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杜子冬  作者: サイゲツ
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「本社勤務の契約社員ですか?え……えっと、その」


 隼人の脳は柏崎の言葉に、即座に反応できなかった。本社勤務?契約社員?自分が?


 柏崎は隼人を呼び出した工場の事務所に置いてある自動販売機で、「珈琲でいいか?」と隼人に聞きながら、珈琲を2本買って1本を隼人に差し出した。


「まあ飲めよ」


「ありがとうございます」


 そうして柏崎自身もブラックコーヒーを一口飲んでから、静かに話し出した。


「まあ、俺も経緯を全部知らされてるわけじゃないんだが。今朝隼人に書いてもらった手順な、あれがよかったらしいんだわ。ただこの件で重要なのは経緯じゃない。重要なのは、本社がパソコンを扱える事務員、まあ実際は一言で言えば雑用かもしれんが、それを欲しがっていて、隼人にそのポジションについてもらいたがってる、ってことだ。もちろん待遇も作業内容も変わるわけだから、隼人に無理に命令するわけにはいかない。隼人を雇ったときに交わした雇用条件にはまるっきり書いてない内容なわけだからな。だからこの話を受けるかどうかは、隼人自身に決めてもらいたい。ただ……、待遇に関しては、まあ、俺の主観としても、そしてたぶん一般的な見解からしても、まあ、悪い変化ではないと思う。ああ、くそ、言葉選ぶのって難しいなあ隼人(そう言って柏崎は笑いながら頭を掻いた)。回りくどい言い方抜きにするとだ、要するに待遇は良くなると言っていい。詳しい雇用条件は、後日提示することになるが、勤務時間は固定化されるし、今の時給制から契約社員は月給制になるわけだけど、時給換算すると給料も上がる。それも土日祝休みで、もちろん有給休暇もある。ここまではいいか?(そう言って柏崎は一度言葉を切って隼人の反応をうかがい、隼人が頷くのを見てまた話しを続けた)で。作業内容については、間違いなく不安もあるだろうが、研修をかなりしっかり受けてもらうからその点については心配しないでください、と部署の人間は言ってる。その人のことは俺もよく知ってるが、嘘はつかない人間だよ。だから能力については心配しなくていい。問題は、いわゆる座り仕事、デスクワークを隼人が受け入れられるかどうかだと俺は思う。ここまで聴いて、どうだ、隼人。何か質問あるか?それか、もしその気が少しでもあれば、俺から連絡するから、本社の人間とも一度話してみるか?」


 柏崎はここまでを、特に資料を提示することなく口頭で隼人に伝えたので、隼人の頭は話の内容を半分も理解できなかった。とりあえず相槌しておいて、少し時間をかけて話の内容をもう一度頭の中で反芻してみようと思った。だから、そうですね……とひとまず相槌することにした。


「質問は特にありません。自分にとってすごく有難い話で、ぜひお受けしたいので、本社の方とお会いしたいです」


 隼人の口から返ってきた簡潔な返答に、柏崎は思わず目を細めた。当の隼人は、心臓が止まる気がした。


 まただ。また考えるより先に口が勝手に開いた。自分の身体の一部が、意図せず動くことが怖かった。同時に、自分の意図とは関係なく勝手に状況が進んでいくことも、隼人は恐ろしく感じた。仏像……神様の仕業……。隼人は内心そう感じた。そしてこの時初めて、目に見えない神秘的な存在に対する畏怖を覚えた。


「まだここで働いてもらって日が浅いけど」と柏崎は口を開いた。


「出勤状況もいいし、真面目に働いてくれるから、短い間だけど感謝してるし、俺としては残念だよ。でも、若い子の人生に関わることだし、俺からは何も言わん。本社には間違いなく伝えておくから、ここから先は本社の人間とやり取りしてくれ。また隼人の携帯に本社から連絡が来ると思う」


 こうして隼人は契約社員となった。ITやビジネスマナーに関する基本的な研修を1ヶ月受けた後、本社のオフィスで事務員として働く雇用契約を交わしたのだった。


 隼人にとって、職場というのは、厳しいのが当たり前だった。ミスは許されず、常に安全や周囲に気を張り、機敏に身体を動かし続けなければいけない。柏崎は感謝を口にしたが、工場という職場は元々そういう場所で、それが当たり前であると隼人は考えていた。仕事とはそれぐらいの厳しさが求められて当然なのだと。


 アルバイトでさえそうなのだ、と隼人は思った。正社員じゃないにせよ、いっぱしの社員として今後働くのだから、どれくらい気を張って日々過ごさなければならないのか、想像もつかない。本当に自分にやっていけるのだろうか?隼人は真剣に座学の研修を受け続け、どれだけ怖い人がいるんだろうと震えながら現場での初出勤に出かけた。


 その日は、否、その日から暫くは、隼人にとって拍子が抜け続けることの連続だった。まず、与えられる作業量が少ない。時間いっぱい手を動かし続けるのが当たり前だった隼人にとって、空き時間が発生するというのは信じられないことだった。彼は空き時間に諸々の雑用を率先して行った。彼にとってはそれが当たり前だったが、職場の人間はそれについて隼人に謝意を直接言葉で伝えた。それが隼人には信じられなかった。普通に人当たり良く挨拶して、普通に気を張って働くだけで評価が上がる。隼人にとってオフィスワークはすごく簡単な職場だった。そうして職場の人々はお菓子を隼人に与え、さらに上司は勤務中にそれを食べる時間をも取ってくれた。気づけば上司も勤務中にお菓子を食べていた。時にはお菓子を食べながら皆で雑談もした。通い続けるうちに、なんだか隼人は、職場が家のように感じられてきた。同僚たちは、まるで家族のようで、自分もその家族の一員になったような、そんな気がした。


 そういった親密な雰囲気の中で、作業の進捗が殆ど個人の裁量に任されていることも、隼人には水が合った。まるで教師のいない学校みたいだ、とも隼人は思った。職場という最もしんどいはずの場所で、そういった環境が与えられたことが、隼人にはものすごく幸福に感じられた。


 そうして3カ月、4か月と経つにつれ、隼人の生活や価値観は目に見えて変化していった。まず元々あった他人に対する警戒心は薄れ、それに伴い粗野だったり粗暴だったりした心の動きがなくなり、表面上だけだった人当たりの良さが、芯から出るようになった。自宅で、落ち込んだり無為に時間を過ごすことが減り、漠然と心の中にあった現状に対する焦燥感のようなものも薄れてきた。ギャンブルや夜遊びなどで、刹那的に欲求を発散することがなくなった。そして、興味の対象が、自分の内側から、だんだん外側へと向かっていった。


 必然的に、彼の心の中で、新しい趣味を見つける欲求が潜在的に高まった。より高次な欲求が彼の中に芽生えたのである。

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