渡辺政権時代の哲雄教の勃興について
香野仁一、「本朝史報」2402年四月号より抜粋
2084年一月二十八日、征夷大将軍渡辺哲雄が逝去した。これは最初、一部の臣下のみが知っている極秘事項だった。彼の死を始めて知ったのは、身辺の護衛を務めていたベトナム人神崎誠(1)で、読書を止めたまま静かに佇んでいるのを不審に思い、近づいた時にすでに脈がないことに気づいたのだ。
当然ながら、誰が国家を継承せねばならないか問題となる。
哲雄には哲靖と哲幸という息子がいた。
哲雄の後継者として指名されたのは兄の哲靖である。哲靖は容貌がたくましく、統率力に長け、信望を集めていたが、一方で哲幸の方は人当たりは良いものの、政治に関しては凡庸な人間だとみなされていた。
しかし、哲幸は政変を起こし、哲靖を暗殺した。それは表向き、脳卒中による死去であると発表された。哲雄の死が世間に公表されたのは、それから三か月後である。(1)
海外日本人コミュニティでは哲雄の死が喝采をもって迎えられたのとは対照的に、それは日本国民に激しい空虚感を与えた。哲雄なき日本を想像できた者は誰もいなかった。一体この後、誰を頼りにしてこの国で生きて行けばいいのか。新たに列島の命運をゆだねられた哲幸にとっても、その悩みは激しい重圧としてのしかかった。その悩みを哲幸も抱えていた。
いずれにしても、哲幸が父が名乗った征夷大将軍の称号を継承した。そして、父と同じ権限を身に着けることで、哲雄の子孫が代々国家元首として統治することが決まったのである。
哲雄が目指していた国家を、より具体的な形で実現に近づけたのは哲幸だった。哲雄も哲幸も、「同じ一日が続くことこそが民の幸福」だと考えており、民に同じ一日を繰り返すように仕向けるには理性などでは説明のつかない超越的な規範を必要とした。
渡辺王朝の性格を特徴づけるのは、哲雄に対する絶対的な信仰を教義とする宗教である。哲雄は哲雄は『神君』と呼ばれ、絶対的な崇拝の対象となった。人間が死して神の一柱となる思想は古代ローマにも存在したが、この『神君』としての哲雄への崇拝は、単なる個人の表彰を越えて、国家の存在意義を定めるイデオロギーとして機能した。
大日本帝国時代にも、国家神道という宗教を作り出し、海外植民地に神社を建立する他、教育勅語を国民に暗記させ、また学校施設に教育勅語の写しを神聖な物として保管させるなど、宗教色の強い政策は色々と存在した。渡辺政権による統治は、その大日本帝国の持っていた宗教的な側面をさらに強調した雰囲気をまとっていた。
しかし、昭平時代以降日本社会において宗教が人々の生活に占める影響は減退していた。
国家神道の挫折、90年代を震撼させたオウム真理教のテロなどが決定打だった。
特に仏教とキリスト教の衰退が著しかった。高齢化によって信徒の数が減り、教団の継承が困難になった結果、多くの教会や寺社が廃絶を余儀なくされた。
こうした中では、死生観も、神や霊とまでは言えなくても、人間にとって誰しも感じるであろう『見えざるもの』に思いを寄せる、まなざしも消え失せて当然だろう。
内戦後は、大衆の『見えざるもの』への視線は原始的な段階の物に回帰してしまう。人間の生や死の感覚が限りなく無に近づいたのもこの頃だった。
まだ内戦のほとぼりが冷めない2050年代後半、台湾共和国から教誨師として派遣されたプロテスタントの牧師が書き残した日記がある。東北の刑務所での受刑者たちの荒んだ様子を記している。牧師は彼らにまず、「人間を殺してはならない」ことから教えねばならなかった。
当然ながら、人間の理性的な説得や強制によって、人間のモラルを向上させるのには限界がある。そこで哲幸は、当時少数ながら影響力を強めていた哲雄の信奉者を利用することに決めた。この哲雄を熱狂的に支持する人間は哲雄の生前から彼の政敵を激しく攻撃し、彼らが元々大日本帝国に対する崇敬を抱いていた右翼団体が転向したものか、あるいは令和初期から猖獗を極めていた陰謀論者団体から派生した者か定かではない。
こうして他国では類を見ない、ひとりの神格化された人間を至高存在として、生活のレベルまで規定する信仰体系が形成されることとなった。
哲雄の威厳を国民に知らしめるためまず哲幸が行ったのは、その遺体を宗教的パフォーマンスに利用し尽くすことだった。
生前、哲雄は己の組織に関してこのように伝えていた。
「葬式は簡素な物にせよ。家族と身近な者だけで行え。一切の部外者を関わらせてはならぬ。すぐに遺体を荼毘に付し、遺灰は海に流せ」
しかし、そのような約束は守られなかった。あれだけの偉業を成し遂げた人間が、そのようなあまりに素っ気ない処置をされるなど、あまりにも恐れ多い。
そのため、哲幸は父のために大々的な国葬を執行することになった。
この国葬計画の大枠だが、哲幸が考えついたものではなく、哲靖が構想を練ったものにある程度の改編を加えた程度の物であったようだ。
東京の征夷大将軍官邸で、葬式が執り行われた。当時の諸国のVIPが集められ、その中には追放された皇族の姿もあった。ビルやアパートに、哲雄への賛辞を記した垂幕がかかげられた。
国民は三か月間喪に服すよう命じられ、その間派手な催し物は厳しく禁じられた。全国民が英雄の死を悼み、社会は重く暗い雰囲気に沈んでいた。
喪がそろそろ開けようとする頃、哲雄の生まれ故郷である岩手県石巻を訪れた哲幸は、哲雄を祭る壮麗な廟をこの地と首都東京に建設することを宣言した。
英雄の死を直視できずにいる聴衆に対し、哲幸は哲雄が人間として死んだのではなく、日本国の守護神となり、高次元の存在へと上昇したことを明かした。またこの演説中に初めて哲雄を『神君』と呼び、国民も哲雄に対し深く帰依しなければならないことを説いた。
すでに哲雄の遺体は火葬されていたが、哲幸はその遺骨をこの宇宙の広い範囲へとまき散らした。
まずJAXAと協力して、人工衛星に哲雄の遺体を搭載し、太陽へと突入させた。これによって哲雄は太陽と一体化し、空を照らしながら人類を見守る存在となった。続いて月面に遺骨を設置し、夜の間も哲雄が地球の人間を監視することができるようにした。
次に、遺灰を日本海と太平洋に散布。こうして哲雄は海の守り人となった。
無論陸上にも哲雄の御稜威は轟く。岩手建国廟には哲雄の背骨が、東京建国廟の哲雄の大腿骨が安置され、国民の崇敬をうけた。遺骨は分厚いケースの中に厳重に保管され、頑丈なガラスを隔ててその威容を誇示した。神聖不可侵の存在として、一年に一日だけ一般市民が直接触れることが許された。その大腿骨に触れれば、病気が治るといったうわさがまことしやかにささやかれた。
東京建国廟においては征夷大将軍が祭祀を執り行った。歴代将軍は毎日、朝と夜の二回、遺骨の前で祈祷を行うのが責務だったのである。もし一日でも祭祀を怠れば、神となった哲雄が国を見捨ててしまうだろうという恐怖感が哲幸にはあった。
それから各国の大使館に、哲雄の幹細胞を培養した肉片を保存させる。というのは晩年、神君は大脳を癌に犯されており、一度大きな手術を受けているのだ。
哲雄の癌細胞は摘出されていたがまだ生命活動を続けており、操作を加えればここから幹細胞を取り出せる状態にあった。
哲雄の血液型はA型だったので、政府はA型の人間に対して「君も神君の血を宿せるかも!?」というキャッチ・コピーで大々的に輸血を行った。「神君は生きておられる」という文句が意味を持ったゆえんである。
哲雄の癌細胞は二世紀以上に渡って東京大学に保管され、医療の研究に使われた。民主共和国期に入ってから、この癌細胞も廃棄の憂き目にあったが、遺伝子の解析や実験などで使われた豊富な実例から、これを捨てるのは学問上の損失である、という意見が医学界から起こった。そのため今日に至るまで、哲雄の癌細胞は様々な用途に使われ、医学の発展のために寄与している。
哲幸はまた、視覚を用いて神君の威光を示した。内戦によって荒廃し、かつての繁栄を失った東京を、哲雄の遺徳が宿る街として生み直すことに全力を注いだ。
顕彰記念塔――今では、『市民の塔』と改称されている――の建築がその象徴だろう。
その内部には、下層から上層にかけて、立花絵蓮氏の設計になる壮麗なステンドグラスによって哲雄の生涯が表現された。東日本大震災での被災から、避難先東京での不遇な生活、伯父渡辺獅道の庭訓、自衛隊や特鋼保安隊で訓練にあけくれる臥薪嘗胆の日々。救国戦争での神がかりの活躍、征夷大将軍への就任。それら全ての記憶を、訪れる人々に対して誇示したのである。
顕彰記念塔は東京タワー、東京スカイツリーと並んで『東京三塔』として、市民のナショナリスティックな感情をかきたてた。
戦争で荒廃した人心をまとめ上げ、国家を運行させていくには哲雄がどれだけ素晴らしい英雄であり、国と民の父であるかを力説せねばならなかったのである。
日々哲雄の栄光をしのぶのが、文学や建造物の中だけであってはならない。
渡辺王朝では、日常生活でもひねもす神君哲雄の存在を意識させられた。
学校では哲雄が発した道徳に関する訓示を読み上げることから授業が始まった。
この訓示は哲雄が征夷大将軍に就任する以前から制定し、公の場で朗誦することを義務づけていたものである。
毎日、日本のあらゆる町では午前五時、正午、午後四時、午後十時――季節によって若干の異動があった――の四回に渡って、哲雄の肉声が流れた。その間、市民は決して騒いではならず、じっとその録音に耳を傾けねばならなかった。ただし、災害などの非常事態の際にはそれを無視して行動することが許された。テレビやラジオでも、その間は必ず放送が中断し、哲雄の言行を朗読するアナウンサーの声にとって変わった。
筆者も若い頃は、家でも学校でも哲雄の声を聞かされたものである。そして、小学校の担任からは、神君のありがたい言葉を暗誦するよう口すっぱく指示されたものだ。民主共和国になってからは、そういった努力自体が無価値なものとして見捨てられてしまうのだが。
日曜日には、各地の地方自治体で国歌の斉唱と哲雄の伝記の朗読が行われる。一年かけて、哲雄の誕生から死までを振り返るようになっていた。
そして最後。午後十時から、歌唱団が集まり、容器の中に保管された哲雄の脳腫瘍の前、永遠に哲雄が国家を守るように祈りの歌を捧げる。
『御稜威偉大なる神君は 我らをとわに守りたまう』
『御稜威偉大なる神君は 我らをとわに救いたまう』
この歌によって静かな夜が訪れ、一週間が終わる。その無限の繰り返しの中で、約二百年の間どれだけの国民が生まれ死んでいったことか。
日常会話では「神君の加護あれ!」「神君が君を見ている!」といった文句が人口に膾炙していた。
哲雄という名前も神聖なものとされた。子供に哲雄と名付けることも畏れ多いこととされ、この二文字を人名に用いた例は数えるほどしかない。新聞や雑誌に載った哲雄の写真にすら気を遣った。紙をやぶって、うっかり哲雄の顔に傷をつけてしまっただけでも厳しく処罰された。
戦争においては、ミサイルや銃弾に哲雄の名前や発言を刻んだ。誰もが、哲雄の存在を無意識なレベルで意識させられていた。日本において思想や組織としての宗教がほとんど効力を失っていたからこそ、将軍が導入した『哲雄教』は社会の深いレベルにまで深々と入り込んでいったのである。
肖像画から鉛筆や皿に至るまで、神君を称えるための道具が渡辺時代を通して多く発売されたが、時にはその製造理由が疑似科学に接近したこともある。
たとえば神君汁という、中身は単なる飲料水が田舎の露店で売られていた。
また、神君の演説データを内蔵した音楽プレーヤーが出回ったこともある。これを毎日聞くことで病気が治るといった効果を謳っていた。神君の権威にあやかれば、何でも尊い感じに見えたのである。
旧日本国以来宗教がしばしば搾取や汚職の温床になったことの反省から、渡辺王朝の時代、信仰の自由に対しては厳しい制限があった。新興宗教は禁止され、政府の許可した宗教団体しか活動を許可されなかった。その宗教団体も政府によってたびたび弾圧にさらされた。
しかしそれは政府が世俗主義を規範として行動していたことを意味しない。むしろ政府は宗教に対して非常に深い関心を持っていた。
政府は国民に広く、渡辺哲雄を神として崇めさせた。哲雄信仰があらゆる宗教の上に立つイデオロギーとして機能していた。
『哲雄教』は日本の国教であり、あらゆる宗教の上位に来るものとされた。そのため、しばしば宗教団体と激しい衝突を起こした。
この時代の日本は、一般に想像されているより多様な信仰を包含した社会である。
一神教では、キリスト教やイスラームが公認されていた。イスラームは中東や東南アジア系移民の間で盛んであり、スンニ派が主流だった。イスラームの拡大は令和初期からその兆候が見えていたが、一般の日本人との棲み分けが確立したのは哲幸が即位して以後のことであり、京都や名古屋に大モスクが建設されたのもその時代である。ムスリムの移民が集う区域ではアザーンを流すことが許可されていた。昭平時代以降高齢化によって縮小していたキリスト教会は、海外からカトリックやプロテスタントの聖職者を集め旧弊の打破を行い、下層階級を主に布教を行って信徒数を回復した。
歴代将軍やその外戚が一神教に理解があったとは言い難い。渡辺道長(2112-2178)が「渡辺哲雄はアッラーの化身である」と堂々と発言したのはムスリムやキリスト教徒の顰蹙を買わずにはいなかった(3)。社会的立場に様々な抑圧はあったが、一神教信徒の数は人口の一割を超えており、芸術や言論において小さくない立場を占めていた。
仏教がほとんど絶えていた一方で、神道は信徒数を取り戻し、次第に盛んになっていった(4)。近世以降発祥の宗教では天理教や黒住教などが盛んだった。将軍の一族から天理教の敬虔な信徒が現れた例もある。政府はこういった国産の宗教を保護し、国家の正統性を維持することを条件に庇護下に置いた。
だが大多数の市民は哲雄教を信奉していた。哲雄は国家の神であり、また宇宙の始まりから存在する真理でもあった。それを民衆に説く神学者すら現れたし、哲雄が地元の土着信仰と融合した例すらある。
哲雄教は大日本帝国の国家神道より長く続いたので、その信仰は多くの学者により体系化され、複雑に展開した。そのためこれを書くだけでも一冊や二冊では足りないであろう。しかし、その全てが、今では単なる迷妄とされ、それを研究する人間が嘲笑の対象となる始末である。歴史とはなんと無情なものか!
哲雄教は、諸外国からは一貫して軽蔑の的だった。かつての現人神思想と並んで、時代遅れの因習と見なされていた。日本国外で哲雄に対してそのような視線を向ける人間は誰一人いなかった。
支配層は、支配対象に対しては盲目的に哲雄への崇拝を強要しつつも、しかし内心ではこのような信仰をひたすら墨守することへの拒絶感をだんだんはらむようになったのである。
70年ほどの安定した時代を経て、時代は次第に混沌として行った。最長の在位年数を誇った渡辺匠が晩年、様々な機密情報を解禁し、それまで許されていなかった言論の自由を認めたことは、当時の社会から大きな驚きをもって迎えられた。
同じ時期、色々な政治・経済的要因によってアメリカ大陸やヨーロッパを中心にアジア人への排外主義が勃興し、海外の日系人が次々と日本へ移住する運動が巻き起こる。これにより、旧来の社会の秩序が揺るいでいき、動乱の世が始まる。
そしてその末に、最後の征夷大将軍となったのが、2240年にたった十三歳で即位した渡辺譲平だった。譲平は哲雄の直系の子孫ではなく、傍系の血筋だったが、もはやかつての建国者の筋骨たくましい姿からは想像できないほど、華奢で繊細な若者だった。
我が民主共和国の建国は、渡辺匠が移住を公認した海外の日系人が主導したわけだが、現地の伝統を知らない彼らのやり方は強引だったと言わざるを得ない。
彼らにしてみれば、昭平時代の日本を理想として、哲雄以降の悪習を根絶するのは正義だったわけだが、純粋に哲雄の遺徳を慕う者にとっては、彼らの行動を冒涜だと思う人間もいた。
閉鎖的だった社会秩序が次第に開放的になり、旧来の価値観が権威を失い、最終的にあの革命に至るわけだが、新来の移住者が二百年に渡る伝統に与えた破壊は激烈なものであった。
今でさえ、あの時の衝撃から立ち直れていない者は多いのだ。2265年のあの革命から!
民主共和国が創設されると、哲雄に関する物は次々と公共の場から撤去された。哲雄の像が引きずり落とされた。建国廟も今では、渡辺時代の歪さを伝える博物館だ。
たとえ社会の一新のためとはいえ、彼らの性急すぎた改革がどれだけ多くの人々から生きる指針を奪い、困惑させたことか。
彼らの断行によって、国家の根底を規定する哲雄崇拝が禁止されたことは、世の中の全価値観を一新してしまった。
若い世代にとっては、哲雄への信仰を捨てるのは容易だった。彼らが生まれた時には、海外の文化が解禁され、先祖から受け継がれてきた因習を疑うのに充分な余裕があった。だがより上の世代にとっては、哲雄の偉業に疑いをさしはさむだけでも重大な罪だったのだ。その食い違いが激しい軋轢を生んだ。
長く激しい協議の末、譲平から正式に政権を譲渡された新政府の面々が、公共の場から哲雄に関する一切の物を撤去するよう指示が出した時、どれだけの人間が哲雄への憎悪をむき出しにし、どれだけの人間がその憎悪に抵抗したことか。
譲平は、哲雄崇拝をすぐさま禁止することは混乱をもたらすため、しばらくはこの信仰を残して良いのではないかと考えていた。
だが初代大統領となった浅川宗助は、譲平に対して少しも妥協することなく、哲雄信仰を残すことを禁止し、それを信じることを違法行為として罰することを宣言した。無神論者であった宗助は、国家がこのような個人崇拝を強要している現実が我慢ならなかったのである。
新政府側の群衆が大学や図書館から哲雄の御真影を引きずり落とそうとした時、同じ数がそれを阻止すべく抵抗した。もはや政治的な意図すら持たず、ただそこに当然のようにある物として哲雄に親しむ者は多かったから、その光景が壊されることに怒りを覚えないわけにはいかなかったのだ。
それまで大切に保管されていた哲雄の肖像画がナイフで切刻まれるのを見て、精神に異常をきたした者もいる。
今や都市部では、哲雄を思わせるものは一掃されたが、田舎ではまだ残っている場合がある。私が去年休暇で軽井沢に立ち寄った時も、人目につかない場所に哲雄像が立っていた。灰色の、スーツを着た石像だ。
かつてはこの像の中に監視カメラがしこまれており、像の目の前に立った人間は誰であれ深々と頭を下げねばならなかった。そして不審な振舞をする者を監視して当局に報告していたのである。今では情報局自体が消滅しているのでそのようなことを怠って罰される恐れはない。
この哲雄像は、ごく人里離れた場所につくられたおかげで民主共和国後も破壊を免れたのだろう。
それにしてもここ最近は、本当にどこでも哲雄像を見かけなくなった。現存している哲雄像はいずれも雄々しく作られている。その表情やポーズには躍動感もあり、その像を作った芸術家の愛国心や感性が見て取れる。
しかしそれが美術品として鑑賞することを許されず、ただ国民を威圧するための『道具』として見なされなかったのは遺憾というほかない。古代アッシリアの浮彫は生き生きとした質感だが、基本的には外国からの使節を威圧する目的があったことを連想させる。
(1)本名グエン・ヴァン・レ。180cmを越える巨躯の持ち主という。元々は反体制派の活動家であり、仲間を殺された仇である哲雄の命を狙ったが、哲雄の死を恐れない堂々とした様子に逆に感銘を受け、彼の忠実な臣下となった。哲幸の政変の際、ミサイル基地へと侵入した哲幸派の兵士から哲靖をかばい死亡。死後は烈士として、東京建国廟の隣に墓が建てられた。
(2)哲雄の死去から哲幸の即位に至る過程で起きた出来事については、当時の史料でも矛盾した情報が錯綜しており、事実を導き出すことが難しい。しばしば哲靖が周辺諸国へのミサイル攻撃を準備していたために、穏健な思想を持つ哲幸がそれを阻止すべく政変を起こした、という見解が一般的であるが、結局これは哲幸の反乱を正当化する政府のプロパガンダであるという疑念を払拭できない。
(3)獅道の血統を引く関西渡辺家の出身。アラスカ戦争では少数の配下を率いて戦い、勝利を収めた。哲雄を非常に信奉しており、哲雄崇拝に反対する宗教者に激しい弾圧を行った。一方で昭平時代のインフラの復旧に財産を寄進するなど、功罪半ばする人物である。
(4)2100年代から、神社本庁の宣伝により始まった「神君普天運動」の勃興により各地で哲雄を祭神とする神社が建てられた。また一部神社で、哲雄を祭神の一柱として加えるよう布告が発せられた。