一緒にいようよ
──早く大人になりたいな。
彼女は良くそんな事を口にしていたっけ。
夏の日差しが陽炎を生む昼下がり、友人に会った帰り道で、私はふと昔の事を思い出した。
大人になりたいと目を輝かせる彼女を、私はどんな顔で見ていただろう。否定はしなかったはずだけれど、肯定もしなかったはずだ。
蝉の声がざわざわという風の音と共鳴する中で、私はふと前を見つめた。
帰り道は、無意識にでも歩けるような道。迷いようがないはずなのに、気づけば見覚えはあるけれどよく知らない道にいた。ため息を吐いた弾みで頬から汗が零れ落ちる。麦わら帽子の中も汗でびっしょりだった。
きっと、無意識に曲がってはいけない道を曲がってしまったのだ。それもこれも、私の心が招いたことだ。このまま家に帰りたくない。現実に戻りたくないという思いが道を迷わせたのだ。
それだけ、友人との再会が心に残っていたのだろう。
短い時間ではあったけれど、二人の思い出話を少し語っただけでも、気持ちはすっかり過去に戻ってしまっていた。
だからこそ、私は久しぶりに子どもの頃のどうしようもない願望なんかを思い出したのだ。
──大人になんて、なりたくなかったな。
私は、ずっと大人になりたくなかった。子どものままでいたかった。それがどんなに恥ずかしく、良くない事、みっともない事だと分かっていても、大人になるくらいなら死にたいとすら思ってしまうのは否定しようのない事実だった。
そんな私も大人になってしばらく経つ。諦めて大人になったというよりも、ただ何となく年を重ねてしまったように思う。心はまったく成長できている気がしないのに、鏡の中の私はすっかり大人だ。子どもと見間違う人なんて何処にもいないだろう。
──でも、大人って楽じゃん。
ふと懐かしい声が聞こえた気がして、私はふと立ち止まった。
途端に蝉の声が一斉に止まる。静けさに包まれる中、行く手に一人の女性がこちらに背中を向けて立っているのが見えた。白いワンピースにつばの広い白い帽子。上品なその佇まいは、かなり見覚えがある。
友人に似ている。さっき会いに行った友人に。けれど、そんなはずはない。きっと他人の空似なのだろう。そう思っていると、彼女がゆっくりと振り返ってきた。
目と目が合いそうになるその瞬間、私の脳裏に思い出が蘇った。脳の働きがそちらに傾いていく。視界に入る映像は拒まれ、記憶の中にある光景が脳裏に浮かんだ。
浮かび上がるのは、数年前の光景。馴染みの喫茶店で友人と共にお茶をしている際のこと。私のふとした呟きに対して、彼女はそんな事を言ったのだ。
「学生の時ってさ、とにかくしんどかったし。くだらない事で先生に叱られてさ、今思うとくだらないのは先生の方だってのに反省させられてさ。理不尽なことばっかでとにかく嫌だった。だから、あたしは大人になって嬉しんだ。楽だし、大人の顔色を窺わなくたっていいし、こうして好きな時に好きな友達と会えるし」
そう言って明るく笑う彼女は、白いワンピース姿だった。
ああ、あの時の彼女と同じ格好をしているのだ。そう思った瞬間、我に返った。目の前にはもう、見知らぬ誰かはいない。私一人だった。きっと、ぼーっとしている間に、通り過ぎて行ったのだろう。しかし、思い出の余韻というべきか。私はしばらく立ち止まり、あの日の事を思い出していた。
あの日、私は彼女になんと答えたのだっけ。よく思い出せないものの、険悪ではなかったはずだという確信はあった。
大人になりたくない私と、大人になる日を楽しみにしていた彼女。違いはあれども、一緒に会って話をすることが楽しいという気持ちは一緒だったはず。
しばし懐かしい思いに浸ってから、私は周囲を見渡した。
蝉の声は相変わらず聞こえない。前も後ろも見覚えのある道が続いているが、帰り道ではないということは確かだった。
何処を行けば、正しい道に戻れるのか分からない。だったら、進むよりも戻る方がマシだろう。そう思って、私は来た道を戻り始めた。
歩きながら、私は再び思案に暮れた。
家に帰ったあとは、現実が戻ってくる。明日、明後日、明々後日と、色を失ったような日々がやってくる。日々の楽しみ自体はあるけれど、それ以外は空っぽだった。十年後も、二十年後も、今のような暮らしが続くのかと思うとぞっとする。
それならば、楽しかった思い出の中に閉じこもっていたい。そういえば、子どもの頃はそんな事を考えたこともあったっけ。
──明日なんて来なければいいのに。
そんな事を呟いた日はたくさんあった。
友人に言わせれば、しんどくて仕方のなかった学生時代は特にそうだ。嫌いな授業であったり、テストであったり、面倒くさい行事であったり。
ともかく色々だ。楽しみなことだって勿論あったけれど、楽しみな事はいざ始まると後は終わるだけ。そう思うと、わくわくした状態のまま時が止まってくれた方がマシだと思った事だってあった。
──でも、あと何日かすれば夏休みだよ?
またしても、懐かしい声が聞こえた気がして、はっと前を見た。
陽炎ゆらめくアスファルトの道の真ん中に、またしてもこちらに背を向けて人が立っていた。学生服だ。母校の制服によく似ている。それどころか、その後ろ姿はまたしても友人に似ている気がした。そんなはずはない。他人の空似だろう。そうと分かるのだが、微動だにしない彼女を見ていると、またしても懐かしい記憶が蘇った。
それは、高校生の頃のこと。
期末テストが終わり、終業式までの短い間にて、なんとなく通い続けていた習い事の発表会があると愚痴った時の事だ。
あまりにも嫌でしょうがなかった私の放った言葉に対し、彼女はそう言ったのだ。
「そう思って乗り切っちゃお? ね、それよりもさ、夏休みは何する? 短期のバイトもやってみようかなって思っていてさ……」
とりとめもない会話の記憶だ。
それでも、あの時に二人で並んだ窓辺の感触が異様に懐かしかった。あの教室はもうないらしい。老朽化で校舎ごと建て替えたそうだから。
懐かしさと共に寂しさを覚えたところで、ふと我に返る。気づけば、あの学生はいなかった。この道にいるのは私一人だ。
気づかないうちに、通り過ぎて行ったのだろう。気を取り直し、私はさらに道を辿っていった。
この道を進んでいけば、元居た場所に戻れるはず。
それは確かだった。覚えがあるから。あまり通り慣れていないとはいえ、全く知らない道ではない。ただ、こんなにも長い道だっただろうか。歩いても、歩いても、なかなか戻れない。けれど、不思議とばてたりはしなかった。ぐっしょりと汗をかいていたはずなのに、倒れそうにすらならなかった。
不思議なものだ。そう思いながら、私はどんどん進んでいった。
──正直、帰りたくないな。
気づけば、私はそんな事を考えていた。
帰ることを拒んだって時間は進む一方だ。明日は来るし、明後日も来る。素直に帰り、素直に時の流れに従った方がずっと楽なのは分かっていた。
分かっていたけれど、思ってしまうものは仕方がない。
帰りたくない。それは、子どもの頃にも何度も思ったことでもある。遊園地に行った日、プールに行った日、映画を観に行った日、友達の家の行った日。
あらゆる日に、私は帰りたくないと呟いた。きっと、楽しい思い出の中に閉じこもりたかったのだろう。子どもらしい願いではあるけれど、今も時々、その願望が顔を覗かせてくる事がある。
──だったら、帰らなきゃいいじゃん。
またしても、声が聞こえた気がした。
ふと前を見ると、道の先──突き当りの緑の垣根の前に、七、八歳くらいの少女が立っていた。後ろ姿しか見えないけれど、どこか懐かしい。長い髪を風に揺らしながら立ち尽くしているその少女もまた、在りし日の友人に似ている気がした。
──あれ?
私はふと空を見上げた。
友人と会ったのは昼下がりの事だった。それからいつの間に、こんなに時間が経っていたのだろう。空はすっかり日が暮れて、夕焼け色に染まっていた。
呆然としていると、少女がこちらを振り返ってきた。今度は思い出の洪水に飲まれることもなく、少女と目が合った。その瞬間、奇妙なことが起きた。少女の背後の垣根が歪み、黒い穴が生まれたのだ。
疲れているのだろうか。そう思った矢先、少女は手を伸ばしてきた。
「ね、一緒にいようよ」
気づけば私は彼女に近づいていた。伸ばされた手が届くほど近くへ。そして、その手を握り返そうとしている事に気づき、慌てて退いた。少女はじっと私を見つめてくる。その顔は、記憶にもアルバムにも残っている友人の顔と瓜二つだった。その顔を見ているうちに、私の脳裏で声が蘇った。
──なんで。
それは、他でもない、私の声だった。
──なんで彼女だったの。
ひとり自室で泣きながら呟いたのは、半年ほど前の事である。
「一緒にいようよ」
思い出に浸る前に、少女が縋りついてきた。
目の前でその姿は歪み、徐々に成長していく。高校生へ。そして、大人へ。白いワンピースにつばの広い白い帽子。友人によく似たその顔を目の前にして戸惑う私に対し、彼女は言った。
「ねえ、帰りたくないんでしょう? 明日なんて来なければいいんでしょう? 大人になんてなりたくなかったんでしょう? それなら、あたしと一緒にいようよ」
手をぎゅっと掴まれて、私は動揺してしまった。
確かにその通りだ。彼女の言う通り。私はずっと大人になんてなりたくなかった。だったら、彼女と一緒にいればいいのだろうか。ここが私の居場所なのだろうか。
様々な思いが駆け巡る。彼女について行けば、楽になれるのだろうか。
思考がそこで止まりかけて、代わりに足が動きそうになる。
そんな時だった。
──死にたくない。
記憶の中にこびりついていた声が蘇った。
呟いていたのは、他でもない友人だった。病室のベッドの上で俯き、すすり泣く。そんな彼女を慰めようと背中をさすり、けれど、気の利いた声一つかけられなかった。
彼女の姿が蘇り、今の私と重なった。
滴が頬を伝っている。汗ではない。涙だ。気づけば、私は泣きながら口にしていた。
「死にたくない」
自分が何と言ったか理解できた瞬間、私は立っていられなくなった。泣きながら崩れ落ちる私を、友人によく似た彼女は見下ろしてきた。
立ち尽くしたまましばらく見つめ、表情のないまま呟くように言った。
「そう、分かった」
それっきり、彼女の姿は消えてしまった。
再び顔をあげてみると、そこは覚えのある通りだった。日はすっかり暮れていたけれど、迷っていた道ではない。
元居た場所に戻っている。ぐるりと見渡すと、友人に会いにいった場所──墓地がそこにあった。しばらくその入り口を見つめてから、私は再び帰り道を歩んだ。
今度はもう迷ったりしなかった。