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全部酒のせいなんです

作者: 雉白書屋

「……えー、最後に皆さんへ、もう一度申し上げます。……私はアルコール依存症者です。自己肯定感が低く、お酒に頼らなければ生きていけなかった……。でもね、アルコールからの完全な脱却は可能なんです。まっすぐ、正直に生きること。人生をあきらめないこと。自分を少しずつ好きになっていくこと。それさえできれば、お酒に頼る必要なんてなくなるんです。自分の未来は変えられます。私はこれからもこの活動を通じて、依存症に対する偏見をなくし、社会に理解を広げていきたいと思います。どうも、ありがとうございました」


 客席から大きな拍手が湧き起こった。川尻はその音に包まれながら、じんわり目元を潤ませ、深々と頭を下げた。

 この川尻という男は元芸能タレント。いくつもレギュラー番組を抱え、全国に名を馳せていた。しかし、あるとき酒に酔ってトラブルを起こし、所属事務所を解雇。表舞台から姿を消した。

 すべてを失い、底の底に沈んだ。だが、彼はすぐに立ち上がった。現在はアルコール依存に苦しむ人々のために講演活動を行い、全国を飛び回っている。

 その日も講演を終えた川尻は、晴れやかな笑みを浮かべ、客席に手を振った。拍手に応えながら演台のグラスを手に取り、口元へ運ぶ。

 だがその瞬間、川尻の顔が歪んだ。


「な、お、おい! なんの真似だ!」


 怒号がマイクを通して会場に響き渡った。空気が凍りつき、一瞬で静まり返る客席。やがて、ざわめきが広がり始めた。

 異様な空気に気づいた川尻は、はっと我に返った。そして無理やり笑みを作り、取り繕った。


「あ、いや……ははは、なんでもありません。本日は本当に、ありがとうございました!」


 川尻はそう言ってグラスを置くと、そそくさと舞台袖に姿を消した。その背を追うように再び拍手が起こった。ただ、今度はどこかぎこちなかった。


「川尻さん! 素晴らしい講演でしたよ!」


 今回の講演会の企画者が川尻に駆け寄り、声をかけた。川尻は片手を軽く上げて応じた。


「あ、ああ、どうも……」


「でも、さっきのあれはどうしたんですか? 何かトラブルでも……」


「え、ああ、いや、なんでもないですよ。ただの冗談です、冗談! ははははは!」


 川尻は無理に笑ってごまかしながら、足早にその場を離れた。とても言えるはずがない――水のはずが、酒の味がしたなどと。

 誰かがすり替えたのか? イタズラにしても悪趣味すぎる。だが、ここで騒げば『自分でこっそり用意したんだろ』と勘ぐられるのは目に見えている。

 川尻はそう考え、言葉を呑んだ。

 控室に戻った川尻は、スーツのジャケットを脱いだ。ペットボトルの水を飲み、短く息を吐く。

 ……水だ。ただの水。さっきはきっと、緊張のせいで舌がおかしくなっていたんだろう。

 川尻はそう自分に言い聞かせた。

 だがその後、訪れたレストランで――。


「なあ!? ウ、ウェイター! おい、そこのお前!」


 川尻は立ち上がり、水の入ったグラスを睨みながら、近くを通った若いウェイターを呼び止めた。


「は、はい、どうなさいましたか?」


「この水、何か入れただろ!」


「え? ああ、レモンが少々風味づけで入っておりますが……」


「レモン? いや、そうじゃなくて、アルコールが……」


「アルコール……? ちょっと失礼します……」


 ウェイターはグラスを手に取り、ゆっくりと鼻を近づけた。


「いや、やはりレモンの香りかと……」


 ウェイターは困惑気味にそう答えたが、川尻は納得できなかった。しかし、周囲の視線に気づくと、咳払い一つして静かに腰を下ろし、それ以上は追及しなかった。


 ――この舌が覚えている。間違いない、あれは酒の味だった……。


 食事を終えた川尻はタクシーに乗り込んだ。自宅近くのコンビニ前で降りて、いくつかの飲み物を買い、人けのない公園へと向かう。

 冷えたベンチに腰を下ろすと、一本ずつ封を切り、口に運んだ。


「やっぱりだ……」


 川尻は震えた。コーヒー、コーラ、ジュース――すべてが酒の味だったのだ。

 どれだけ舌で擦っても、口内のアルコールの苦みは消えなかった。


 ――これは体が……いや、心が酒を欲しているということなのか……?


 確証はない。だが、それ以外に説明がつかなかった。

 川尻は膝の上で拳を強く握りしめた。その拳を冷えた夜風が掠めた。


「まさか、おれがこんな……本当に……」


 川尻は眉間を押さえ、静かにうつむいた。その額の奥では、ぐるぐると同じ思考が渦を巻いていた。おれはまだ酒に囚われているのか――。


「川尻さん?」


「ん……?」


「あっ、やっぱり川尻さんだあ!」


 顔を上げると、目の前に一人の若い女が立っていた。


「あ、私のこと覚えてませんか? 昔、川尻さんの番組でアシスタントをしてたんですけど」


「え、ああ、おおー……」


「ふふっ、やっぱり覚えてないんですね」


「いや、すまない……」


「いいんです。ちょこっとしか出てませんし、女子大生アシスタントなんて、いっぱいいましたからね」


「ああ、そうだったね。懐かしいな……」


 川尻は記憶を探るように目を細めた。ほんのりと華やかな思い出が蘇ってきた。


「川尻さん……いろいろ大変だったんですよね。私、ニュースを見てから、ずっと気になってて……」


「そうか……ありがとう……」


「よかったら、バーでも行きません? 再会の乾杯でもしましょうよ」


「ははは……バーはちょっと、ね」


「それなら、川尻さんのご自宅でも……。もっと、いろいろお話したいですし」


「えっ、あ、ああ……」


 言葉に詰まりつつも、川尻は断り切れなかった。夢の中にいるかのように、どこかふわふわとした足取りで、彼は女と並んで夜道を歩き、自宅マンションへと向かった。

 部屋に入ると、二人はソファに並んで腰を下ろした。暖色系の淡い照明が空間を包み、落ち着いた雰囲気の中で、互いの近況を語り始めた。

 川尻がアルコール依存に陥った経緯や、リハビリ中の苦悩を語ると、女は目を潤ませた。講演会で依存症者から感謝や励ましの声をもらったことを話すと、まるで自分のことのように喜び、顔を綻ばせた。


 ――そうだ。おれには居場所がある。おれはもう、酒に縛られてなんかいないんだ。


 川尻の中に、小さな自信が芽生え始めた――そのときだった。

 女がそっと身を寄せ、川尻の瞳をまっすぐに見つめた。


「川尻さん……」


「君……」


 二人の唇はそっと引き合い、息が交錯し、そして距離が消えた――。


「……うっ、ど、どういうつもりだ!」


 川尻は勢いよくソファから跳ね起きた。女は目を見開き、息を呑みながら凍りついた。震える唇だけが、言葉を探すように動いた。


「ど、どういうつもりって……? だって、そういう感じだったでしょ……?」


「き、君……酒を飲んでるだろ!」


「え? 飲んでないよ……?」


「嘘を吐くな! 君の口から、いや、唾液から酒の味がしたん……だ……」


 ――まさか、これも錯覚なのか?


 川尻は舌先で女の名残を探した。だが感じ取れたのは、独特の苦みと揮発性の刺激。喉に引っかかるその感覚は、紛れもなく酒だった。


「だ、大丈夫? ……ふふっ」


 女が薄く笑いながら訊ねた。川尻はテーブルに手をつき、低く唸るように言った。


「帰ってくれ……」


「……え?」


「もう帰ってくれと言ったんだ!」


「じゃあ……しないの?」


「何もしない! 帰れ!」


 沈黙が落ちた。やがて女は目を細め、ぽつりと呟いた。


「……そう。やっぱり、未成年のほうがいいんだ」


「……は?」


「自分が何して芸能界から干されたのか、忘れちゃったの?」


 女の口元が薄く歪んだ。


「あんた、酔っぱらってるんじゃないの?」


 女が鼻で笑ったその瞬間、川尻の中で何かが破裂した。まるでコルクが弾け飛ぶように。

 しばらく経ち、川尻がふと我に返ると、女は床に倒れていた。足を投げ出し、ピクリとも動かない。その白い首には、指の痕がくっきりと刻まれていた。

 ほどなくして、近隣住民から“争うような物音がした”との通報を受け、警察が駆けつけた。川尻は立ち尽くしたまま抵抗することもなく、現行犯で逮捕された。

 警察の取調べで、川尻はこう供述した。


「覚えてない……全部、酒のせいなんだ……」


 アルコール検査の結果は陰性だった。

 留置所の片隅で、静かに涙を流す川尻。その味はほろ苦い。

 鉄格子越しにその姿を見た警官は、呆れたように呟いた。


「あれは自分に酔ってるな……」

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