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15.コードネームは阿鼻叫喚

 神楽坂柚月が、この狂気の城『チェックメイト』のスタッフとして働き始めてから、数日が過ぎた。

 俺、相田潤の隣に、もう一人「常識人」がいる。その事実は、俺の精神的負担を半分にしてくれる……はずだった。


「潤くん、補充用のコーヒー豆、どこにありますか?」


「ああ、棚の上から2番目の……」


「権田さん! テーブルを揺らさないでください! 他のお客様の迷惑です!」


「うるせえ! 俺の魂が揺れてんだよ!」


「……はあ」


 柚月は、カウンター業務を完璧にこなしながら、的確に、そして容赦なく、常連たちの奇行にツッコミを入れていく。その姿は、まるで猛獣たちの群れに現れた、孤高の風紀委員のようだった。

 だが、悲しいかな。この店の猛獣たちは、風紀委員の注意など、そよ風程度にしか感じていない。

 結果として、俺の隣で、柚月は日に日にその眉間のシワを深くし、ため息の回数を増やしていくのだった。俺の胃への負担は、全く減っていなかった。


 ◇


 その夜も、店内はいつも通りのカオスだった。

 そんな中、常連客の一人が、一つの箱をテーブルに置いた。


「たまには、チーム戦と洒落込みませんか?」


 そのゲームの名は、『コードネーム』。

 ルールは簡単。2つのチームに分かれ、リーダー(スパイマスター)が出すヒントを元に、味方が盤面に並んだ正解の単語カードを当てていく。味方との絆と、閃きが試されるゲームだ。


「チーム戦だと!? 上等だ!」


 権田さんが、早速その提案に食いつく。


「俺と潤と柚月で、ジジイババアどもを叩きのめしてやるぜ!」


「あら、誰がジジイババアですって? その筋肉、加齢臭がしそうですわね」


 冴子さんが、即座に応戦する。

 早速始まった不毛な言い争いを、柚月が「お客様、チーム分けは公平にお願いします」と、バッサリと切り捨てた。

 そして、くじ引きの結果、完成したチーム分けは、以下の通りだった。


【紅組:常連客チーム】

 権田、冴子、影山

【白組:スタッフチーム】

 相田潤、神楽坂柚月


「…………」


 俺と柚月は、顔を見合わせた。

 どう考えても、戦力差がおかしい。

 例えるなら、ゴ◯ラとキングギ◯ラとメカゴ◯ラが手を組んだチームに、丸腰の人間二人が立ち向かうようなものだ。勝ち目など、あるわけがない。


「ふふふ、潤くん、柚月さん。お手合わせ、光栄ですわ」


 冴子さんが、勝利を確信した笑みを浮かべている。

 権田さんも「ハンデにもなりゃしねえ!」と高笑いだ。

 俺は、隣で絶望に顔を青くしているであろう柚月に、同情的な視線を送った。

 だが、彼女の表情は、俺の予想とは違っていた。

 その瞳には、絶望ではなく、静かな、しかし確かな闘志の炎が燃えていたのだ。


「……潤くん」


 柚月が、俺にだけ聞こえる声で、静かに言った。


「あの人たちに、論理的思考と、的確な言語選択能力がいかに重要か、思い知らせてやりましょう」


 その姿は、もはや風紀委員ではなかった。

 圧倒的な戦力差の敵を前に、冷静に勝利への道筋を組み立てる、美しき天才軍師の姿が、そこにはあった。あぁ、大義名分って熟語が見える視える。


 ……まあ、この後、彼女のその完璧なロジックが、味方(俺)と敵(権田さん)の予測不能な行動によって、木っ端微塵に破壊されることになるのだが。

 この時の俺たちは、まだ知る由もなかった。



 先攻は、戦力で圧倒的に勝る【紅組:常連客チーム】。

 その初代スパイマスターに名乗りを上げたのは、やはりというべきか、氷の女王・冴子さんだった。


「ふふふ、最初のリーダーは、ゲームの流れを作る重要な役目。わたくしが、あなた方に『格の違い』というものをお見せしますわ」


 彼女は、優雅に椅子に座ると、盤面に並べられた25枚の単語カードに、スッと鋭い視線を走らせた。その姿は、まるで戦場全体を把握する、百戦錬磨の軍師のようだ。

 一方、回答者席に座る権田さんと影山さんは、対照的だった。

「おう! どんと来いや!」と拳を握る権田さん。

「ふむ、この盤面における最適解は…」とブツブツ分析を始める影山さん。

 俺と柚月は、固唾を飲んで、冴子さんの第一手を見守る。

 やがて、彼女は完璧な答えを見つけ出したらしい。その口元に、勝利を確信した笑みが浮かんだ。

 盤面には、彼女のチームの正解ワードとして、「ライオン」「チャンピオン」「リング」が存在している。どれも、力と闘争心を象徴する、権田さんのためにあるような単語だ。

 冴子さんは、権田さんでも絶対に理解できる、完璧なヒントを紡ぎ出した。


「――『最強』、3」


 そのヒントを聞いた瞬間、権田さんの目がカッと見開かれた。


「『最強』……だと……?」


 来た! 冴子さんの狙い通りだ!

「最強」というキーワードは、権田さんの魂に火をつける、最高のトリガーワードのはず。これで、「ライオン」「チャンピオン」「リング」の3つを連想させ、一気に正解を叩き出す算段だ。

 冴子さんの浮かべる笑みが、そう確信していた。

 しかし。

 権田さんの思考回路は、常人の、そして、冴子さんの予測を、遥か斜め上に超えていた。

 権田さんは、盤面を見なかった。

 彼は、天を仰ぎ、そして、自分の胸を力強く叩いた。


「『最強』……。そうだ、その言葉は、この世でただ一人、この俺様のためにある言葉だ!」


「え?」


 冴子さんの口から、小さな疑問の声が漏れる。

 権田さんは、続ける。


「『最強』の俺様を象徴するもの……。それは、この鍛え上げられた肉体! そして、全てを粉砕する、この拳! つまり、答えは……これだッ!!」


 権田さんが、勝利を確信して、ビシリと指差したカード。

 そこに書かれていた単語は――

『パンチ』


「…………」


 冴子さんの、完璧な微笑みが、フリーズした。

 そして、その『パンチ』のカードは、無慈悲にも、俺たち【白組:スタッフチーム】の色のカードだった。


「残念。それはスタッフチームのカードです。紅組のターンは、これで終了となります」


 審判役の店長が、淡々と、しかしどこか楽しそうに、カードの上に白組のタイルを置いた。

 冴子さんの顔から、表情が抜け落ちていた。

 その完璧な笑顔はどこにもなく、ただ、絶対零度の瞳で、自分の味方であるはずの脳筋を睨みつけている。

 彼女の額に、ピキリ、と青筋が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。

 完璧なヒントを出したはずの天才軍師が、味方のあまりにも個人的すぎる解釈のせいで、ただの大ボケをかましたピエロになってしまった瞬間だった。

 俺は、そのあまりにも見事な自滅に、もはやツッコむ気力もなかった。

 隣で、柚月が静かに、しかし的確に呟く。


「……内輪揉め、ですか。非合理的すぎて、逆に興味深いですね」


 その言葉は、怒りに震える冴子さんには、届いていなかった。



 権田さんという名の自走式大災害によって、常連客チームはあっけなく自滅。

 ターンは、俺たち【白組:スタッフチーム】に回ってきた。

 リーダー席についたのは、神楽坂柚月だった。

 彼女は、先ほどの冴子さんの無様な失敗を見て、「理解不能です」とでも言うように、小さく首を振った。そして、俺の方を向き、静かに、しかし力強く宣言した。


「潤くん。見ていてください。論理と、的確な言語選択さえあれば、このゲームは必ず勝てます」


 その瞳は、もはやただのバイトの同僚を見る目ではなかった。

 無能な兵士を率いて、絶望的な戦場に赴く天才軍師の目だ。

 俺は、その気迫に「お、おう…」と頷くことしかできなかった。

 柚月は、盤面に並んだカードに、鋭い視線を走らせる。

 その思考は、おそらく超高速で回転しているのだろう。数秒の黙考の後、彼女は、まるで数学の証明問題を解き終えたかのように、スッと顔を上げた。

 盤面には、俺たちのチームの正解ワードとして、「病院」「注射」「白衣」が存在していた。

 これ以上ないほど、分かりやすい共通項を持つ単語たちだ。

 柚月は、その完璧な答えを、一切の無駄なく、一切の感情を排して、俺に告げた。


「――『医療』、3」


 完璧なヒントだった。

 論理的。的確。簡潔。

 これを聞いて、間違える人間など、いるはずがない。

 そう、この『チェックメイト』という魔境に、脳を焼かれてさえいなければ。


(『医療』、3……か)


 俺は、そのヒントを脳内で反芻した。

 一見、答えは「病院」「注射」「白衣」で確定だ。簡単すぎる。

 ……だが、待てよ。

 ここは、あの『チェックメイト』だぞ?

 権田さんの脳筋ムーブ、冴子さんの腹黒い罠、影山さんの確率論、そして、店長の悪魔のような微笑み。

 この店で、「簡単すぎる」ことほど、信用できないものはない!


(そうだ、これは罠だ!)


 俺の思考は、完全に疑心暗鬼の沼へと沈んでいった。


(彼女は、俺を試しているんだ! このヒントの裏に隠された、真の意味を読み解けるかどうかを!)


 俺は、必死に盤面を睨みつける。

「医療」……それは、命を扱う現場だ。命を扱うということは、そこには「死」の危険が伴う。そうだ、このヒントの裏テーマは「死」なんだ!

 だが、盤面には「死」に関連する単語はない。

 ……ということは、これはトラップカード(アサシン)を避けろという、柚月からのメッセージか!?


(そうだ、盤面にある『スパイ』のカード! あれがアサシンだ! あれを避けて、命に関わる単語を選べばいいんだ!)


 俺は、一人で完璧な推理を組み立て、大きく頷いた。

 柚月が、俺のその自信に満ちた頷きを見て、わずかに眉をひそめたのが見えた。


「分かったぜ、柚月さん! あんたの言いたいこと!」


 俺は勝利を確信して、一枚のカードを、ビシリと指差した。


「答えは、これだ! 『ロケット』!」


「…………はい?」


 柚月の口から、宇宙猫を見るかのような、素っ頓狂な声が漏れた。

 俺は、自信満々に解説する。


「医療は命に関わる! ロケットも、一歩間違えば大爆発して命に関わる! だから、答えは『ロケット』だ! どうだ!」


「…………」


 柚月は、何も言わなかった。

 ただ、その美しい顔から、感情という感情が、サーッと音を立てて抜け落ちていくのが見えた。

 そして、俺が指差した『ロケット』のカードは、無慈悲にも、常連客チームの色に染まっていた。


「残念。それは紅組のカードです。スタッフチームのターンは、これで終了となります」


「なにぃ!?」


 店長が、完璧なタイミングで、非情な宣告を下す。

 完璧なヒントを出したはずの天才軍師が、今度は、味方のあまりにも斜め上を行く深読みのせいで、ただの電波系大ボケ女になってしまった瞬間だった。

 数秒の沈黙の後。

 それまで、常に冷静で、クールで、感情を表に出さなかった柚月が、ついに限界を迎えた。


「なーーーーーーーーんで、そうなるんですかーーーーーっ!?」


 その魂の叫びは、権田さんの雄叫びにも負けないほど、店内に響き渡った。

 彼女が、初めて本気で、そして全力で、俺にツッコミを入れた瞬間だった。



 壮絶な同士討ちの応酬の末、ゲームは最終局面に突入していた。

 両チームとも、正解した数より、味方のせいで相手に献上した点の方が多いという、泥沼のシーソーゲーム。

 俺と柚月は、すっかりツッコミ疲れでぐったりしている。

 冴子さんと影山さんも、権田さんという名の巨大なリスク変数を抱え、その表情には疲労の色が濃い。

 そして、運命のいたずらか、常連客チームの勝利がかかったこの局面で、スパイマスター席についたのは、この店で最もスパイマスターにしてはいけない男――権田さんだった。


「うおおお! ついに俺様の出番が来たか!」


「……終わった」


「……終わりましたわね」


 権田さんの雄叫びとは対照的に、冴子さんと影山さんは、全てを諦めたように天を仰いだ。

 俺と柚月も「これで勝った」と確信した。この男が、まともなヒントを出せるはずがない。

 権田さんは、回答者席の二人に向かって、ドンと胸を叩いた。


「安心しろ! 俺様が、お前らを勝利に導いてやるぜ!」


 その自信は一体どこから来るんだ。

 権田さんは、盤面に並んだカードを、唸り声を上げながら睨みつける。その顔は、人生で最も脳細胞を使っている、と言わんばかりの苦悶に満ちていた。

 やがて、数分間の長考(という名のフリーズ)の末、彼は何かを閃いたらしい。

 その顔が、カッと輝いた。

 盤面には、彼らのチームの最後の正解ワードが3つ、残っていた。


「東京」「怪獣」「破壊」


 最悪が、奇跡へと変わる、運命の3ワードだった。

 権田さんは、深く、深く息を吸い込んだ。

 そして、ヒントを言う代わりに、自分の胸をゴリラのように力強く叩きながら、天に向かって、魂の底から叫んだ。


「俺だッ! 3ッ!!」


「…………」


 店内の時が、止まった。

 俺も、柚月も、冴子さんも、影山さんも、カウンターの向こうの店長すらも、ただ、ポカンとしていた。

 なんだ、今の。ヒントはどこだ?

「俺だ」? それはヒントじゃない。自己紹介だ。

 柚月が、我に返って「審判! ヒントは名詞一言のはずです! これはルール違反では!?」と店長に抗議する。

 しかし、店長は、ニコニコしながら「いえ、固有名詞としてなら、セーフとしましょう」と、このカオスな状況を肯定した。笑ってんな、この悪夢。

 冴子さんと影山さんは、絶望していた。

 だが、次の瞬間。

 二人の脳裏に、同じ記憶が、雷のように突き抜けた。


 あれは、数週間前のこと。

 権田さんが、目を輝かせながら、一体の怪獣となり、東京を火の海に変え、そして、誰よりも輝いていた、あの夜の記憶。

『キング・オブ・トーキョー』の、あの日の記憶が。


(まさか……!)


 冴子さんと影山さんの視線が、一瞬だけ交錯する。


(『俺だ』……。あの日の彼は、まさに『怪獣』そのものだった…!)


(変数『権田』が意味するものは、キング・オブ・トーキョー。その構成概念は……!)


 二人の脳内で、常人には理解不能な、しかし、彼らにしか理解できない奇跡の閃きが、一つの答えを導き出した。


「……分かりましたわ」


 冴子さんが、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。

 そして、一枚のカードを指差す。


「まず、『怪獣』」


 ピンポーン、と店長の軽快な声が響く。正解だ。

 続いて、影山さんが、メガネの奥の目を光らせる。


「次に、『東京』」


 ピンポーン。またしても、正解。

 そして、最後に、冴子さんが、勝利を確信する、悪魔のような微笑みを浮かべた。


「そして、とどめに、『破壊』ですわ」


 ピンポーン。

 三つ目の正解音が響き渡り、常連客チームの勝利が、確定した。


「「「うおおおおおおおおおおっ!!」」」


 権田さんたちの、勝利の雄叫びが、店内に響き渡る。

 俺と柚月は、目の前で起きた超常現象が理解できず、ただ、開いた口が塞がらなかった。

 最も意味不明な、ボケとしか思えないヒントが、仲間との絆(という名の、狂気の記憶)によって、全てを貫く、最高のファインプレーと化した瞬間だった。


「見たか! 俺様のヒントが、最強だということが証明されたな!」


 権田さんの勝利の雄叫びが、店内に響き渡った。

 冴子さんと影山さんも、ぐったりと椅子に凭れかかりながらも、どこか満足げな表情を浮かべている。常人には理解不能なヒントを読み解き、勝利を掴んだという、奇妙な達成感があるのだろう。

 勝者たちの狂喜乱舞。

 その対照的な光景が、俺たちの【白組:スタッフチーム】のテーブルには広がっていた。

 俺は、もはやツッコむ気力もなかった。

 だが、俺以上に、魂を消耗しきっていた人物が、隣にいた。

 あれだけ冷静で、知的で、常に物事を論理的に捉えていた天才軍師は、もうどこにもいなかった。

 彼女は、両肘をテーブルにつき、ぐったりと項垂れていた。

 その瞳から、あれだけ燃え盛っていた闘志の炎は、完全に消え去っている。

 そこにあるのは、人類の理解を超えた現象を目の当たりにしたかのような、深い、深ーーい、疲労の色だけだった。


「……信じられません」


 か細い、蚊の鳴くような声が、彼女の口から漏れた。


「非論理的。非効率。非言語的。……あのヒントが、なぜ、通じるんですか……」


「さあ……」


 俺は、そう答えるのが精一杯だった。

 この店では、常識や論理など、何の役にも立たない。それを、彼女は、身をもって学んだのだ。

 柚月は、ふらふらと立ち上がると、カウンターの中に戻っていった。そして、まるで燃え尽きたボクサーのように、カウンターテーブルに突っ伏した。


「……もう、今日は何も考えたくありません。……頭が、痛いです……」


 その姿を見て、俺は、思わず苦笑してしまった。

 分かる。すごく分かるぞ、その気持ち。

 俺は、狂乱の宴を続ける常連たちと、カウンターで白い灰になっている柚月を、交互に見つめた。

 そして、ようやく理解した。

 この『チェックメイト』という店では、常識人であればあるほど、冷静であればあるほど、過酷な「ツッコミ役」という労働を強いられるのだ。

 権田さんたちのような、常識から逸脱した人間がいて、初めてゲームは盛り上がる。

 そして、俺や柚月のような人間がいて、初めて、その狂気が「面白い」というエンターテイメントとして成立する。

 狂気と常識が、互いを必要とし、そして、互いを消耗させながら、この奇妙で、最高に楽しい空間を作り上げているのだ。


「柚月さん、お疲れ」


 俺は、カウンターで突っ伏している彼女の肩を、ぽん、と軽く叩いた。


「……ようこそ、チェックメイトへ」


 彼女が、うっすらと顔を上げた。その顔は、疲れ切ってはいたが、ほんの少しだけ、吹っ切れたような、小さな笑みを浮かべているように見えた。

 新生『チェックメイト』の、騒がしくも、どこか楽しい夜は、こうして、更けていくのだった。

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