、思いを新たにする。

涙を出し切ったリュシエンヌはベッドから下り、一通の手紙をしたためた。


翌朝、リュシエンヌは体調不良を理由に、王宮に上がるのを初めて休んだ。


***


国王夫妻がホールの中央で踊るワルツから夜会は始まった。

テンポの良いワルツは、しなやかながらしっかりとした体幹が求められる。

国王夫妻のダンスは、二人の壮健さを周囲に知らしめた。

その後はランドルフと第二王子のフレデリク、二人の王子が互いの婚約者の手を取って中央に滑るように進んでいく。


「改めて──とても美しいよ、リュシー。妖精が舞い降りたようだ」

「ありがとうございます」


ランドルフはリュシエンヌに微笑む。

王子二人によるそれぞれの婚約者とのダンスは、ゆったりとしたスタンダードワルツだ。

穏やかで軽やかな音楽によるダンスは、国の明るい未来を思わせる。

暗いのはリュシエンヌの心の内側だけだった。


それからの二人はしばらく挨拶に回った。

今回の国王主催の夜会は、ブロンダン王国にとって最重要な位置にいるエストレール王国の要人を招いてのものだ。

エストレール国王の名代として招いた王太子夫妻を迎え、ランドルフはリュシエンヌを伴い型通りの挨拶を交わした。

すると挨拶の終わり際、ステファニー王太子妃がやや声を落として親し気にリュシエンヌに話しかけた。


「リュシー、元気だった? 後で私の控え室に来てもらえるかしら? リュシーにとっておきのお土産があるの」

「嬉しいわ、ファニー。とても楽しみよ」

「うふふ……でも、もう少しお互い仕事があったわね」

「そうよ、社交をしなくては」


二人は手を取り合っていたずらっ子のように笑いあった。

会話だけを聞いたら、隣国から招いた主賓の王太子妃とホスト国の第一王子の婚約者とは誰も思わないような、朗らかで砕けた雰囲気だった。


「ステファニー、気持ちは解るが、まだ僕たちと話すのを待っている方々がいるからね。オルコット公爵令嬢、ではまた後ほど」


エストレールの王太子は、王太子妃ステファニーの腰を抱いて二人を待つ者たちのほうへ静かに移動していった。

ステファニーとリュシエンヌのやりとりを聞いて、ランドルフが驚いた顔をした。


「リュシーはエストレール王国の王太子妃と、親しい付き合いなのか?」

「ええ。妃殿下とは互いの母親同士が友人でして、幼い頃から行き来しておりました。今回の夜会開催が決定いたしました時に申し上げましたとおり、妃殿下とは家族ぐるみのお付き合いでございます」

「……そうか、そうだったな」


ランドルフの曖昧な言葉も、リュシエンヌは特に気にしなかった。

それよりも、ランドルフが先ほどから懐中時計を何度も取り出して見ていることのほうが気になっていたが、それはそういう仕草を周囲がどう見るかを気にしないことへの気懸りだった。


「リュシー、お父上……オルコット公爵はどちらにいるかな。先ほどから頭痛が酷くて今日のところは部屋に下がろうかと思っている。君を公爵に頼みたいんだ」

「父でしたら、先ほど楽団近くの輪の中に兄と共におりました。殿下はこのところご多忙でいらっしゃいましたもの、お大事になさってくださいね」


ランドルフがリュシエンヌと共に、オルコット公爵たちの歓談の輪に近づくと、そこでは錚々たる者たちが笑い合っていた。

先ほど挨拶を交わしたエストレール王国の王太子夫妻、リュシエンヌの父母と兄マクシム、そして宰相の嫡男セルジュ・カールトンもいた。さらには強面で有名なフォートリエ辺境伯までも、その輪の中で珍しく笑顔を見せていた。

そこにランドルフがリュシエンヌを伴って行くと一瞬笑いが止まったが、すぐにリュシエンヌの母が笑顔で声を掛けてきた。


「先ほどの二人のダンス、息が合って素敵でございました」

「リュシエンヌがとても軽やかで器用だからですね」


ランドルフが朗らかに応えると、ステファニーがリュシエンヌに話しかける。

またそれぞれが、二人が輪に加わる前の話をし始めて、ランドルフはリュシエンヌの父であるオルコット公爵に近づいた。


「公爵、実は先ほどから頭痛が酷く、皆に失礼なのは承知だが部屋で休もうと思う。リュシエンヌをこちらに預けてもかまわないだろうか」

「殿下、それはもちろんでございます。どうぞお大事になさってください」

「リュシー、私はここで退出するが、最後まで皆と共に楽しんでいってくれ」

「はい、殿下もどうぞごゆっくりお休みくださいませ」


ランドルフが落ち着いた足取りでホールを出て行く背中を、リュシエンヌは父母らと共に静かに見送る。

フォートリエ辺境伯が兄マクシムと宰相の子息セルジュと共に、小さな礼をして輪から離れていった。

そろそろどこかの控え室でワインでも飲みながら休もうかと父が言うと、王族の席のあたりで騒がしい声が聞こえた。


身形のおかしな者が、あろうことか国王に向かってしわがれた声で何か叫んでいる。

リュシエンヌが耳を傾けると、小麦の収穫が大雨による影響で思わぬ不作だったにも関わらず、昨年決められた今年度の増税をそのまま農民に課すことへの批判を王に向かってぶつけているようだ。

それを誰も咎めることもなく、排除しようとする動きもない。

文句の内容はそれほど間違っていないかもしれないが、これはどういうことなのだろう。

リュシエンヌは父に小声で尋ねた。


「陛下にあのような暴言を向けても拘束されないなんて、何故あの者は許されているのですか」

「あれは宮廷道化師といって、王が召し抱えている者だ。国民や我々貴族が心の内でひっそりと燻ぶらせている不満を王にぶつけ、それに王が耳を傾けるポーズをして我々のガス抜きを図っている。時に鋭い施策を投げかける者さえいるのだよ。そうしたこともあって、王家はあの者たちを認めているというか、いわば必要悪として飼っているのだ。そうか、リュシエンヌは初めて見たのか」

「はい。これまで見かけたことはありませんでした」


リュシエンヌは、しばらくそのしわがれ声を聞き、片足を引きずるようにして去っていく道化師を目線の端で見送ると、身を護るように自身を両腕で支えた。

道化師の年齢は定かではないが、白く塗られた顏は粉っぽくしわ深い。それなりに年齢がいっているように思える。

頬を真っ赤に丸く塗り、口元も赤く大きく描かれている。舞踏会のマスクを後頭部のほうに着け、青と黄色の大きなブロックチェックのだぶついた服に、先の尖ったおかしな靴を履いていた。

リュシエンヌのように若い者たちは驚いたように見ていたが、父母と同世代の貴族たちは特に動揺することなく、まるで道化師は舞台装置とでも言いたげな無関心さを感じた。


リュシエンヌは父母に促され、貴賓室に向かう。

道化師を見てから胸の鼓動が少し速いが、父母が一緒にいてくれることで不安はない。


(我が家はみんな私に対して過保護だわ。でも私も成人したのだから、いつまでも守られてばかりではいられない)


「リュシー、待ったわよ! オルコット公爵閣下、続きの部屋で皆さまお待ちですわ」

「お待たせしてごめんなさい、ファニー」


リュシエンヌの父は、先ほど見せていた隣国の王太子妃に対する礼とは違ってステファニーに微笑みながら小さく手を挙げ、続きの部屋に入っていく。

ステファニーとリュシエンヌの二人のテーブルには冷たい果実水が置かれ、ステファニーはその横に土産を置いた。

土産と言っても取り出したものは封書である。


「どうぞ、中身を確かめて」


ステファニーが微笑むと、リュシエンヌが中の紙を広げて素早く目で追った。

先日送った手紙の返事が書かれている。


「ファニーありがとう。お礼は後日、エストレール王国へ送らせてね」

「……リュシー、大丈夫? 無理をしているのではなくて? 大切なあなたのこと、とても心配しているの」


ステファニーの美しい碧色の瞳が揺れて、それを見たリュシエンヌの心が揺れる。

このところ、意識して悲しみの黒い影を見ないようにしていた。

見れば涙が浮かんでしまい、その涙を餌に黒い影は大きくなる。

だからリュシエンヌは目を逸らし続けていたが、この頃はそれに疲れを感じていた。


「……ありがとう。ファニーにはいつも助けられてばかりね」

「そうよ、リュシーからのお礼の品を私ずっと待っているから。レター係にこちらから毎日確認するわ。レター係が逃げ出さないうちに早く送ってね?」

「まあ、レター係さんへのお詫びの品も包まなくては!」


ひとしきり笑うと、リュシエンヌは『土産』を二つに畳み、ドレスの隠しポケットに収めた。


***


しばらくして夜会がお開きとなると、リュシエンヌは父母と共に公爵家の馬車に乗り込んだ。

リュシエンヌの兄マクシムは、ずいぶん前に宰相の息子セルジュとフォートリエ辺境伯と三人で連れ立って王宮を後にした。

マクシムが友人たちとよく行く店に辺境伯を案内すると息巻いていたと、父が笑っていた。

互いに嫡男の立場であるマクシムとセルジュは、フォートリエ辺境伯を兄のように慕っていた。



馬車が大通りに出てしばらく進んだ頃だった。

リュシエンヌは窓の外が騒がしいことに気づいた。

ほぼ同時に、このすぐ先の王立劇場ホールから煙が上がっていると馭者が知らせた。


「様子を見てくる、少し待っていてくれ」


オルコット公爵は、馭者に道の端の安全なところに馬車を停車させると、慌てることなく一人で馬車を降りていった。


「火事かしら……怖いわね」

「危険ならば、お父さまが私たちを残して行くことはないでしょうから、ちょっとしたボヤなのではないかしら」

「そうね。でも早く戻ってきてもらいたいわ。リュシーも疲れたでしょう」

「大丈夫ですわ。お母さまこそ、少し私に寄りかかってお休みになって。私も十八の成人ですから」

「まあ、わたくしたちの可愛いリュシーがいつの間に!」


オルコット公爵夫人は小さく笑うと、ほんの少しリュシエンヌに肩を寄せる。

互いのドレスの膨らみのせいで体温が伝わるほどではないが、リュシエンヌは母のぬくもりを感じていた。

閉ざされた馬車の中で母と二人きり、リュシエンヌはそうっと口を開いた。


「ねえお母さま、このドレスと同じ生地で別のデザインのドレスが存在するとしたら、それは今、どこにあるのかしらね」


公爵夫人がビクリと姿勢を直し、少し微笑んでリュシエンヌをみつめた。

何かを探るように、その瞳が揺れている。


「お父さま遅いですわね。私も少し様子を見てきますわ」


リュシエンヌは母が何か言うより先に馬車の扉を開けて、ぽんと降り立った。

初めて自分で扉を開けたにしてはうまくできたと思いながら、リュシエンヌは煙を吐き出している建物に向かって歩き出す。

炎は見えないので、それほど怖いとリュシエンヌは感じなかった。

すると、俯きながらこちらに歩いてくる父を見つけた。


「お父さま」

「どうしたリュシエンヌ、馬車へ戻ろう」


父は立ちはだかるようにして、リュシエンヌが乗っていた馬車を指した。

リュシエンヌは、父のその仕草が何かを隠そうとしているように思え、横に出て王立劇場のほうを見た。

すると劇場の入り口付近で、フォートリエ辺境伯と宰相の息子セルジュそして兄マクシムの姿が見えて、リュシエンヌは父親の横をすり抜けてそちらへ小走りで向かう。

だが、フォートリエ辺境伯が背後から抱えている人物を見て、足を止めた。


「……ランドルフさま……?」


先ほどの夜会でランドルフが着ていた、見せるためのベストであるウエストコートは青色だったが、羽交い絞めにされている男性は紫色のウエストコートを着ている。

二十個もついているボタンはどれも留められておらず、中のシャツもはだけていた。

濡れた髪を振り乱して暴れ『ジゼルを放せ!』と喚いているのは、ランドルフで間違いがなかった。

想いを寄せていた婚約者を、リュシエンヌが見紛うはずもない。


静かにリュシエンヌがランドルフに近づいていくと、それに気づいたフォートリエ辺境伯がランドルフを地面に倒して押さえつけた。

そしてその後方で、リュシエンヌの兄マクシムが後ろ手にした女性を立たせようとしていた。

淡いブルーのそのドレスは、胸がこぼれ落ちそうなほど下品に開いている以外は、リュシエンヌのドレスと同じ生地で同じデザインだった。


「第一王子の俺に、こんなことをして許されると思うな!」


リュシエンヌはゆっくりと近づき、地面に伏せられたランドルフのすぐ前で足を止めた。


「第一王子殿下ですって? 私の婚約者の第一王子殿下でしたらこんなところにいるはずがありません。体調不良にて夜会を途中退席なさり、今頃はお部屋にて休まれていらっしゃいます。この者は第一王子殿下を騙る不届き者ですわ。それとも、まさか、本当にランドルフ第一王子殿下なのですか?」


リュシエンヌは、足を止めて遠巻きにしている通行人たちに聞かせるように声を上げた。

頭を押さえつけられ伏せたまま顔を上げることができないランドルフは、その声を聞いて動きを止めた。


「……リュシー、まさか、リュシーなのか……」


そう呟くと、身体の力が抜けたようにおとなしくなった。

泥にまみれた紫色のウエストコートがめくれ、リュシエンヌが夜会で見ていた青色がちらりと顔を出した。

リュシエンヌはすぐに察した。

ランドルフのウエストコートは青と紫色の裏表で、夜会では青を表にして着ていた。

兄が拘束している女性の髪は美しい紫色で、アクアマリンのような淡いブルーの瞳は濡れたせいで化粧が剥げて悲しいほど滑稽だった。

リュシエンヌとデザイン違いの淡いブルーのドレスを着たこの女性が、ランドルフの『愛しいジゼル』なのだ。

リュシエンヌは、毒蛾の羽音が聞こえた気がして少し首を振る。


きっとランドルフにとってウエストコートの『表』は、今は泥にまみれた紫色の側なのだ。

あの女性の淡いブルーのドレスは、劇場の貴賓室のさほど大きくないソファでくつろげるようにスカートの中の張り具を外してあり、開き過ぎている胸元ばかりが強調されて、みすぼらしい端役を与えられた女優のようだった。

ドレスの色が、ランドルフとリュシエンヌの濃い青色からとったにしては淡いと感じたのは、この女性の瞳の色に合わせたから──。

二人は消火の際の水をかぶったのか、湖に転落したように濡れていた。


「オルコット公爵令嬢、お父上のところまでお送りいたします。この安っぽい芝居をあなたは見るべきではありません」


宰相の息子であるセルジュ・カールトンがやってきて、夜会でエスコートをするようにリュシエンヌに手を差し出した。

リュシエンヌは、このような場でも落ちついて微笑むセルジュを見て、彼は父たちに認められているのだと解かった。


「お仕事の邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした」


リュシエンヌは辺境伯に頭を下げると、セルジュ・カールトンに手を預けた。

セルジュがその手をそっと自分の肘を掴ませ、ゆっくり歩きだす。

そしてリュシエンヌをオルコット公爵に預けた。

リュシエンヌは心配そうな顔を向けている父にも、頭を下げた。


「お父さま、勝手に動いてしまって申し訳ありません」


セルジュに見送られるような形で、馬車はゆっくりと走り出した。

騒がしい場所を離れると、夜会でステファニーから貰った『土産』をドレスの隠しポケットから取り出す。

それは、リュシエンヌの家族がリュシエンヌには教えてくれないことを、ステファニーに尋ねたものへの返事だった。


第一王子ランドルフが秘匿する愛人は、王立劇場の看板女優バルバラの娘、ジゼル。

バルバラの引退公演の最終日が国王主催の夜会と重なった。

劇場の特別貴賓席の最終日を押さえたのはランドルフの側近。

リュシエンヌの父と兄はフォートリエ辺境伯と宰相の子息セルジュと共に、ランドルフを劇場で捕縛の予定。

ランドルフは、隣国エストレールの王制をひっくり返そうとしている組織に金を送っていた。

だがその組織は若き芸術家の集まりのように装い、ランドルフは単純に騙されていた。

問題はその資金が、ランドルフが婚約者のために使う予算と、ランドルフが任されていた救護院の建て替え資金から支出されていたことだった。

その組織のリーダーは、ブロンダン王国の劇場の看板女優バルバラの息子、ジゼルの兄だった。

ジゼルはランドルフに近づき、手練手管でランドルフから金を巻き上げた。


もしもランドルフが夜会を抜けて王立劇場に現れなければ、後日王族典範に則った議会での議題として提案する予定だった。

そこでランドルフの罪が明らかにされても、その醜聞の詳細までは王宮の外に出ない可能性はあった。

国民にすべては知らされず、王位継承順位が下げられても『療養』の名目が与えられたかもしれない。

だが、ランドルフは王立劇場の特別貴賓室に愛人を伴って現れ──


舞台が終わり、カーテンが閉められた貴賓室のソファで、ランドルフが二十個もあるウエストコートの飾りのようなボタンをすべて外すような行為が始まるのを見計らってそこに火を放った。

二人が慌ててそのまま飛び出てくるように。

そして部屋から転がり出てきた二人と、それほど広くない貴賓室に水を掛けて消火した。


(……殿下は晒し者になった挙句に、幽閉……になるのね)



ランドルフの、友好国とリュシエンヌへの二重の裏切りを知った父であるオルコット公爵は、若かりし頃を思い出しながら一つのシナリオを書き始めた。

今こそあの時の、オルコット公爵家一門より王家に意趣返しをする時なのだと──。


現国王の兄である第一王子が卒業間際のパーティで、平民から男爵家の養女となった令嬢と共に婚約破棄を衆目の中で婚約者に突きつけ、王位継承位一位であったのを剥奪されて幽閉された。

破棄の理由として挙げた婚約者令嬢の悪行とやらは、すべて捏造だったことがすぐに露呈したからだった。

その第一王子よりひとつ年下の第二王子が、今の国王である。

立太子の儀と現王妃との婚儀はとんとん拍子に進んだが、幽閉された元第一王子と共に処分された男爵令嬢を養女にしたのは、王妃の実家の分家であった。

これは兄と仲の良くなかった現国王が、玉座を奪い取るために書いたシナリオだったのではないか。

オルコット公爵一門は、その経緯を調べ上げてはいた。

婚約破棄騒動の被害に遭った令嬢は、オルコット公爵家一門の侯爵家の娘だったからだ。


だが、当の令嬢と侯爵家はその事実を公にすることを望まなかった。

心を病んでしまった令嬢は領地で静かに暮らしており、その平穏を壊す真実の追及を求めなかった。

令嬢は、のちに静養の中で誠実な相手と結ばれた。

他者と心を通わせることができるようになるまで月日がかかり、子供は持たなかったその令嬢は、オルコット公爵家一門の新年会などに顏を出せるまでに回復すると、子供の頃のリュシエンヌを可愛がってくれた。


オルコット公爵家の一門はその令嬢が誕生した後しばらく男児ばかりが生まれており、どの家も跡継ぎの心配が無いのは良いことだったが、そんな一門に久しぶりに誕生した女児がリュシエンヌだった。

そのため、過保護にならないように見守られながら、大事に大事に育てられてきた。


婚約を打診されたとき、ランドルフの身辺をオルコット公爵家によって密かに調べられたが、その時は何の後ろ暗さもなかった。

何よりも、かつて兄のやらかしで急遽王太子の立場に立たされた現国王の子であるから、さすがにきちんと教育されているだろうとも思われた。

仕掛けた側の人間ならば、息子をそのような罠に陥らせないようにと目を光らせているだろうと。

オルコット公爵家一門には、王家を内側から監視する役割を担うという気持ちがあり、何よりリュシエンヌがランドルフを慕っていることもあった。

婚約から二年が過ぎても何事もなく、オルコット公爵家の目から見ても、ランドルフはリュシエンヌを大切にしているように見えた。

だがリュシエンヌとの婚儀が間近になった頃、ランドルフが怪しい動きを見せるようになった。

それでもしばらくは上手に隠していたが、ついに尻尾を掴まれた。


劇場の火事はオルコット公爵家と辺境伯が仕掛けたもので、ランドルフの不適切な愛人との不埒な行為がなければそのまま捕縛し裏口からひっそり馬車に乗せる、くらいのことはできたはずだった。

だが、王都のメインストリートに面している王立劇場の表玄関から衣服のはだけた二人をそのままの姿で引きずり出した。

リュシエンヌは、文字通り地に落ちて泥まみれになった婚約者ランドルフを見ても、胸に痛みを感じなかった自身に少し驚いていた。


(──あれほどお慕いしていたのに……)


ランドルフの言動の端々に、小さな引っ掛かりを感じることが何度かあった。

決定的な『毒蛾』を手に入れたことでステファニーに頼み情報を得て、こうして自身の目で確認できてよかったとリュシエンヌは思った。

大事にしてくれる家族によって、リュシエンヌの知らぬところでその未来が決められることよりも、何故そうなったかの現実を自分で見たかった。

後になってランドルフがどれだけ不誠実だったかと聞かされても、おそらくそれが真実と理解はできても実感は湧かなかっただろう。


だが、リュシエンヌは裏切りの『裏表のウエストコート』をその目で見た。

愛人の髪色に合わせた鮮やかな紫が泥にまみれるのを見たことで、ランドルフへの想いも泥の中に吸い込まれていったかのようだった。

そして、おそらく父が認めた宰相の息子セルジュ・カールトンが差し出した手を取り、その瞳をみつめ返したことによって、リュシエンヌはランドルフによって遮られた未来への道が、新たに続いていくことを理解することができた。


オルコット公爵家一門はギリギリのところで、王家からの裏切りを回避できた。

少なくとも、衆目の中で婚約破棄を宣言されたり、不誠実な王子に飼い殺しにされずに済んだ。

父母や兄や、リュシエンヌを取り巻くあらゆる大人たちがリュシエンヌを守り、これから一番近くで守っていく者としてセルジュを認めたのなら、リュシエンヌも全力でそれに応えたかった。

リュシエンヌはステファニーからの土産を丁寧に畳んでしまうと、父がそれを待っていたように口を開いた。


「リュシエンヌは彼を好いていると思っていたから、あんな場面を見せるつもりはなかった」


リュシエンヌによく似た父の青い瞳が揺れていた。

このような近くから父親の瞳をじっと見ることなど無かったと思いながら、仕事にも自身にも厳しい父親の愛情に触れた気がした。


「ここまでの不誠実を目の当たりにして、そのような想いは粉々になりました。今は早朝の窓を開け放ったような清々しい気持ちです」


リュシエンヌは大きく空気を吸い込む真似をする。


「……そうか。いつの間にか私の娘は大人になっていたのだな」

「あなた、裏切りは少女を一瞬で大人の女に変えますわ。耐えるか棄てるか、リュシーは明るいほうを選んだ素晴らしい大人の女です。わたくしたちも見る目がなかったことを反省いたしましょう」

「お母さま、これから貴族夫人の心得を教えてください。お父さま、領地を守ることと王宮に勤める夫を補助する仕事を私に教えてください。王太子妃になるための学びのすべてが無駄になったわけではありませんね。これからもしっかり学んでまいります。私のためにご尽力いただきましてありがとうございました」


オルコット夫妻は、目を細めて愛娘に微笑み返した。



リュシエンヌは自室にて夜の支度を整え終わると、『毒蛾』を仕舞った宝石箱を持ってきた。

引き出しを開けて黒いレースのハンカチを取り除くと、毒蛾はひっそりと横たわっている。

テーブルのランプを暖炉の傍まで持って行き、ランプの炎を毒蛾に移す。

それを暖炉の奥にそっと投げ入れると、小さな炎は毒蛾を()めて呑み込み、まもなく消えた。

その煙は、リュシエンヌの目に涙を呼ぶほどのものではなかった。


***


あれから一年半ほどが経ち、新年を寿ぐ舞踏会にリュシエンヌは夫となったばかりのセルジュのエスコートで広間に立った。

セルジュと共に作ったドレスは、光沢があって金色にも見えるベージュにセルジュの瞳の色である夜明けの森のような深い緑色の縁取り刺繍がほどこされている。ドレスのスカートはアンダーに緑色のシフォン生地が重ねられていて、斜めの切り替えからそれが見えるようになっている。

新年に相応しい輝きのドレスだ。


「すごいな……こんなに美しいと思わなかったな、リュシエンヌはドレスと自身を煌めかせる魔法を持っている?」


ホールのシャンデリアの光をまとってリュシエンヌが動くたびに、ドレスが光を受けて違う輝きを見せる。

周囲がセルジュの言葉に微笑む。

人妻になったリュシエンヌは、以前よりほんの少し胸元が広めに開いたデザインを選び、首から胸元にかけて光るパウダーをはたいていた。


「お声を落としてくださいませ、恥ずかしいですわ」

「僕は恥ずかしいことを言ったつもりはないよ」


頬を染めるリュシエンヌにセルジュはダンスに誘う。

手を取り合った二人は、息の合ったダンスを二曲踊った。


冷たい飲み物を取りに行くときも、セルジュはリュシエンヌを一人にしない。

一緒に行って、リュシエンヌが選んだオレンジ水を手渡す。

続けて二曲踊った火照りを二人がゆったりと冷ましていると、ホールにあらぬ声が響いた。

喉を焼いたようなしわがれた声を上げる者がいた。


(──宮廷道化師だわ)


顔を白く塗りたくり、片目が閉じられてその瞼の上に黒でバツ印が書かれている。

頬には赤い傷が描かれ、豚の耳の帽子をかぶっていた。

片足は不自然に曲がっており、それを引き摺って歩いている。


「王よ! いつになったら王立劇場を再建するんだ、このノロマ! 民の楽しみを後回しにするな!」


しわがれ声が響き、ホールは一瞬しんと静まった。

道化師はぺたりと床に座り込み、帽子を投げ捨て頭を掻きむしっている。

貴族たちはニヤニヤと笑いながら、口々に『劇場は王都のシンボルであるな』『文化が廃れては我がブロンダン王国の名折れだ』などと道化師に追従(ついしょう)する。

そこへ、国王が近づいた。


愚者(フール)よ、うぬの提案は劇場の早期再建と、なるほどそうか。だが今は、オーリク領の山崩れで孤立した地域の救済を最優先で行っている。バルテ川の氾濫で流された橋の修繕も急ぐ。カルノー領の麦が害虫の蔓延でやられ、すぐにこちらから人を送らねばならぬ。それらが解決してからおまえの言うところの劇場の再建を考えるでよいな? そこの者たちも道化に賛同したようだから、人や金の供出を惜しまないだろう。そうしなければ劇場の再建まで手も金も回らぬからな。フィヨン伯爵にゴダン子爵、まずはオーリク領への金の供出について有難く思う」


国王は朗らかに言うと、名指しされた者たちの肩がビクリと揺れた。

周囲に耳目のあるこの場で、王に先に礼を言われては金を出さないわけにはいかない。

なるほどこのように道化師を使うのかと、リュシエンヌは心の中で頷いた。



あの劇場での騒動の後、リュシエンヌの父であるオルコット公爵は第一王子だったランドルフの有責による婚約解消を申し入れたが、慰謝料は受け取らなかった。

ランドルフの処分についても、刑罰や追放を求めることもせず、ただ一点のみ希望した。


『陛下が以前行った方法と同じ処分を、それのみを希望いたします』


そう静かに告げた。


一方で、バルテ川の橋の修繕費用としてかなりの額を供出した。

高位貴族としての責務を果たすオルコット公爵家に、王家はさらに頭が上がらなくなっていた。

オルコット公爵の求めるものを聞いた国王と王妃は、今さらながらオルコット公爵家一門が自分たちを赦していないことを知ったのだった。

兄である第一王子を王位継承一位の座から下ろしたいだけだったのなら、もっと違う方法もあったはずだった。

それなのに兄弟間の争いをおおごとにして、当て馬の令嬢をけしかけた。

それに引っかかった王子も悪いが、何も悪くない第一王子の婚約者の経歴も心身も傷つけた。


今、あの時兄にした仕打ちと同じものを我が子に与えよと突き付けられた。

それを拒否すれば、あの頃よりさらに力をつけているオルコット公爵家一門が何をしてくるか。

息子の命だけでなく、自身の身も危うい。

国王夫妻にできることは、オルコット公爵家の要求を唯唯諾諾と受け入れることだけだった。



国王は、どこから取り出したのか銀貨を一枚道化師の足元に投げた。

道化師は銀貨に目をやったものの、拾わずに不器用によろよろと立ち上がる。

国王夫妻は、そんな道化師から目を背け、その場を後にした。


その時、立ち上がった道化師の開いているほうの目が、リュシエンヌを捉えたように見えた。

ほんの一瞬だけ互いを見やったが、リュシエンヌはセルジュの背後にそっと隠れる。


「……行きましょう、あなた」

「そうだね、もういい頃合いだ。あ、でも少し待ってくれるか」


セルジュは、落ちていた豚耳のかぶりものを拾って道化師に手渡した。


「……あの令嬢はあの日引退した母親と一緒に、つい先日海を渡った。母親の生まれ故郷に向かったそうだ」


セルジュは道化師にだけ聞きとれるように声を落とし、早口でそう言った。

そして次の言葉は大きな声で発した。


「道化師だろう、何か芸を見せてくれ」


道化師は潰れた声で『すまない、ありがとう』とセルジュに言うと、受け取った豚耳の帽子を上に高く投げて、背中で受け取ると両手でくるりと回して顔を隠すように深くかぶった。

周囲からワッと拍手が起こる。

道化師は曲がった方の足を横に出すと、帽子を取ってコミカルにお辞儀をする。

そしてリュシエンヌを一瞬だけ見て、今度は深々とお辞儀をした。

リュシエンヌは、道化の芸に義理のような拍手を送った。



ジゼルと看板女優だったその母バルバラが海を渡ったが、母親の故郷はもう一つ国境を越えたところにある。

二人が降り立ったエストレール王国が、果たして二人をそのまま向こうの国へ行くのを黙って見ているだろうか。

エストレール王国の王制を覆そうとした集団の、リーダーの母親と妹を。

セルジュは、チラとそんなことを考えたが、それもどうでもいいことだった。



リュシエンヌとセルジュは道化師に静かに背を向けると、国王に投げられて床に落ちたままの銀貨の横を通り過ぎ、賑やかなホールを後にした。

セルジュはリュシエンヌに何も問わない。

リュシエンヌも、セルジュが道化師に何を囁いたのかと尋ねない。

ただゆっくりと歩いていく。

その無言のひとときを、きっとやすらぎというのだろう。


「足元、少し気をつけて。小さな段差がある」


セルジュの言葉にリュシエンヌが『ありがとう』と小声で返すと、腰に回したセルジュの手に少しだけ力が込められた。

リュシエンヌは心地よい夜風に吹かれながら、小さな蝶が誘蛾灯に近寄っていくのが見えた。


(さようなら、道化師さま)


リュシエンヌの思い出の舞台に、黒い幕が下りた。





 おわり





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