表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

男装して王宮魔術師団に潜入したら、冷徹団長が男の私に恋をしました

作者: くるみ
掲載日:2026/07/18

王宮魔術師団は、女性を採用しない。


百二十年前に起きた「蒼月の災厄」で、強大な魔獣を封印しようとした女性魔術師八人が命を落として以来、女性の身体は大規模な戦闘魔術に耐えられないと考えられてきたからだ。

王立魔術学院の教本にも、そう記されている。


女性は繊細な魔力制御に優れるが、強大な魔力を必要とする攻撃術や封印術には適さない。

ゆえに、治療、教育、薬草研究などに従事することが望ましい。


王立魔術学院を首席で卒業したリリア・クロフォードにも、卒業後、女子学院の講師職が紹介された。

仕事内容は、貴族令嬢たちへ花を咲かせる魔術と、舞踏会で髪を美しく輝かせる魔術を教えること。


研究費はない。

危険な古代術式の使用は禁止。

年俸は、王宮魔術師団員の五分の一だった。


「ふざけているわ」


採用通知を机へ叩きつけ、リリアは吐き捨てた。


彼女が欲しいのは、高い給料だけではない。

六年間研究してきた古代術式を、実戦で試したかった。

王宮の封印庫にしか残されていない原典を読みたかった。

既存の術式を改良し、いつか自分の名を冠した魔術を完成させたかった。

誰かの補助役ではなく、一人の魔術師として功績を残したかった。


だが、女性であるというだけで、採用試験を受けることさえ許されない。


「でも、その仕事でもお給料は出るのでしょう?」


寝台から、妹のミーナが尋ねた。

十五歳になるミーナは、生まれつき肺が弱かった。

毎月、高価な薬を飲み続けなければならない。


三年前には、父が魔獣討伐で右脚を失った。

功労金は出たが、治療費と借金の返済でほとんど消えている。


リリアが働かなければ、家族は暮らしていけない。


「講師のお給料でも、私の薬代にはなるよ」


ミーナが申し訳なさそうに笑った。

その表情を見て、リリアは胸が痛んだ。


家族を支えたい。

それと同じくらい、魔術師として生きたかった。

どちらかを諦めなければならない理由が、自分の性別であることだけは受け入れられなかった。


「王宮魔術師団の採用試験を受けるわ」


「でも、女性は受けられないのでしょう?」


「女性としてはね」


その日の午後、リリアは腰まであった髪を切った。

胸を魔術布で押さえ、眉を太く描き、父の古い外套を羽織った。


亡くなった遠縁の少年の身分証を譲り受け、名前をリリオ・クロフォードと変えた。

魔力の波長と声をわずかに変える偽装護符も用意した。


リリアは女性としては背が高く、声も低い。

表情を険しくし、口数を減らせば、線の細い美少年に見えなくもない。

母は頭を抱えた。


「見つかったら、採用取り消しでは済まないわよ」


「分かっている」


「身分を偽るのは罪よ」


「それも分かっている」


「本当に男に見えると思う?」


リリアが振り返ると、母とミーナがそろって首を傾げた。


「黙っていれば、美少年には見えるわ」


母が言った。


「三分話せば、性格のきついリリアにしか見えないけれど」


「性格に性別は関係ないでしょう」


「その言い返し方が、もうリリアなのよ」


それでも、リリアは試験を受けた。

筆記試験では満点を取り、実技試験では標的をすべて破壊した。

威力を抑えるように言われた防御魔術では、試験官ごと結界の中へ閉じ込めた。


「リリオ・クロフォード」


結界から解放された試験官が、疲れ切った顔で尋ねる。


「なぜ王宮魔術師団を志望した?」


「給料が高いからです」


「王国を守りたいという志は?」


「給料に含まれているのであれば、全力で守ります」


「名誉は?」


「換金できますか?」


試験官たちは顔を見合わせた。


態度には問題がある。

しかし、成績には文句のつけようがなかった。


こうしてリリアは、リリオという名で王宮魔術師団へ入団した。



「お前が、今年の首席か」


入団初日。

リリアの前に現れたのは、王宮第二魔術師団団長、アレクシス・ベルナールだった。


銀色の髪に、深い青の瞳。

長身で、黒い隊服がよく似合う。

魔術師でありながら剣の腕にも優れ、王都の令嬢たちからは「銀氷の騎士」と呼ばれているらしい。

顔だけなら、氷を削って作った彫像のように整っていた。


ただし、その彫像は非常に口が悪かった。


「試験場の標的を、台座ごと吹き飛ばしたそうだな」


「標的を壊す試験でしたので」


「台座は壊せと言われていない」


「固定が甘かったのでは?」


「お前は、いつもそうやって言い返すのか」


「相手が間違っている場合は」


アレクシスは、しばらくリリアを見つめた。


「随分と細いな」


「魔術師に筋肉は必要ありません」


「魔獣に殴られたとき、筋肉があれば死ににくい」


「殴られる前に倒します」


「自信だけは一人前だ」


「実力も一人前です」


アレクシスは額を押さえた。


「新人は全員、王宮西塔の宿舎へ入る。部屋は一人部屋だ」


リリアは、表情を変えないよう努力した。

内心では神に感謝していた。

魔術師は眠っている間に魔力を暴走させることがあるため、宿舎の各部屋には個別の防護結界が張られている。

そのため、全員が一人部屋だった。


「浴場は共同だ」


神はいなかった。


「利用時間は?」


「夜明け前から深夜まで」


人のいない時間を選ぶか、最悪、タオルで拭けばよい。


「何か問題が?」


「ありません」


「今、一瞬絶望した顔をしなかったか」


「給料から寮費が引かれるのかと思いました」


「宿舎は無料だ」


「素晴らしい職場ですね」


その日、アレクシスは初めて笑った。

ほんのわずかだったが、整った顔が柔らかくなる。


「お前は分かりやすいな」


リリアには、何が分かりやすいのか分からなかった。



男だらけの宿舎で暮らすのは、想像以上に疲れた。


朝から上半身裸で廊下を歩く者がいる。

訓練後、その場で服を脱ごうとする者がいる。

他人の部屋へ勝手に入り、寝台へ寝転がる者までいた。


「なぜ皆、服を着ないのですか」


食堂でリリアが尋ねると、炎術師のカイルが笑った。


「男しかいないんだから、気にするなよ」


「男しかいなくても、服は着るべきです」


「リリオは潔癖だな」


「常識があるだけです」


「お前も、風呂では脱ぐだろ」


「私は人がいない時間に入ります」


「何で?」


「裸の男を見たくないからです」


カイルは妙に納得した顔をした。


「そういう趣味か」


「どういう趣味ですか」


「男が好きなんだろ」


リリアは水を飲んだ。


「そういうことにしておいてください」


嘘は言っていない。


一方、アレクシスは、リリアを徹底的に鍛えた。


「リリオ、結界を張れ」


「今、昼食中です」


「魔獣は食事が終わるまで待たない」


「労働者には休憩する権利があります」


「死んでから主張しても遅い」


「死なないために食べています」


文句を言いながらも、リリアは訓練場へ向かった。


入団試験では、誰よりも優秀だった。

だが、実戦経験はほとんどない。

魔獣は教本どおりに動かない。

敵の魔術師は、詠唱が終わるまで待ってくれない。


アレクシスは厳しかったが、指導は的確だった。

リリアが魔力だけに頼れば、足元を払う。

詠唱へ集中しすぎれば、背後から木剣で叩く。


「痛いです」


「死ぬよりましだ」


「団長に殺されそうです」


「俺程度に殺されるなら、実戦へは出せない」


悔しかった。

だから、リリアは毎晩一人で訓練した。


それに最初に気づいたのも、アレクシスだった。


「休むことも訓練だ」


深夜の訓練場に、彼が現れた。


「団長こそ、なぜ起きているのですか」


「見回りだ」


「嘘ですね」


「なぜ分かる」


「片手に菓子店の袋を持っているからです」


アレクシスは黙って、袋をリリアへ差し出した。

中には、蜂蜜を使った焼き菓子が入っていた。


「余った」


「一つも食べた跡がありませんが」


「甘いものは好きではない」


「では、なぜ買ったのですか」


「お前が、食堂で売り切れていたと騒いでいただろう」


「騒いではいません。三回ほど販売係に確認しただけです」


リリアは焼き菓子を一つ取った。


「ありがとうございます」


「素直に礼が言えるんだな」


「食べ物をくれる人には、礼を尽くします」


アレクシスは呆れた顔をした。

それでも、リリアが食べ終わるまで隣にいた。



季節が一つ変わる頃には、リリアは第二魔術師団に欠かせない存在になっていた。


結界の異常を誰より早く見つけた。

古い術式を改良し、部隊全体の魔力消費を三割減らした。

負傷した仲間を運びながら、片手で魔獣を倒したこともある。


口は悪い。

金と休暇にうるさい。

だが、仲間を見捨てることはなかった。


国境近くの渓谷で魔獣の群れと戦った際、カイルが足場を崩して崖から落ちた。

リリアは迷わず自分の防御結界を解き、風の魔術で彼を引き上げた。

その代わり、背後から魔獣の爪を受けた。


「リリオ!」


アレクシスの放った氷槍が、魔獣を貫いた。


リリアはその場に膝をついた。

背中が焼けるように痛い。

胸を押さえている魔術布も、呼吸をするたびに傷へ食い込んだ。


「大丈夫です」


「その状態で言うな」


アレクシスが抱き上げようとする。


「歩けます」


「黙れ」


「自分で」


「団長命令だ」


言い返す力も残っていなかった。

リリアはアレクシスに抱えられ、王宮の治療室へ運ばれた。

治療を担当したのは、王宮医務官のセレナだった。

四十歳ほどの女性で、治癒魔術と外科処置の両方に精通している。


「団長、外へ出てください」


負傷したリリアを寝台へ寝かせるなり、セレナは言った。


「だが、傷が深い」


「深いからこそです。治療師でもない方に立っていられては邪魔です」


「状態だけでも」


「終わったら説明します」


「しかし」


「外へ」


セレナに睨まれ、アレクシスは不満そうに治療室を出ていった。


扉が閉まる。

セレナは、血に濡れた隊服を鋏で切り開いた。

その下から、胸を強く押さえつける魔術布が現れた。


セレナの手が止まる。

リリアは青ざめた。


「違うんです」


「何が違うの」


「これは、その」


「あなたが女性だということ?」


リリアは答えられなかった。

セレナは短く息を吐くと、再び傷の治療を始めた。


「安心なさい。治療中に知った患者の秘密を、医務官が勝手に話すことはありません」


「報告しないのですか」


「今は患者の命を守る時間です。あなたを裁く時間ではありません」


「ですが」


「黙って。傷が開きます」


セレナは魔術布を外した。

圧迫から解放された瞬間、リリアは激しく咳き込んだ。


「この巻き方は危険です」


セレナの声が厳しくなる。


「肋骨だけではなく、呼吸と魔力循環まで圧迫している。これで大規模魔術を使えば、いつ倒れてもおかしくないわ」


「外すわけにはいきません」


「ならば、もっと安全な方法を教えます」


セレナはリリアをまっすぐ見た。


「あなたは正体を隠すために王宮へ入ったのでしょう。でも、正体を守るために魔術師としての身体を壊したら、本末転倒です」


治療が終わったあと、リリアは自分が正体を隠して魔術師団に入団した理由を話した。

セレナは黙って聞いた後、三つの条件を示した。


一つ、定期的に診察を受け、医務官の指示に従うこと。

二つ、重傷や体調不良を隠して任務へ出ないこと。

三つ、秘密を守ることで仲間の命まで危険にさらされる状況になったら、自分から団長へ話すこと。


「守れますか」


「三つ目は、状況によります」


「今すぐ団長へ報告しましょうか?」


「守ります」


「よろしい」


セレナは、魔力循環を妨げない専用の補整具を用意してくれた。

共同浴場を避けられるよう、治療室の洗浄設備を深夜に使う許可も出した。

さらに、肩幅や身体の線をわずかに変えて見せる簡単な幻影術も教えてくれた。


「なぜ、ここまでしてくださるのですか」


リリアが尋ねると、セレナは薬瓶を並べながら答えた。


「あなたのしたことを正しいとは思っていません」


「では」


「でも、女性が試験を受けられないことも正しいとは思っていない」


セレナは薬瓶の栓を閉めた。


「私も若い頃、戦場の治療師を志望したわ。でも、女には過酷すぎると言われ、王宮の治療室へ回された」


「後悔していますか」


「今の仕事に誇りはある。でも、選ばせてもらえなかったことは、今も許していない」


セレナはリリアを見た。


「それに、崖から落ちた仲間を助けるために、自分の背中を差し出した患者を追い出すほど、私は規則を愛していません」



治療室の外では、アレクシスが待っていた。


「傷は?」


「命に別状はありません」


セレナが答える。


「しばらく安静が必要です」


「面会は?」


「短時間なら」


アレクシスは治療室へ入った。

リリアの顔を見るなり、険しい表情になる。


「なぜ結界を解いた」


「カイルが落ちたからです」


「お前まで死んだら、何の意味もない」


「では、見捨てろと?」


「そうは言っていない!」


声が治療室に響いた。

リリアは驚いて彼を見た。

いつも冷静な男の顔が、怒りと恐怖で歪んでいる。


「俺を呼べばよかった」


「間に合いませんでした」


「ならば、ほかの方法を探せ」


「一瞬で?」


「お前ならできる」


「買いかぶりすぎです」


「買いかぶっていない」


アレクシスは、きつく拳を握った。


「お前が傷つくところを、もう見たくない」


リリアは何と答えればよいのか分からなかった。


「団長として、ですか」


長い沈黙のあと、リリアは尋ねた。

アレクシスは答えなかった。



それから、アレクシスはリリアを避けるようになった。


訓練の指導は、副団長へ任せる。

食堂では離れた席に座る。

以前は必ず声をかけていた夜の巡回でも、目を合わせない。


リリアは不安になった。

セレナが秘密を話したとは思えない。

だが、治療室で何か不自然なことに気づかれたのかもしれない。

正体が明らかになれば、すべてを失う。


職も、給料も、宿舎も。

家族へ薬を送れなくなる。

古代術式の研究も続けられない。

何より、魔術師として得た評価さえ、「女が男を騙して手に入れたもの」と言われるかもしれない。

カイルを助けたことも、術式を改良したことも、すべて偽物として扱われる。


それだけは耐えられなかった。


「団長」


リリアは執務室へ押しかけた。


「話があります」


「今は忙しい」


「私を隊から外すつもりですか」


アレクシスの手が止まった。


「なぜ、そう思う」


「最近、私を避けているからです」


「避けてはいない」


「目も合わせない人間の台詞ではありません」


アレクシスは席を立ち、窓辺へ移動した。


「お前に問題はない」


「では、何が問題なのです」


「俺だ」


リリアは黙った。


「意味が分かりません」


「俺も、分かりたくなかった」


アレクシスは窓の外を向いたまま言った。


「俺はこれまで、女性しか好きになったことがない」


リリアの背筋が冷たくなる。


「ですが、お前は男だ」


「そのはずです」


「そのはず?」


「言葉の綾です」


アレクシスは振り返った。


「お前がほかの団員と話していると、気になる。任務へ行けば、無事に戻るまで落ち着かない。怪我をすれば、自分の判断を後悔する」


「団長としての責任感では?」


「カイルが怪我をしても、眠れなくはならない」


「カイルが聞いたら傷つきます」


「今はカイルの話をしていない」


アレクシスは、苦しそうに眉を寄せた。


「自分が男を好きになるとは思っていなかった」


リリアは何も言えなかった。


「最初は、勘違いだと思った。お前が細くて、顔立ちが中性的だからだと。だが、それでは説明できない」


彼はリリアの目をまっすぐ見た。


「お前がどんな顔でも、どんな声でも、俺は同じように気にしたと思う」


アレクシスは深く息を吐いた。


「だから、受け入れることにした」


「何をですか」


「お前を好きだということを」


リリアの胸が痛んだ。


喜びではない。

罪悪感だった。


アレクシスは、自分が同性を好きになったのだと信じて悩んでいる。

彼は伯爵家の嫡男であり、将来は総団長になると期待されている。

家からは結婚と跡継ぎを求められている。

男性の部下を愛していると知られれば、家督も地位も失う可能性があった。

それでも彼は、自分の気持ちを否定しなかった。


一方、リリアは真実を隠している。


「なぜ、私を避けたのです」


「俺はお前の上官だ」


アレクシスは静かに言った。


「立場を利用して、返事を迫るわけにはいかない。好意を伝えること自体、お前を困らせるかもしれない」


「今、伝えていますが」


「問い詰めたのはお前だ」


「私の責任ですか」


「半分は」


「残り半分は?」


「俺が、隠し続けられなかった」


彼は、少し寂しそうに笑った。


「返事はいらない。これまでどおり、部下として接する」


「できるのですか」


「できなければ、団長失格だ」


「では、なぜ話したのです」


「お前が隊から外されると誤解していたからだ」


アレクシスは視線を落とした。


「お前が悩み続けるよりは、嫌われるほうがましだと思った」


リリアは、その場で真実を話しそうになった。


私は女です。

あなたは同性を好きになったわけではありません。

そう言えば、彼を葛藤から解放できる。


だが、正体を話した瞬間、アレクシスは団長として彼女を告発しなければならない。

彼を共犯者にすることもできない。


「私は」


声が震えた。


「少し、考えさせてください」


アレクシスは頷いた。

それ以上、何も求めなかった。


その誠実さが、余計につらかった。



その夜、リリアはセレナの治療室を訪れた。


「団長は、私を男だと思ったまま、好きだと言いました」


セレナは薬草を刻む手を止めなかった。


「それで?」


「私は、真実を話すべきでしょうか」


「医務官としてなら、あなたの秘密は守ります」


セレナは淡々と答えた。


「でも、一人の人間として言うなら、彼が自分の人生まで問い直しているのを知りながら、黙っていることが誠実だとは思わないわ」


「話せば、私は魔術師団を追放されます」


「そうかもしれない」


「家族を養えなくなる」


「ええ」


「研究も続けられません」


「それも分かっている」


セレナは、ようやく顔を上げた。


「だから、簡単に話せとは言わない」


「では、どうすれば」


「私には決められない」


「無責任ですね」


「他人の人生を決めるほうが、よほど無責任よ」


セレナは刻んだ薬草を小瓶へ入れた。


「あなたには、恋より大切な人生がある。彼にも、団長として守るべきものがある」


「はい」


「だからこそ、いつまでも隠し続けることはできない」


リリアは俯いた。


「分かっています」


「いつ話すかは、あなたが決めなさい。ただし、恐怖に決めさせてはいけないわ」



その数日後、王宮の地下封印庫で異変が起きた。

百二十年前の蒼月の災厄で封じられた魔獣が、突然目覚めたのである。


魔獣は人の魔力を吸収し、吸収するたびに巨大化した。

第一魔術師団の魔術師たちは次々と倒れた。

第二魔術師団にも出動命令が下る。

リリアが装備を整えていると、セレナが治療室から駆けてきた。


「リリオ」


人前だったため、偽名で呼ぶ。


「この護符をつけたまま、大規模な封印術を使ってはいけません」


セレナが、リリアの首元に隠された偽装護符を指した。

護符は魔力の波長を変え、リリアを男性の魔術師として認識させる。


「なぜです?」


「魔力の波長を変え続けながら、大量の魔力を流せば心臓が耐えられない」


「外せば、正体がばれます」


「つけたままなら、死ぬかもしれない」


セレナは低い声で言った。


「選びなさい、リリア」


周囲に聞こえないよう、顔を寄せる。


「男として死ぬのか。女として魔術師を続けるために、生きるのか」


リリアは答えなかった。

その答えを出す前に、地下から激しい揺れが伝わってきた。



地下封印庫では、巨大な黒い魔獣が鎖を引きちぎろうとしていた。

床には、百二十年前に作られた巨大な封印陣が残っている。


「旧式の封印陣を再起動する」


アレクシスが命じた。


「記録では、女性魔術師の魔力に反応して暴走したとされている。現在の隊員は全員男性だ。予定どおり配置につけ」


リリアは床の術式を見つめた。

学院で研究した古代式と似ている。


だが、不自然な箇所があった。

魔法陣の外周に、八つの小さな円がある。

蒼月の災厄で死んだ女性魔術師と同じ数だった。


「待ってください」


「どうした」


「この術式は、魔力を性別で判別していません」


「何?」


「性別ではなく、魔力の波長で役割を分けています」


リリアは膝をつき、古い線を指でなぞった。


「中央の術者が制御を行い、外周の八人から魔力を吸い上げる構造です」


「吸い上げる?」


「術者が限界を超えても、魔力の供給が止まらない」


リリアの手が震えた。


「百二十年前の女性たちは、術式を暴走させたのではありません」


八つの小円は、外側から中心へ魔力を送る一方通行になっている。


「封印を完成させるための生贄にされたのです」


その瞬間、魔獣が封印壁を破った。


アレクシスが氷の盾を張る。

巨大な爪が盾へ叩きつけられ、亀裂が走った。


「全員、下がれ!」


魔術師たちが後退する。


だが、このままでは魔獣が王宮へ出る。

地上では建国祭が行われ、国王も市民も集まっている。


「新しい封印陣を作ります」


リリアが言った。


「時間がない」


「三分ください」


「無理だ」


「二分でやります」


「そういう意味ではない!」


アレクシスがリリアの腕をつかんだ。


「中心に立てば、お前の魔力量でも死ぬ」


「一人へ負担を集中させない術式に変えます」


「今、ここでか?」


「そのために研究してきました」


「失敗すれば?」


「私が死ぬだけです」


「却下だ」


「では、ほかに案があるのですか」


アレクシスは答えられなかった。


魔獣が再び盾へ爪を叩きつける。

氷の亀裂が広がる。


「俺が中心に立つ」


「団長の魔力は氷属性に偏りすぎています。複数属性を循環させる術式は維持できません」


「なら、全員で退却する」


「王宮を捨てるのですか」


「お前を死なせるよりはましだ!」


その叫びに、周囲の団員たちが振り返った。

リリアは、アレクシスの手を振りほどいた。


「私は、あなたに守られるためにここへ入ったのではありません」


「リリオ」


「魔術師として戦うためです」


リリアは首元へ手を入れた。

男としての魔力波長を偽装していた護符を握る。


セレナの言葉がよみがえった。


男として死ぬのか。

女として魔術師を続けるために、生きるのか。


護符をつけたまま術式を使えば、心臓が耐えられない。

外せば、すべてを失うかもしれない。

それでも、仲間を救う術式を完成させることこそ、自分が魔術師になった理由だった。


リリアは護符を引きちぎった。

押し込めていた魔力が、一気に解放される。


淡い金色の光が、彼女の全身を包んだ。

低く偽っていた声も、本来の高さへ戻る。

幻影術が解け、身体の線も本来の姿へ戻った。


周囲の男たちが息をのむ。

アレクシスだけが、言葉を失っていた。


「私は、リリオではありません」


リリアは魔法陣の中心へ立った。


「リリア・クロフォードです」


魔獣が咆哮を上げる。


「そして、女性です」


カイルが目を見開いた。


「今、言うことか!?」


「生きて戻れたら、詳しく説明します!」


リリアは床へ両手をついた。


新しい術式を描く。

性別ではなく、魔力の性質を均等に分散させる封印陣。

百二十年前の女性たちを犠牲にした術式とは違う。


誰か一人へ負担を集中させない。


「全員、私が示した場所へ!」


動揺していた団員たちが、アレクシスを見る。

彼は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

団長として判断している。


自分を騙していた部下を信じるのか。

それとも、拘束するのか。


「リリアの指示に従え!」


アレクシスが叫んだ。


全員が動いた。

火、水、風、土、氷。

異なる魔力が、リリアの術式へ流れ込む。

魔獣が暴れ、結界が揺れる。


リリアの腕から血が流れた。


「リリア!」


「持ち場を離れないでください!」


「だが」


「私を信じるのでしょう!」


アレクシスは歯を食いしばり、氷の魔力を流し続けた。

やがて魔法陣が完成した。


金色の光が魔獣を包む。

咆哮が遠ざかり、巨大な体が床の下へ沈んでいく。

最後に残った黒い影が消えると、地下に静寂が戻った。


リリアは、その場に倒れた。

アレクシスが駆け寄り、彼女を抱き止める。


「リリア」


「怒っていますか」


「当然だ」


「解雇されますか」


「今、それを聞くのか」


「給料が」


「黙れ」


アレクシスの声が震えていた。


「生きていてくれ」


リリアは、彼の腕の中で目を閉じた。



目を覚ますと、王宮の治療室にいた。


窓の外は明るかった。

寝台の脇では、セレナが薬を調合している。

少し離れた椅子に、アレクシスが座っていた。


「何日、眠っていましたか」


「二日よ」


セレナが答える。


「その間の給料は」


「出る」


アレクシスが言った。


「よかった」


「ほかに心配することがあるだろう」


リリアは天井を見た。


「私の正体は、全員に知られましたか」


「あの場にいた者には」


「総団長と国王にも報告した」


アレクシスの言葉に、胸の奥が冷たくなる。


当然だった。

彼は団長である。

身分詐称を隠すことはできない。


「処分は?」


「まだ決まっていない」


「団長は、どう思いますか」


アレクシスは答えなかった。

その沈黙が怖かった。


「騙していたことは、謝ります」


リリアは言った。


「言い訳はしません。私は男の身分証を使い、採用試験を受けました。規則を破り、皆を騙した」


「なぜ、俺に言わなかった」


声は静かだった。

怒鳴られるより、つらかった。


「言えば、団長は私を報告しなければならないからです」


「俺が黙っていたかもしれない」


「そうかもしれません。でも、あなたには負担をかけたくなかったのです」


リリアは彼を見た。


「あなたが誠実な人だから、言えなかったのです」


アレクシスは唇を引き結んだ。


「俺が、男のお前を好きだと言ったときも?」


「特に、そのときは」


「俺がどれほど悩んだか分かっているのか」


「分かっています」


「分かっていて、黙っていた?」


「私が女性だと明かせば、私は楽になるかもしれない。ですが、その瞬間にあなたをさらに悩ませると思ったのです」


リリアの声が震えた。


「それに、私には家族がいます。薬代も、借金もある。それだけではありません」


涙が滲みそうになる。


「私は、やっと魔術師として認められたのです」


試験で首席を取った。

仲間を救った。

術式を改良した。

研究を任された。


「女性だと分かった途端、これまでの功績まで偽物にされるのが怖かった。すべて、男のふりをした詐欺師の行いだと言われるのが」


アレクシスは、長い間黙っていた。


「俺は、安心した」


やがて彼が言った。

リリアの胸が痛んだ。


「私が女だったからですか」


「最初は、そう思った」


アレクシスは自嘲するように笑った。


「お前が女性なら、俺は世間に説明しやすい。家族にも、王宮にも。男を好きになったのではないと安心した自分がいた」


リリアは目を伏せた。


「だが、その安心を恥じた」


アレクシスは続けた。


「俺が好きになったのは、男だと思っていたお前だ。性別を知る前から、話し方も、考え方も、命を惜しまず仲間を助けるところも好きだった」


彼はリリアの手へ触れようとして、途中で止めた。


「お前が女だったから好きになったわけではない。女だと分かったから、これまでの気持ちが別のものに変わるわけでもない」


「では、まだ私を?」


「好きだ」


即答だった。


「だが、それとは別に、怒っている」


「はい」


「俺を信じなかったことに」


「信じていたから、言えなかったのです」


「その理屈は、今後話し合う必要がある」


「今後があるのですか」


アレクシスは、ようやくリリアの手を握った。


「俺はそのつもりだ」


「団長」


セレナが咳払いをした。


「患者はまだ回復していません。恋愛の話は、回復後にしてください」


アレクシスは渋々手を離した。

リリアは少しだけ笑った。



リリアの処分を決める審問は、十日後に開かれた。


身分詐称。

公文書の不正使用。

採用規則への違反。

罪は明らかだった。


リリアは魔術師団の制服ではなく、簡素な女性用の服を着て審問室へ入った。


傍聴席には、第二魔術師団の仲間たちがいた。

カイルと目が合う。

彼は小さく手を上げた。

怒っていないらしい。

それだけで、少し息がしやすくなった。


「リリア・クロフォード」


総団長が言った。


「身分を偽ったことを認めるか」


「認めます」


「女性を採用しない規則を知っていたか」


「知っていました」


「なぜ、規則を破った」


「規則が間違っていると考えたからです」


室内がざわめいた。


「蒼月の災厄で、女性魔術師が大規模魔術に耐えられないことは証明されている」


「証明されていません」


リリアは、地下で書き写した術式を提出した。


「当時の女性魔術師たちは、魔力が不安定だったのではありません。封印術の生贄として配置されていました」


総団長の顔色が変わる。


「その記録は」


「地下封印庫の原式と、王宮文書庫に残る初期記録を照合しました」


声を上げたのは、アレクシスだった。

彼は審問官の前へ、古い記録の束を置いた。


「災厄後に作られた報告書では、術式の一部が削除されています。女性魔術師の死を事故として処理し、当時の責任者を守るためです」


「ベルナール団長」


総団長が険しい目を向ける。


「君は、部下を庇うために規則そのものを否定するのか」


「いいえ」


アレクシスは答えた。


「誤った記録に基づく規則を正すためです」


「彼女は君を騙していた」


「事実です」


「それでも庇うのか」


「彼女の罪と、規則の正当性は別の問題です」


アレクシスはリリアを見なかった。

個人的な感情ではなく、団長として話している。


「身分詐称については、相応の処分が必要です。しかし、女性であることを理由に、彼女の能力と功績まで否定するべきではありません」


次に、セレナが証言台へ立った。


「リリア・クロフォードが女性であることは、任務中の治療で知りました」


「なぜ報告しなかった」


「患者の秘密を勝手に漏らさないことは、王宮医務官が立てる誓いの一つです」


「規則違反を見逃したのか」


「私は規則ではなく、患者の命を守りました」


セレナは審問官たちを見渡した。


「また、彼女の身体能力、魔力循環、精神状態に、戦闘魔術師として不適格な点はありませんでした」


「しかし、女性は大規模魔術に耐えられないと」


「医学的な根拠はありません」


セレナはきっぱりと言った。


「むしろ、男性用に作られた装備や宿舎環境へ無理に適応しなければならなかったことが、彼女の健康を害していました」


カイルが立ち上がった。


「俺は、崖から落ちたときにリリアに助けられました」


「発言は許可していない」


「では、許可してください」


「座れ」


「助けられた人間が、黙って座っていられると思いますか」


それをきっかけに、第二魔術師団の団員たちが次々と声を上げた。


「術式を改良したのもリリアです」


「地下で全員を救ったのも」


「男だろうが女だろうが、俺より強いです」


「最後の者は、余計なことを言うな!」


審問室が騒がしくなる。


リリアは、泣きそうになった。

今度は、こらえる必要がないように思えた。



最終的に、リリアは身分詐称の罪で、半年間の減俸と三か月間の任務停止処分を受けた。

王宮魔術師団を男性に限定する規則は、さらなる議論の後に停止された。


蒼月の災厄についても、正式な再調査が始まった。

任務停止中、リリアは魔術師団の外部協力者として、地下封印庫の術式解析を続けることを許された。


給料は減った。

だが、研究は続けられた。

それだけでも、彼女にとっては救いだった。


三か月後、性別を問わない新しい採用試験が行われた。


リリアも、本名でもう一度受験した。

筆記、実技、実戦。

すべて首席だった。


「二度目も台座を壊したそうだな」


正式な採用通知を渡しながら、アレクシスが言った。


「以前より丈夫な台座でした」


「壊してよい理由にはならない」


「私の成長を示しました」


「台座の成長も考えてやれ」


リリアは採用通知を受け取った。


名前の欄には、リリア・クロフォードと記されている。

偽名ではない。

男の身分証も必要ない。

自分の名前で、王宮魔術師団員になった。


「ところで」


リリアは通知の下を確認した。


「減俸は、本当にあと三か月続くのですか」


「審問で決まった」


「魔獣を封印した功績による報奨金は?」


「別に支給される」


「それを先に言ってください」


アレクシスが笑った。

性別を知る前と、同じ笑い方だった。



アレクシスは、すぐには改めて告白しなかった。


リリアが正式に第二魔術師団へ戻った後も、二人は団長と部下として接した。

訓練では容赦なく木剣で叩かれた。

任務では、ほかの団員と同じように扱われた。

食堂では、ときどき焼き菓子が置かれていた。


リリアは実戦任務を続けながら、封印術の研究にも取り組んだ。

百二十年前のように、誰か一人を犠牲にする術式をすべて調べ直した。

魔力を複数の術者へ安全に分散する方法。

異なる属性を循環させる方法。

術者が限界に達した際、自動的に術式を停止させる仕組み。


研究室だけではなく、現場へ出て検証を重ねた。

彼女が望んでいたのは、安全な場所から魔術を論じることではない。

魔術師として最前線へ立ち、その経験を次の術式へ生かすことだった。


半年後、リリアは新設された封印術研究班の責任者へ任命された。

研究班は魔術師団長ではなく、王宮魔術院長の指揮下に置かれる。

リリアは、アレクシスの直接の部下ではなくなった。


その日の夕方、アレクシスが研究室へ現れた。


「話がある」


「相談料は取りませんが、短くしてください」


「以前、お前に告白した」


「男性のリリオへ、ですね」


「そうだ」


「その人物は、もう存在しません」


「中身は目の前にいる」


アレクシスは、少し緊張した顔で姿勢を正した。


「リリア・クロフォード」


「はい」


「改めて、俺と交際してほしい」


リリアは、すぐには答えなかった。


「私は、あなたを騙しました」


「知っている」


「今後も、意見が合わないと思います」


「すでに毎日合っていない」


「私は、仕事を優先します」


「俺もだ」


「危険な任務にも出ます」


アレクシスの眉が動いた。


「研究班の責任者が、毎回前線へ出る必要はない」


「現場を知らずに、実戦用の術式は作れません」


「俺が心配する」


「団長としてですか?」


「恋人としてだ」


「まだ恋人ではありません」


「だから、今、頼んでいる」


リリアは少し笑った。


「休日出勤には手当を求めます」


「恋人として会う場合は?」


「私用なので、無料です」


アレクシスの表情が明るくなった。


「では」


「ただし、食事代は交互に払いましょう」


「俺が払う」


「対等でいたいのです」


アレクシスは、しばらくリリアを見つめた。


「ああ。分かった」


「本当に?」


「お前が男だと思っていた頃から、対等でなければ相手にされなかった」


リリアは笑った。


「よく分かっていますね」


「半年以上かかった」


彼が手を差し出す。

リリアは、その手を取った。



三年後。


リリア・クロフォードの名は、王国中の魔術師に知られていた。

彼女が完成させた新しい封印術は、術者一人へ負担を集中させず、複数の魔力を均等に循環させる。

誰かを犠牲にすることを前提とした古い術式は、すべて廃止された。


王宮魔術師団には、二十人を超える女性魔術師が所属している。

リリアは若い魔術師たちを指導しながら、研究と実戦の両方で功績を重ねていた。


父の借金は完済した。

ミーナには十分な薬を送れるようになり、体調も以前より安定している。


セレナは、新たに作られた女性団員用の医務室を任されていた。

ただし、女性だけではなく、無茶をするすべての団員を平等に叱っている。


ある冬の日。


北部の村で巨大な魔獣が発見された。

リリアは完成したばかりの術式書を抱え、出動用の馬車へ向かった。


「研究班の責任者が、毎回前線へ出る必要はない」


隣を歩くアレクシスが言った。


「その話は、何度も聞きました」


「ならば、聞き入れろ」


「現場を知らずに、実戦用の術式は作れません」


「俺が心配する」


「団長としてですか?」


「三年前から、恋人としてだ」


「職務上の判断には影響させないでください」


「三年付き合っても、少しも甘くならないな」


「私は、恋をするために魔術師になったのではありません」


リリアは、新しく完成した術式書を抱え直した。


「魔術師として生きるために、ここへ来たのです」


その横顔を見て、アレクシスは笑った。


「知っている」


彼はリリアの荷物を一つ取り、馬車へ積み込んだ。


「だから、好きになった」


「荷物を持ったからといって、今回の作戦で勝手な配置変更は認めませんよ」


「分かっている」


「私を後方へ下げたら、次の休日は一人で過ごしていただきます」


「それは困る」


「では、命令に従ってください」


「どちらが団長か分からないな」


「封印術に関しては、私です」


リリアが馬車へ乗り込もうとすると、アレクシスがその手を取った。


「もう一つ、話がある」


「出発まで五分しかありません」


「五分あれば十分だ」


アレクシスは、隊服の内側から小さな箱を取り出した。

中には、淡い金色の石がはめ込まれた指輪が入っている。


「任務へ行く直前に渡すものではないでしょう」


「戻ってからでは、また別の任務が入る」


「縁起が悪いです」


「必ず戻ると約束するために渡す」


アレクシスは、リリアの目をまっすぐ見た。


「俺は、リリオという青年だと思っていたお前を好きになった」


リリアは黙って聞いた。


「正体を知り、リリアという女性を知っても、その気持ちは変わらなかった」


彼の手には、わずかに力が入っていた。


「これから先、お前がどんな地位につき、どれほど遠い場所へ行っても、魔術師として生きることを邪魔しない」


「本当に?」


「ああ」


「危険な任務を止めませんか?」


「止めたいとは言う」


「言うのですね」


「だが、最後にはお前の判断を尊重する」


アレクシスは、静かに笑った。


「お前の強さも、頑固さも、夢も含めて、一生隣で見ていたい」


リリアは指輪を見つめた。


「結婚してくれ、リリア」


「条件があります」


「やはりあるのか」


「研究室は別にしてください」


「分かった」


「家事は分担です」


「分かった」


「私の給料と研究費は、私が管理します」


「最初から手を出すつもりはない」


「仕事中に、妻だからと特別扱いしないでください」


アレクシスは少しだけ迷った。


「努力する」


「努力ではなく、約束してください」


「約束する」


リリアは指輪を手に取った。


「では、お受けします」


アレクシスが目を見開いた。


「本当に?」


「今さら断ると思ったのですか」


「条件をあと十個ほど追加されるかと思った」


「追加は結婚後に考えます」


「まだ増えるのか」


リリアは笑いながら、指輪を左手にはめた。


少し大きい。

それに気づいたアレクシスが、申し訳なさそうに眉を寄せる。


「戻ったら、直させる」


「私の指の大きさも知らずに、よく求婚しましたね」


「男だと思っていた頃、手を測る機会がなかった」


「女だと分かってから三年ありましたが」


「指輪を渡すと気づかれたくなかった」


「団長は、意外と不器用ですね」


「今ごろ気づいたのか」


出発を知らせる鐘が鳴った。

リリアは馬車へ乗り込む。

アレクシスも、その隣へ座った。


「無事に戻ったら、陛下へ報告します」


「結婚のことですか?」


「ああ」


「任務の報告が先です」


「分かっている」


「式は小さくしてください」


「家族と仲間だけでいい」


「費用は折半で」


「俺に払わせてくれ」


「対等でいたいと言いました」


「では、俺が多く招待した分だけ多く払う」


リリアは少し考えた。


「合理的ですね」


「三年かけて学んだ」


馬車が動き出す。

窓の外には、白い雪が舞っていた。


かつてリリアは、男にならなければ魔術師として認められないと思っていた。

今は、自分の名で戦い、自分の術式を残し、自分の後を歩く者たちの道を作っている。

そして、その隣には、彼女の性別ではなく、魔術師としての生き方を愛した男がいた。


「リリア」


アレクシスが呼ぶ。


「何ですか」


「帰ったら、家を探そう」


「研究室から近い場所にしてください」


「魔術師団からも近い場所だ」


「台所は広めで」


「料理をするのか?」


「あなたが」


「俺が?」


「結婚後も、私は研究で忙しいので」


アレクシスはしばらく黙ったあと、諦めたように笑った。


「分かった。練習しておく」


「期待しています」


リリアは指輪へ触れた。

金色の石が、冬の光を受けて輝いている。


魔術師としての未来も。

愛する人と歩む未来も。

どちらかを諦める必要などなかったのだ。


リリアは新しい術式書を開き、隣に座る婚約者へ指示を出した。


「団長。今回の作戦配置を確認します」


「今からか?」


「当然です。失敗すれば、結婚式が延期になります」


「それは絶対に避けよう」


アレクシスは真剣な顔で術式書を覗き込んだ。

その様子を見て、リリアは満足そうに笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ