陸(終)
「帰ったか」
テーブルの上で文庫本を広げていた中年の男はそう言うと、自らと同じ年かさの女性へ顔を向けた。
「ただいま、あなた。お腹が空いたでしょう、すぐに食べれるものを買ってきたわよ」
クラゲの形のイヤリングをした女性は、そう言って、いつも休日はそうしている通り、出先で買ってきた夕食を広いキッチンへと運ぶため歩き出した。その背中に、夫は声をかけた。
「今日も隼人とは会えなかったか」
妻は立ち止まり、悲しみを浮かべた微笑を夫へ向けた。それを見た男も同じ微笑を浮かべ、続けて話す。
「あの店に隼人が来る保証もないのに」
「……幼い日の隼人のことを思い出すと、きっとあの子なら、あの店が気に入ると思うの。ああいう雰囲気が、好きだったのよ、あの子。それに、隼人はクラゲが好きだったから……」
女はそう呟くと耳元のイヤリングを手で触れ、そうしてまた呟いた。
「お金の都合で縁を切って、またお金に余裕が出来たから会いたいと思うなんて勝手なのはわかってるわ。でも、私たちは今なら、あの子を幸せにできると確信してるの。会わなければいけない。私たちはもう一度会わないといけない。私はそう神様に祈っているのよ」