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淋しさからトー横に入り浸っていましたが性的トラウマだったのでセックスをやめます

作者: ノブオカ

プロローグ


精神科医・ジークムント・フロイト。


かの有名な『夢分析』を記し、エディプス・コンプレックスの概念を提唱した、精神分析の創始者である。

フロイトの功績は確かに大きい。フロイトの功績とは、それまで人々が気に留めていなかった〝無意識〟という領域に、人々の目を向けさせたということだ。

しかしあらゆる物事には光と影がある。

心の問題はエディプス・コンプレックスを始めとした、無意識に全てが由来するのだと人々は曲解した。やがて心の問題のどれもこれもを〝無意識〟のしわざと考え、現実の諸問題から目を背けるようになっていった。

例えば、各種資料によればフロイトの時代から、社会では実の親たちによる子どもへの性的虐待が行われていた。しかしフロイトの説は現実の問題を矮小化してしまったのだ。


第一章 メンヘラになる勇気


セックスが愛情の象徴だと宣う、男の詭弁に花咲かれんは薄々勘づいていた。

加えて、世間で大騒ぎしているほど、セックスは面白い営みではないとも常々思っていた。

男性の性欲中枢は女性のそれの二倍ほどあるため、ある種かれんの直観は当たっていた。

男が思うほど、女はセックスをさほど必要としていない。

けれどかれんはそれを仕事にしていることもあって、特定不特定を問わず男に抱かれつづけている。

月並みではあるが、男がわかりやすく自分を求めているときだけ、かれんは自分を肯定することができた。

世間の大人たちはおためごかしに等しい説教をかましてくるが、余計なお世話だと率直に感じていた。

自分の身体をどう扱おうが自分の自由だ。

ましてや当の説教をかましてくる社会が自分の処遇に責任を取ってくれるわけでもないぶん、なおさらのことだと素朴に考えていたのだ。


そんなわけでかれんは今宵も、自分の「推し」としている男とセックスに耽っていた。

いやいや、セックスするほど近接しているならそれはもはや推しではないだろう、といった反応は正しい。

世間一般の想像する「推し」とはアニメやゲームといった二次元のキャラクターか、現実であればせいぜいアイドル、声優、そんなところが妥当であろう。

しかし世の中は広い。

世間には「セックスできる推し」といったものが存在するのである。

メン地下(メンズ地下アイドル)、そして現在かれんを抱いている男――ホストである。

ホストクラブという商業構造はやや複雑である。

女性客から過大な金銭を徴収するビジネスというと眉をひそめる人は多いが、まっとうな職種につき、さしたるストレスも抱えていない(つまりは日常生活が満たされており安定している)女性にはそもそもホストクラブに足を運ぼうという発想がない。

ホストクラブに実際に足を運び、そしてのめりこむように耽溺する女性の多くは夜職、つまりは風俗嬢やキャバクラ嬢なのだ。

日々慢性的なストレスに晒されており、多少は金銭面に余裕があり、そして水商売に偏見がない(なぜなら自分の職種もそうであるから)――と、ホストクラブに通うだけの動機がすべて満たされているわけである。

それはともかく、一通りの営みを終えたかれんとホスト・神代斗真はへべれけになりながらアミューズメントホテルから出てきた。

繁華街をもたつきながら、二人寄りかかるようにして歩く。

かつて古の教師ドラマで長髪教師が「人という漢字は二人の人が支えあってできている」と述べたそうだが、それを彷彿とさせるにはまあまあただれた光景ではある。

「見てかれん!」

神代が不意に叫んだ。

ふらつきながら、一角の雑居ビルの看板を指さす。

「メンタルクリニックだって!メンクリメンクリ!おまえも行ったほうがいいんじゃない?精神病院!」

ちなみに「精神病院」は差別用語に該当するため現在では公には使われていない。

ギャハハ、とお手本のような馬鹿笑いを神代がつづける。

かれんも神代に同調してなんとなく破顔したものの、ずいぶんと歩を進めてから看板をちらりと振り返った。


翌日。

気が重いながらも、かれんはなんとか身支度を終え、自身が勤務する店舗へと向かっていた。

生来気まじめな気質であるので、正規の出勤時間の一時間前にはいつも着くようにしていた。

若干早すぎる気もするが、数字が苦手なため時間の見立てが不得手であること、また遅刻するよりはいいだろうという安直な発想だった。

昨日斗真と笑いあった道だな、と途上でふと気が付いた。そうすると……と覚えのあるビルを見上げてみると、やはりメンタルクリニックの看板である。昨日なぜか気になったのだ。

繁華街には珍しく比較的低層のビルには、クリニックのほかテナントは入っていないようだ。

しばらくビル入口の立て看板を眺めていると、どう見てもごく普通のサラリーマンやOLにしか見えない患者がビルから出てくる。

かれんは一瞬意外に感じるも、そうだよな、と思い直した。

精神科へ通っているから「違う人」というのは偏見だ偏見、とまじめに、あくまでまじめにかれんは考えていた。

そうすると次なる考えが浮かぶ。「私でも行っていいのかな」という漠然たる思いである。

念のためスマホの時計を確認するも、当然時間はまだ十二分にある。

かれんの咄嗟の思いきりとともに軽い衝動も手伝い、ビルの中へと入って行った。


「初診の方は予約制なんですよ」

「そ……そうですよね、」


冷静に考えてみれば、予約が必要かどうかをその場でネットで調べてみればよかった。

かれんは自らの衝動性と無知に恥じ入り、その場を去ろうとしたときだった。

ベテラン看護師がかれんの機微を察し、機転を利かせた。

「……念のため、先生に確認してみますね。お掛けになってお待ちください」


第二章 お互いの傷つき


かれんは夢を見ていた。

父親から性的虐待を受けており、放心した表情で組み伏せられ、なすがままになっている。

その様子をふわふわと天井近くに浮かびながら見ているのだ。

いわゆる解離症状であるが、この専門用語はまだかれんの知るところではない。

いつもと同じく夢から目覚め、身体的な不快感といった嫌な感覚のみが顕著に残る。

しかしどんな夢を見ていたのかを思い出すことはできなかった。「抑圧」である。

これまた通常通り出勤の身支度をする。「はしもとメンタルクリニック」(院長は橋本先生というのだそうだ)の処方薬の紙袋から薬を取り出し、水とともに服薬する。

橋本先生いわく「気持ちをおだやかにしてくれる薬」らしい。

本当に効くのか一抹の疑念はあるが、根が素直なため指示を守っている。

これから出勤し、自らが行う「仕事」のことを想像してまたしても嫌な感覚となる。夢からの目覚め時にも似た、身体的な不快感である。

しかし推しである斗真に貢ぐためと思い直し、気力をふりしぼって出勤する。


お話しをするだけのオタクっぽい男性客が二人続いた。

今日は平和でラッキーだなとかれんはちょっと鼻歌など歌ってみる。

室内の電話機が鳴り、また客が入室した。

黒っぽいタトゥーの入り交じった隆々とした腕に一瞬驚く。

いかにも暴力団員じみた、いかつい男性客である。

根源的な恐怖を覚えるが、律儀に仕事と思い直しやや震えながら接客する。

上裸となった客が、ズボンのポケットから小型の折り畳みナイフを取り出した。

あまりの出来事に、驚きと恐怖のあまり声が出ない。殺される、と死が脳裏を過り、かれんはまたしても「解離」を起こした。

頭がぼうっとなり、現実感覚が途端に薄れ明瞭さを失う。

自分がここに存在するのかも定かではない。

曖昧な夢を見ているかのような感覚であり、自分が自分ではないかのようだ。

客はピストン行為の最中に昂ぶり、かれんの皮膚に傷をつけ始めた。

かれんはぼんやりとそれを眺め、痛みも感じない。

満足した客が退室した。

ふと、刃物を持っている以上ほかの女の子に危険が及ぶかもしれない、といった考えが浮かぶ。

一応報告しておこう……。

かれんは固定電話の受話器を取り上げ、店長に報告した。

驚く店長。

慌ててやってきて、薄く血まみれのかれんを見て驚く。

かれんはすぐさま救急車で搬送された。


厚みのある白がかったカーテンをかれんはぼんやりと眺めていた。

カーテンで仕切られた隣の病床では、交通事故で救急搬送されてきたらしい男の子の呻き声が聞こえる。

医師や看護師が男の子の処置を忙しなく続けている様子を聞きながら、はっ、とようやくかれんは我に返った。

そうか、病室。

ここは病室なのだ。

治療を受けたのだ。

包帯を巻かれた自身の腕をまじまじと眺める。

ふと見ると店長がベッドの傍らに立っている。

起き上がろうとするかれんを店長は制した。

「あの客は通報したし、ブラックリストに載せたから……今度からすぐ言って!」

じゃあ帰るから。当分休みでいいからね、と言い残し病室のカーテンを勢いよく閉める。

カーテンを隔てた向こうから、

「もう傷物だから、この子も〝廃棄〟かもな」

とボソッとした呟きが聞こえてきた。

かれんは静かに目を見開いた。


精神科医・橋本の診察を受けていた。

週に一回クリニックに通うことを約しており、かれんはまじめに通院を続けていた。

「それは大変でしたね」

控えめではあるが、驚きの入り混じった表情と声色を浮かべる。

この人感情とかあったんだ、とかれんは少し驚くも、まあでも仕事でやってるんだろうな、と思い直した。

ネット上には主治医に〝恋〟する事例が数多載っていたが、そういった感性は今ひとつかれんは理解できなかった。しょせんはビジネスだろうに、と達観するだけの聡さはかれんにあった。

橋本は続ける。

「この大変なお仕事を辞めませんか?いったん生活保護を受けながら、就労訓練を受けることも可能です。まずは入院して、じっくりと休養を……」

「あ……いえ、当面この仕事は続けようと思っています。差し当たって自分にはこれくらいしかできませんし、それに……前お話しした〝推し〟、斗真のためにお金が必要なんです」

「……」

「以前、先生は自分の意思を大切にすることが大事だとおっしゃいましたね。これは『自分で決めたこと』なんです、」

「……花咲さんが自分の意思で決められたなら、強制することはできませんね」

橋本はヒポクラテスの誓いを象徴するかのような、柔和な笑みを浮かべた。

「二つ、私と約束してくれませんか」

〝約束〟などと橋本が普段あまり言わない言葉に、少々意外に思いながらかれんは橋本の目を見た。

「約束……?」

こういうのは大体三つでは、とも思ったが、算数が極度に苦手な自分に配慮してくれたのかもしれない。

「一つは、絶対に死なないということ。そして、大きなことを決めるとき……一度、私と相談してからにしませんか。」

「……わかりました」


腕や脚に包帯を巻いた姿のまま、かれんは神代の接客を受けていた。

「それでクビになるかもしれないの?」

「……うん」


ひどくね?と神代は憤る〝ふり〟をする。

女性客から文字通り金品を〝撒き上げる〟自らの生業については、ひとまず棚に上げる。

神代に咄嗟に邪な考えが浮かんだ。

店が管轄する風俗店にかれんを「飛ばしてしまおう」といった、邪悪な、しかし工夫がなく面白みのない発想であった。

「……なあ、俺が別の店紹介しよっか?」

精一杯ホストらしくふるまいつつ、かれんの手を握る。

拒否することを知らないかれんは頷きかけるが、ふと「私と相談してからにしませんか」といった主治医の言葉が脳裏に蘇った。

そうだ。約束は守らなければ。

「ありがと。一度考えるね、」

かれんは初めて神代の手を振りほどいた。


「くそっ!!」


だん、と神代が拳の側面で更衣室の壁を叩く。

「絶対行けると思ったのに……、」

向かいのロッカーには、ナンバーワンホストの漣が腕を組みもたれかかっていた。

「おまえの常連あの子だけだろ。もっと大事にしろよ。」

「でもっ……漣さん、」

「あの子すらも離れていったらおまえこそクビになるぞ。ただでさえおまえコミュ症で空気読めないから、ヘルプでついた客からもクレームきてんぞ」

更衣室中央のテーブルに、印刷されたクレームメールやLINEのスクショコピ―が置かれた。

「……」

悔しそうに俯く。

「あの子、先月から精神科通い始めたっておまえ言ってたよな……」

漣は逡巡を凝らした。

「おまえも一回行ってみたらどうだ?精神科」

「ええ!?」

神代はわかりやすくのけぞってみせた。

「なんでですか?俺はどこも悪くないっす!!元気っすよ!!」

「いや、こないだネットで見たんだよ。神経……発達症だったかな。増えてるらしくて」

「漣さん、俺が障害者だって言うんですか!?確かに俺はバカかもしれないけど、俺はどこも……」


障害者かもしれない?俺が障害者?

ぐらり世界が反転するかのような衝撃を受けたその折、神代の脳に強烈なフラッシュバックが起こった。

親からの熾烈な暴力。

教科書をつっかえながらしか読むことができず、クラスメイトらにクスクスと笑われる。

なぜほかの生徒と同じように流れるように読むことができないのかわからず、苛立ちばかりが募ってゆく。

児童養護施設で受けた性被害。

神代を加虐する加害者の顔は、見事に影になっていて神代には判別がつかない。

「うわっ……」

ものの数秒間のうちにめまぐるしく脳裏をかけめぐるフラッシュバックに、神代はパニックとなった。

「うわあああああああ!!!!」

「あ、おい!?」

勢いよく店を飛び出した。

神代は夜の歌舞伎町を疾走していた。

訳アリなカップルや、夜職と思われる女性らが驚いて道を避ける。

一通り走り終えたところで、息をついてかれんにLINE電話をする。

「……くそ!!なんで出ねえんだよ!!」


夜の街中、大型書店の明かりを見上げるかれん。

新宿区に本店を構えるこの書店は二十二時まで営業している。

病気なら……勉強とかしたほうがいいのかな。

入店するかれん。

入口のフロアマップを確認し、心理学かな?と四階へとエレベータで昇る。

本なんて高校以来だな、と新鮮さとともにわくわくとした躍動感が広がる。


解離性障害。これは難しそう……。

当事者向けのコーナーで、これなら読めるかも、と平易な本を手に取った瞬間だった。

スマホが振動する。

「斗真……?」

「なんで出なかったんだよ!!」

凄まじい怒りに、かれんは思わずスマホを耳から離した。

「ご……ごめん。外にいたから気づかなくて…」

「あ、いや……俺のほうこそごめん。なあ……今から会わね?」


第三章 トラウマの自覚


街中の小さな公園で合流した。

「ごめん……遅くなって」

「いや……俺のほうこそ急に呼び出してごめん」

隣のブランコに腰掛けるかれん。

書店の袋が揺れる。

「……何買ったの?」

「あ、これ……?病気の本。ちょっと勉強してみよっかなって思って……」

「そっか。かれんはいいよな。ちゃんと高校出てるから……」

「えっ?そんなに成績いいほうじゃなかったよ。数学なんていつも赤点だったし…」

両手を振りつつ謙遜するかれんを、神代は

「そういうの嫌味にしか聞こえね」

とばっさりと切り捨てた。

空気を読むことを知らず、自分より〝下〟とみなした人間に自身の不快感を率直に表現せずにはいられない性質だった。

「……そっか。ごめん。」

「えっ?あ、いや……」

怒り出すこともせず、素直に謝るかれんに神代も咄嗟に気まずくなる。

「……なあ。……かれんはどうしていつも俺を指名してくれるの?」

唐突に話題を転換する。

どうせ顔がいいとか、見た目がかっこいいとかだろう、と神代は浅薄な予想を立てていた。

事実写真による外見の良さのみから判断して、神代を指名してくる客は多い。

ただしその誰もが一見客止まりだった。

初回のサービスで神代の空気の読めなさに辟易し、二度と指名しないのだ。

どうせ俺の取り柄は顔だけだよ、と心の中で一人ごちる。

「そうだな……〝似てるから〟かな」

「……似てる?」

「うん。とても苦しそうな顔してる。斗真もきっとたくさん傷ついてきて、生きづらい思いしてるんだろうなって……」

「……、」

傷ついていると言われ、神代は自分でも気づいていなかった内心を見透かされ驚く。

傷ついてる……俺が…?

そういえば、店でのさっきの映像……、

児童養護施設入所時代の映像だ。顔は影になっている人物が、自分の上に覆いかぶさっている。

ぞっとするも、誰であったかが依然わからない。

懸命に映像をクリアにしようとするも、記憶の映像はすぐにぼやけ、曖昧模糊となる。

誰なんだ……?思い出せない……、

それでなくても、自分が〝レイプをされた〟のは事実だ。

それに傷ついているというのか。

頭を抱え、上半身を丸めた。

「……大丈夫?」

かれんが背中をさすろうと手を触れた途端、

「!!さわんなっ!!」

勢いよくバッと振り払う。

驚くかれん。

「……ごめん」

「あ、いや……」

神代はわかりやすくうろたえた。

「ううん。今日はありがとう。そろそろ私、帰るね……」

「……、」

小さく手を振り去っていくかれんを呆然として神代は見送った。


かれんは浴室から出てきた。

ドライヤーで髪を乾かし、肌や身体の保湿をしてからおもむろにローテーブルの上の本を手に取る。

ポップな色合いで、よくわかる解離性障害、といった文字が表紙に並ぶ。

テーブルの前のビーズクッションに深々と座り込み、気軽に本をパラパラとめくる。

そういえば、本は好きだったな……思い出した。

せっかくだから……。

かれんは大学ノートを用意し、まとめながら解離性障害の勉強をすることにした。

高校の時の感覚を思い出しながら、しばらくのあいだ勉強は続いた。


第四章 弱さを認めるということ


この数週間かれんの来店はなく、神代はヘルプを主な業務としていた。

「おい」

先輩ホストが顎をしゃくる。

「……?」

きょとんとしていると先輩の怒号が飛んだ。

「なんでわかんねえんだよ!!酌だよ酌!!姫のグラスが空になってんだろうが!!」

「あ、はい!!」

神代は慌ててグラスへと酒を注ぐ。

「悪いね~、こいつバカだからさ~、」

「え~、ひど~い、かわいそうじゃん」

あはは、と快活な先輩の笑いが響く。

「ね~、来週の金曜……何の日か覚えてる?」

「当たり前だろ、忘れるわけねえし」

先輩はすっと客の側へと傾く。

「大事なさや姫の誕生日じゃん……店でお祝いするから絶対来てよ」

「嬉しい~~」

「ねえ……アフターはだめなの?」

客はわかりやすく媚びを売るような色目を用いる。

「ほんとごめん、次の日ちょっと親父の三回忌でさ……」

ここだ、先輩をサポートしなければ。

神代は声を張り上げた。

「あ、来週土曜日ツバサさんは空いてないです!!」

え?と向けられた不審がる目つきにも神代は気づかない。

「イロカノと同伴される予定ですんで!!」

しいん、と卓は静まり返った。

通りがかった漣が空いているようすの神代に声をかける。

「ごめん斗真、八番卓オンリーだからヘルプ入ってくれる?」

「あ、はい!!」

横を向いて元気よく返事し、一瞬も顧みることなく去っていく。

残された先輩ホストの卓は一気にお通夜のようになった。

「今日はもう帰るわ」

興ざめした女性客はバッグを手に取り会計へと向かう。

二度と指名することはないだろう。


思い切り蹴り飛ばされ、神代は背中をロッカーに叩きつけた。

「ざっけんなよてめえ……」

「ぐう……」

「俺の太客飛ばす気かよ。ああ?」

勢いをつけ、尖った靴のつま先で蹴りを入れた。

「がはっ!!」

胸倉をつかんで引き上げる。

「おまえ今すぐ辞めろ。でねえと……」

拳を振りかざした瞬間、その腕を漣が引き留めた。

「そんくらいにしとけ」

「……っ漣さん、」

「あとは俺が引き受ける」

「……っ、」

運が良かったなてめえ、と吐き捨てながら先輩ホストはロッカー室から去って行った。


ひとしきりばんそうこうなどを貼られた神代は、朦朧とした様子で事務所の椅子に座っていた。

「俺も色々調べてみたんだよ」

ネットの各種サイトを印刷した資料をいろいろと机に広げる。

漣は一つをめくりながら説明を始めた。

「境界知能、LD、ASD、ADHD……俺は医者じゃないから診断はできないけど。実際おまえは売掛金の計算が苦手だったり空気が読めなかったり、思い当たるフシがあるんだ」

「……」

神代は依然心ここにあらずといった様子で漣の話を聞いている。

「なあ斗真。この業界は弱肉強食の世界だ。おまえにはちと厳しいんじゃないのか。前ちらっと言った精神科……行ってみるのも悪くはないと思う。どうやら障害者手帳というのを出してもらうと、障害者雇用という方法で会社に雇ってもらうことも可能らしい。おまえにもっと合った仕事が……」

「俺は追い出されるってことですか?」

「斗真」

「俺はできそこないじゃない。俺はすげえ人間なんだ。いずれナンバーワンになって、一千万プレーヤーになって、自分の店を持つんだ。歴史に名を残す。有名になるんだ、」

「なんのために?」

「え……?」

涙を溜めた顔で、きょとんと漣を見上げる。

なんのためになんて。そんなこと考えたこともなかった。

「そのためには、誰かが傷ついてもいいのか?」

「……!!」

とっさに脳裏に悲しそうなかれんの顔が浮かぶ。

なんであいつの顔が浮かぶんだ、ととっさに机に視線を伏せた時だった。


『バーカ』

「!!」

咄嗟に顔を上げてあたりを見回すも、声の主は当然いない。

にわかには信じがたく、しきりにきょろきょろと視線をめぐらす。

「おい、どうした?」

〝声〟は次々と続いた。


おまえなんかいなくていい

産むんじゃなかった

空気読めないもん、こいつ、

いらない子

あったまわりいなお前、

家の恥さらし


「……うるさい、うるさい、」

耳をふさいでぶつぶつ言う。

「おい、大丈夫か?」

尋常ではない神代の様子に、漣が腕を掴んで正気に引き戻そうとした時だった。

見上げた漣の顔が、児童養護施設時代に自分に性的虐待を加えた「影の顔」と重なる。

「うわ…うわあああああああああ!!!!!!」

ばっと振り払い、事務所の扉を勢いよく開け放ち逃げ出した。

「あ、おい!?」


第五章 夢による記憶の整理


かれんが夢を見ていた。

高校の三者面談の風景が映る。

グラウンドでは運動部員の掛け声が響いていた。

「……かれんさんは理数系科目は極端に苦手としていますが、現代文や社会科などは偏差値七十を超えています。本人も首都圏への進学を希望していますね。中堅私大なら十分狙えると思いますが……」

「なに言いよんですか先生!!」

母親が勢いよくバンと机を叩き立ち上がる。

驚く教師。

「東京に出たいなんて……うちにはそんな金ありゃせんのです!!」

「あ、はあ……奨学金という手もありますが……実際、奨学金とアルバイトによる収入によって、自活している学生はたくさんいますよ。首都圏の大学の中には、学費の月払い制度を導入している大学も……」

「人の家庭のことに口出さんで下さい!!東京に出たい!?女のくせに生意気な……」

叫んだあと、ぶつぶついいながら席に着く母親。

教師は完全に圧倒されている。

「おまえは岡山から出さんからな」

ぼそっとした呟きをかれんが聞き逃すことはなかった。

かれんの脳裏に父親から性的虐待を受けた幼い日々、母親の暴言の数々のフラッシュバックが起こる。

またしても意識が解離し、数分後に自然と〝戻ってきた〟かれんはそっと母親を垣間見た。

鬼のような険しい形相の横顔を見て、ぞっとするほかなかった。

ここにいたら殺される。


かれんは高校を卒業した翌日の夜、〝夜逃げ〟を決行した。

夜中鞄ひとつで家を出た。

岡山駅から夜行バスに乗り、翌朝新宿駅へと到着。

すぐさま警察署へ被虐待の事実を届け出て、捜索されないようにした。

親の連絡先の各種拒否、風俗店への入店、住民票閲覧制限。

親から逃れるまでの、すさまじい怒涛の経緯の記憶が一挙に呼び起された。

逃げなければ、逃げなければ殺される――、


は、と唐突に目が覚めた。

ローテーブルに置いてある小さな時計の秒針が響く。

「……、」

涙の跡を残しながらむくりと起き上がり、夢から目覚めることとした。

頬を拭う。

同じくテーブル上のスマホを手に取ると、神代からLINEの通知が来ている。


『会いたい』


第六章 強さとはなにか


ワンルームマンションの室内でやさぐれた表情で座っている神代。

チャイムが鳴り、出ると複雑な表情のかれんがいる。

「珍しいね、斗真が呼び出すなんて…」

「まあな。……入れよ。」

室内に通される。

「……仕事大丈夫?」

「うん。今日はシフト遅番だから」

「そっか」

神代に合わせ、クッションもなにもないフローリングにかれんは座り込む。

しばらく気まずい沈黙が流れていたが、えっと、と二人同時に口を開いた。

両者とも一瞬呆気にとられ、それからお互いくすくすと笑いあう。

「……やっぱり似てるんだよ、私たち。」

神代は似てると言われ一瞬目を見開く。そして複雑な表情になった。

「……俺はかれんみたいにきちんとしてない。本だって読めない。」

「そうかな?これまで読んでこなかっただけじゃない?」

「違う。……俺は頭がわるいんだ。昨日漣さんに言われたんだ、精神科へ行ったほうがいい、店も辞めろって……」

「……」

「俺、ホスト辞めるかもしれない。」

視線を伏せてしばらく押し黙る神代。

これは神代なりの一大演技だった。

このようなことを言えば、さぞかしかれんは驚いているだろう、悲しむだろうと想像した。

そして、もっと自分に金銭を貢ぐようになるはずだ。

そんな都合のいい妄想を浮かべながら、おそるおそる視線を上げた。

するとそこには穏やかに笑みを浮かべたかれんがいた。

神代は驚愕する。

「なに笑ってんだよ……俺がホスト辞めてもいいのか?!」

「私は、たぶんどんな斗真でも好きだから……」

「……、」

神代は驚いて言葉を失う。

かれんは店を辞めた弱い自分でもいいというのだろうか。

「私も最近、今後のこととか考えてて……風俗の仕事は長くは続けられないでしょう。先生から、生活保護受けながら就労訓練を受ける手もあるって……」

ショックを受けて青ざめる神代。

俺の唯一の常連がいなくなる……!!

「斗真ももしよかったら、他の仕事についてみない?それで斗真さえよければ、私は結婚してもいいし……」

やや顔を赤らめるかれん。

「冗談じゃねえぞ!!!」

神代、のけぞって驚きと怒りをみせる。

「俺はナンバーワンになるんだ!!それで自分の店を持って、一千万プレーヤーになる!!歴史に名を残すんだ!!!」

漣に聞かせた言葉を反芻してみせた。

完全に固執しており、ASD傾向の象徴ともいえた。

はあはあと荒く肩を上下させる神代。

かれんは冷静ながらも少々憐れむような目で神代を見つめ、問いかけた。

「なんのために?」

「!!!」

なんで……かれんが漣さんと同じことを聞くんだよ!!!

「先生が言ってたんだけど……『自分の意思』っていうのを大切にすることが大事なんだって。だから……斗真が自分で決めたことなら、私は応援する」

「じゃあ…!!」

華やぐ神代。

かれんはゆっくりと首を横に振る。

「同時に、私の意思も大切にしないといけない。だから、お金を出すことはもうできない」

「は……?!何言って……」

かれんは微笑む。

「今までありがとう。楽しかった。」

傍らのバッグを掴んで立ち上がりかけたところを、かれんの手首を神代がガッと掴む。

「……絶対に逃がさねえからな」

「え……?」

恐怖で青ざめる。

「おまえは俺の『金』なんだ!!俺は強くなるんだ!!絶対に逃がさねえ!!」

だん、とそのまま押し倒す。

「……嫌!!止めて!!」

抵抗するかれん。

神代、かれんのブラウスの乱暴に剥き、下着をはだけさせる。

「やめて……お願い!!やめて斗真!!!!」

そのまま事を始めようとしたときだった。

背後から〝影〟の声がする。


『ほら、おまえも俺と同じ側の人間だ』


はっと我に返る神代。

自らの下で、かれんが涙をとめどなく流している。

俺は、何を……、

「あ、ごめ……、」

身体を離し、横に退いた瞬間だった。

その隙にかれんはバッグを掴み、勢いよく立ち上がる。

はだけた胸を隠すようにしながら、バタバタと部屋を出て行った。

しばらく呆然としてから、神代はおもむろに頭を抱えた。


これまでの穢れを洗い落とすかのように、長い風呂からかれんは上がった。

ローテーブル上のスマホにLINEの通知がきている。

開くと「ごめん」「どうかしてた」とあり、そのあとの通話の履歴が並ぶ。

かれんはそっとブロックの操作をした。

ネットバンキングの残高を確認した。

八百万以上ある。

引っ越して、そして――大学に、行こう。

女性教師が、「花咲さんは国語が得意なのね」と微笑みながら褒めてくれていた記憶が蘇る。


本棚には病気の本に加えて、文学の本が少しずつ増えていった。

中央大学の赤本で勉強するかれんの背中を、日差しが照らす。

通院時に橋本に励まされながら、かれんは受験勉強を続けた。


いっぽうの神代はひどく脱力して無為な日々を過ごしていた。

当初こそ怒りがあったものの、すぐに落ち込みへと転換していた。

店への出勤も止めてしまった。

数日間の無断欠勤を心配し、漣は神代の自宅マンションを訪れた。

後輩に「あんなやつほっときゃいいじゃないすか」と止められたのだが、どうにも放っておけないといった思いがあった。

チャイムを何度か鳴らすも一向に出ないためドアノブを回すと、鍵がかかっていない。

物が散乱した部屋へと分け入ると、やつれている様子の神代を発見した。


漣に付き添われて大学病院を受診したところ、うつ病と診断され入院となった。

注射により投薬を受ける。

朦朧としながら入院同意書にサインし、その後病床へと寝かされた。

そこで、ひどく永い夢を見るに至った。


夢の中で影のない顔の人物から性的虐待を受けている。

児童養護施設の先輩、神代と同じく入所していた高校生だ。

そうだ、この男にレイプされていたのだ、と神代は思い出した。

現実ではされるがままになっているしかなかったが、途中、「これは夢だ」と気がついた。

そうだ……、これは夢だ。

夢なら……、自由に操れるはずだ!!

そう意識した途端、空中から金属バットが出現した。

神代はレイプしている相手を殴り倒すと、駆け出して児童養護施設を飛び出した。

神代は走った。俺はもう大人なんだ……!!

途中、満面の笑顔になった。

走り、走りつづけて、到達した崖から海へと思いきり飛び込んだ。

海中だが、夢の中なので呼吸ができる。

だんだんと身体が海底へと沈んでいく。

あたたかい水温で、心地よく夢見気分のまま沈んでいた。

底に背中からついた。

夢の中で再び神代は眠った。

ここでずっと眠っていたい……ひとり眠っていれば、誰も俺を傷つけない。

死ぬって……こんな感じなのかな……そうだ……死ねばもう、傷つかずに済む……、


……真、斗真……

誰かが俺を呼んでいる、と思うも、眠りつづけたい欲求のほうが勝る。

すっと〝誰か〟神代の手を取った。

ようやくのことで瞼を開ける。

白いワンピースを着たかれんが、神代の手を取り自身の方に引き寄せていた。


「生きよう」


はっ、と完全に目が覚めた。

自身が病室のベッドに仰向けになっていると気づくのに数十秒を要した。

ほかの患者の点滴を用意していた看護師が気づき、神代に声をかける。

「山田さーん、起きられましたかー、」

「え……あ、」

「三日間眠っておられたんですよ。お薬がよく効いていたんですね。先生呼んできますからちょっと待ってて下さい、」

看護師は空になった点滴薬をカラカラと押しながら病室から去っていく。

山田……、久々に本名で呼ばれたな……、

夢の中でかれんに握られていた手を広げ、天井にかざしてみる。

でも……悪くないかもしれない、とわずかに拳を握りしめた。


第七章 それぞれの道 


かれんは大学のキャンパスを友人と歩いていた。

もはや親友とも呼べる存在だ。

自身の複雑な職歴も打ち明けているが、人のいい彼女はあっさりと受け入れてくれている。

「花咲さん!!」

不意にざっ、と木の陰から男子学生が現れた。

唐突な出来事に面食らう。

「工学部物質工学科一年の谷口です!!ずっと憧れてました!!付き合ってください!!」

頭を下げながら右手を差し出す。

「えと……谷口さん?顔を上げて下さい」

おそるおそる顔を上げると、美しい容姿のかれんが男子学生の目に映る。

谷口はひっそりと内心ため息をつく。

美貌もそうだが、現役文学部学生ながら気鋭の小説家であるかれん。

あこがれるしかない。

感激している谷口の頭上から「ごめんなさい」が降る。

「私は二年生ということになってますが、年齢は二十四歳なんです。おばさんでしょう?あなたには私よりもっとふさわしい人が……」

「構いません!!僕年上でも全然大丈夫です!!むしろ性癖です!!」

ドン引きする友人の横で、かれんは困ったように微笑んだ。

「…ありがとう。でも、私は当分恋はしないと決めたんです。本が好きで、書くことが好きで……今はただ、この環境に身を置いて突き進んで行きたいんです」

友人の「残念でしたね」を背中に受けながら、悲観に暮れた谷口は去って行った。

友人は改めて、かれんに彼氏をつくらなくていいのか、と尋ねた。

気をつけながら、健全な恋愛を経験してみるのもいいのではないかと。

「ありがとう。いいの、」

同じ空で、きっと繋がってるから……

かれんはキャンパスに広がる青空を見上げた。

ふと、手のひらをかざしてみる。


同じ都内某所では、「山田斗真」の社員証を身に着けた清掃員がいた。

障害者雇用で働き始めた神代だ。

オフィスエントランスの清掃を一通り終えたのち、ふと、手をそっと掴み、広大な窓から空を見上げてみた。


お互いにとって、太陽が眩しかった。


(了)

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