7.おばけキャッチは総合格闘技 その2
「じゃあ、まず練習でやってみましょうか!」
女子大生が、天使のような笑顔でカードの山に手をかける。
俺は、その光景をぼんやりと眺めていた。そうだ、練習だ。まずは肩慣らし。いきなり本番じゃないだけ、まだ心臓に優しい。
彼女の指が、軽やかに一枚のカードを弾いた。
パラリ、と乾いた音を立てて、カードがテーブルの中央に舞い落ちる。
めくられたカードに描かれていたのは、『緑色のイス』と『灰色のネズミ』。
ルールによれば、この場合、カードに描かれているものと「色も形も全く合っていない」コマを取るのが正解だ。つまり、緑でもなく、灰色でもなく、イスでもなく、ネズミでもないもの……。
正解は――『白いおばけ』。
俺の脳が、その答えを導き出すのに、コンマ数秒を要した。
よし、取るぞ。そう思って、テーブルに視線を落とした、まさにその刹那。
俺の目の前を、凄まじい速さの『影』が二つ、交錯した。
一つは、明らかに人間の腕とは思えないほど、太く、そして獰猛な影。
もう一つは、しなやかで、鋭利な刃物のように洗練された影。
そして、次の瞬間。
バギィッ!!!!
テーブルの中央で、何かが砕けるような、鈍い破壊音が炸裂した。
「「「…………!?」」」
俺と、カードをめくった女子大生、そして他の常連客たちの動きが、完全に停止する。
時が止まったかのような静寂の中、全員の視線が、テーブルの中央の一点に注がれていた。
そこにあったのは、無傷の『白いおばけ』のコマ。
そして、そのコマを、上と下から挟み込むように押さえつけている、二つの『手』。
権田さんの、岩のように巨大な拳。
冴子さんの、白魚のように美しい指。
二人の手が、コマの上で、激しく火花を散らすように、拮抗していた。
コマは無事だ。だが、その下にあるものが無事ではなかった。
二人の凄まじいパワーを受け止めたオーク材の頑丈なテーブルに、まるで雷が落ちたかのように、ピシリ、と小さな亀裂が走っていた。
「ひっ……!」
隣で、女子大生が小さな悲鳴を上げた。彼女の顔からは、血の気が完全に引いている。
俺は、声にならない叫びを、心の中で絶叫していた。
(テ、テーブルがああああああああっ! 店の備品が! 俺のバイト代から天引きされたらどうしてくれるんだ!)
当の本人たちは、そんな俺の悲痛な叫びなど全く意に介さず、互いを睨みつけていた。
「フン……」
権田さんが、獣のように低い唸り声を上げる。
「今日の俺の動体視力は、マッハを超えているぜ。お前ごときの動き、止まって見えるわ」
「あら」
対する冴子さんは、優雅に、しかし絶対零度の微笑みを浮かべていた。
「筋肉の収縮速度だけでは、このゲームは取れませんことよ? 大事なのは、いかに相手の思考の先を読むか……その一点ですわ」
彼らの目は、もう「遊び」の目ではなかった。
獲物の喉笛に食らいつく、飢えた捕食者の目だ。
さっきまでの和やかな雰囲気は、どこにもない。そこにあるのは、ただ純粋な闘争心と、勝利への渇望だけだった。
店長の神楽坂が、カウンターの向こうで「おや、始まりましたか」と、楽しそうに目を細めている。あんたは少しは止めろ!
女子大生が、震える声で言った。
「あ、あの……同時にコマに触れた場合は、このラウンドはノーカウントに……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、権田さんと冴子さんは、パッと同時に手を離した。そして、何事もなかったかのように、自分の席に戻る。
「……次だ」
権田さんが、ゴクリと喉を鳴らす。
「……ええ、次ですわね」
冴子さんが、そっと指先のストレッチを始める。
もう、誰も彼女たちのことを止められない。
ゴングは鳴らされた。いや、彼ら自身が、ゴングになったのだ。
俺は、これから始まるであろう地獄絵図を予感し、そっと自分の両手をテーブルの下に隠した。
これは、ゲームなんかじゃない。
指の一本や二本、へし折られる覚悟がなければ、とてもじゃないが参加できない。
盤上の総合格闘技が、今、静かに、そして暴力的に幕を開けたのだ。