9.おばけキャッチは総合格闘技 その4
テーブルはもはや、無数の傷が刻まれた戦場跡だった。
全員のポイントは拮抗。残る山札は、あと一枚。
このカード一枚で、この長く、激しく、そして野蛮な戦いの覇者が決まる。
ゴクリ、と誰かの喉が鳴る。
権田さんは、獲物を狙う虎のように低く身構えている。
冴子さんは、蛇のように静かに、しかしその瞳の奥には確かな殺意を宿している。
影山さんは、もはやブツブツという呟きが高速詠唱の域に達していた。
そして、部屋の隅で膝を抱えていた女子大生が、この狂気の宴の最後の引き金を引いた。
彼女が、ほとんど無意識に、最後のカードをめくってしまったのだ。
めくられたカード――正解は、『赤いイス』。
その瞬間、時が止まった。
いや、俺以外の全員の時間が、極限まで加速した。
「ぬおおおおおおっ!」
権田さんの剛腕が、赤い彗星となって『赤いイス』に襲いかかる!
「させませんわ!」
冴子さんの指先が、白い閃光となってそれを迎撃する!
「確率99.8%で僕の勝利だ!」
影山さんの手が、予測された未来を掴むためにテーブルを滑る!
三つの、いや、そこにいた常連全員の手が、テーブル中央の、たった一つの『赤いイス』に殺到した!
ガッ! ドッ! バキィッ!!!
衝突。
それは、もはや「手がぶつかる」などという生易しいものではなかった。
隕石の激突。大陸プレートの衝突。ビッグバン。
ありとあらゆる破壊のイメージが、俺の脳裏をよぎった。
そして、俺は見た。
凄まじい衝撃の中心にあった『赤いイス』のコマが、まるで無重力空間に放り出されたかのように、ふわり、と宙を舞ったのを。
スローモーションの世界だった。
宙を舞う『赤いイス』。
それを、呆然と見上げる狂戦士たち。
誰もが手を伸ばすが、その指先は、虚しく空を切るだけだった。
放物線を描きながら、ゆっくりと落ちていく『赤いイス』。
その落下予測地点は――。
ポチャン。
可愛らしい、小さな水音が、静まり返った店内に響き渡った。
『赤いイス』は、そこに落ちた。
俺が、いつの間にか自分の身を守るために、盾のように胸の前で抱えていた、お冷のグラスの中に。
奇跡的なホールインワンだった。
「「「…………え?」」」
全員が固まる。
権田さんも、冴子さんも、影山さんも、まるで世界が終わったかのような顔で、俺のグラスの中、水面にぷかぷかと浮かぶ『赤いイス』を見つめていた。
静寂を破ったのは、カウンターの向こうで、一部始終を満足げに眺めていた店長の神楽坂の声だった。
「……勝負あり、ですね」
店長は、静かに、しかしはっきりと宣言した。
「コマに最初に触れたのは、グラスの中の水。そして、そのグラスを現在進行形で保持していたのは、潤くんです。よって、このラウンドの勝者は、潤くん。――そして、このゲームの総合優勝者は、相田潤くんです」
「「「な、なんだとーーーーーーーーーっ!?」」」
常連たちの絶叫が、店内にこだました。
俺は、ただグラスの中で揺れる『赤いイス』と、絶望する常連たちを交互に見るだけだった。
勝った……らしい。指一本動かしていないのに。
やがて、我に返った権田さんが、わなわなと震えながら俺を指差した。
「お、お前……まさか、俺たちの衝突エネルギーとそのベクトルを瞬時に計算し、コマの飛翔コースを予測して、その落下地点にグラスを置いていたというのか……!?」
「そんなこと出来るわけないだろ! アインシュタインでも無理だ!」
冴子さんも、悔しそうに扇子で口元を隠している。
「恐ろしい……。物理的な攻撃を、液体を使って受け流し、全てを自分のものにするなんて……これが、あなたの新しい戦法……? 『流水制空権』とでも、名付けるべきかしら……!」
「新しい戦法でもなければ、そんな大層な名前つけないでください!」
こうして、俺はまた一つ、新たな勘違いの伝説を打ち立ててしまった。
全ての狂宴が終わり、魂が抜け殻になった常連たち。その傍らで、青ざめた顔の女子大生が、震える足でおずおずと会計カウンターへ向かった。
「あ、あの……お会計……」
彼女が差し出す財布を、店長はにこやかに手で制した。
「いえいえ、滅相もございません。本日は、楽しんでいただけましたか?」
楽しんでるように見えますか、と俺は言いたかった。
店長は、続ける。その笑顔は、どこまでも黒い。
「……よろしければ、あなたも、我々のこの『夜の部』のメンバーに、なりませんか?」
悪魔のスカウトだった。
それを聞いた瞬間、女子大生は「ひゃいっ!」と、もはや人間のそれとは思えない悲鳴を上げた。そして、財布からお札を数枚、カウンターに叩きつけると、脱兎のごとく店から逃げ去っていった。その背中は、二度とこの店のドアを開けることはないだろうと、雄弁に物語っていた。
俺は、去りゆく日常の象徴(女子大生)の姿に、ほんの少しだけ、明日の自分を重ねて同情した。
だが、そんな感傷は、店長から渡された給料袋の厚みによって、すぐに消し飛んだ。
「お疲れ様、潤くん。今日の優勝賞金と、テーブルの修理代を相殺しても余りあるほどの『特別危険手当』を付けておいたよ」
給料袋の中には、諭吉が数人、いつもより多く微笑んでいた。
俺は、無傷で済んだ自分の指と、その給料袋を、交互に見つめる。
そうだ。この店は狂っている。客も、店長も、ゲームも。
だが、給料だけは、最高にまともだ。いや、まともじゃないほど、良い。
俺は、静かに決意を固めた。
流水制空権? 上等だ。
次はどんな地獄が待っていようと、この給料のためなら、耐え抜いてみせる。
俺は、明日もまた、この狂気の戦場に出勤するのだ。