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血と契り  作者: 雲野ハレマ
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血と契り

「さあ、本日最後のゲストの方と中継がつながっています。こんにちはー」河島アナがスクリーンに向かって呼びかける。


スタジオの大スクリーンに、青年がアップになった。はにかんだような笑顔を浮かべ、カメラに向かって手を振る。ネルシャツを着て、ブルージーンズを履いた青年だ。若者と呼ばれる歳は過ぎたけれど、中年と呼ばれるにはまだ少し余裕がある、それくらいの歳だろう。屋外の駐車場か何か、広い場所の一角に据えられた折りたたみ椅子に座って、にこにこ笑いながらこちらを見ている。


観客たちはスクリーンをひと目見てぎょっとした。思わず青年と善治郎を見比べる。青年は善治郎にとてもよく似ているのだ。若き日の善治郎そのものと言っていいくらいだ。


観客席から、似てるよね、というひそひそ声が漏れてくる。


善治郎の感想は、この青年は父親とそっくりだな、だった。父親の若い頃の写真を見たことがあるのだが、自分そっくりで驚いた記憶がある。


ただのそっくりさんではあるまい。

そっくりさんプラス何か、俺を奈落の底に突き落とすような、手の込んだ仕掛けがあるに決まってる。


ここまで出てきたゲストはすべて、俺の人生に関わりのある人たちだった。かつての相方、かつての恋人、かつての付き人。したがってこの青年も、過去、自分の人生になんらかの関わりがあったと考えるべきだろう。


なんだかすごく嫌な予感がする。自分にそっくりな人間が目の前に現れたら、誰でもこんなふうに恐怖を感じるのではないだろうか?


「先ほどまでとは、ちょっと趣向を変えて、この方は誰か、ゼンジローさんに当ててもらおうと思いまーす」河島アナが続ける。「それはなかなか面白そうな趣向ですね」柳井アナが同意する。


面白そうな趣向ですね? お前ら悪魔か?


まあいいや、最初から我慢の限界までは付き合うつもりだったからな。


我慢の限界が来たら?


善治郎はスーツの内ポケットに手を入れ、拳銃を確かめた。こいつを取り出し、ケースを投げ捨て、安全装置を外し、自分の脳みそを吹き飛ばす一連の動作を想像した。


その瞬間、電気が走ったように、バチッと真っ白になって、それで終わりだ。面倒なことも、絶望的な思いも、やるせなさも、もどかしさも、その一瞬で何もかも終わり。その先には何もない。誰がなんと言おうが、もう何も気にしなくていいのだ。


もう何も気にしなくいい。この言葉のもたらす甘美な響きが善治郎を魅了する。


善治郎の中で、その瞬間への憧れが限りなく大きくなっていく。


あと少し、あと少しの辛抱だ。その瞬間は刻一刻と近づいている。


善治郎は頭の中でもやもやしているものを体の奥深くまで飲み込み、それを長年の間に習得した独特のやり方で反転させ、満面の笑みを絞り出した。押し潰されそうなところまで追い詰められても、これができるのが善治郎である。


善治郎の満面の笑みがスクリーンに映し出される。見開いたお大きな瞳、大きく開いた口、綺麗な歯並び。整った顔だが、少しだけ鼻が大きく、少しだけ唇が厚く、前歯2本の間に微妙な隙間がある。美男子にはほんの少しだけ届かない。この愛嬌のある顔が、善治郎が多くの人々に愛される理由のひとつだ。


善治郎の満面の笑みを見ると、観客たちの顔には自然に笑顔が浮かぶ。


しかし、今日の善治郎の笑みには、料理に間違って紛れ込んでしまったスパイスのように狂気が隠されている。だがそれに気づく者はいない。


「うーん、誰だろうなー、質問とかしていいの?」善治郎が浮かれた子供のような言い方で訊く。


「質問はかまいませんよ。ただーし! ご本人が答えたくなーい、と仰った質問には当然のことながらお答え致しませーん」河島アナがゼンジローの調子に合わせて答える。


「わっかりましたー。それでは最初のしつもーん。あなたは誰ですかー?」善治郎が右手を上げて質問する。観客席にどっと笑いが起きる。


「ゼンジローさん、その質問はダメでーす」河島アナが両手でバッテンを作り笑いながら答える。後ろに見える野田も両手でバッテンを作っている。スクリーンの青年も首を横に振っている。


「いきなり核心はダメですか?」

ちびちび質問しながら、その都度笑わせろ、ってことなんだな?


「じゃあ、歳はおいくつですかー?」善治郎が質問を絞り出す。野田がオーケーの意味の丸を両手で作る。


「ゲストの方、お歳はいくつですか? お答えくださーい」河島アナがスクリーンに向かって呼びかける。


「36歳です」青年が答えた。


「36? けっこう歳食ってんだ」


善治郎の遠慮のない失礼な言い方に、観客席に笑いが起きる。


36歳。今が2022年だから、えーっと、1986年生まれか。その頃俺が付き合っていた女は誰だったっけ?


そこまで考えて、善治郎ははっととした。

俺はいま、無意識のうちに、この青年の母親と自分が、この青年が生まれた年につきあっていたかどうか、その可能性を探っていた。


つまり、これだけそっくりなら、俺が彼の生物学上の父親である可能性は大いにあるわけだが、驚いたのは、いま自分が無意識にそのことを探ろうとしていたことだ。 


無意識に! まったくなんてことだ!


つまり、これは俺にとって無意識下で、ずっと恐れ続けていた事態ということだ。


1986年といえば、山下の事務所に誘われて、芸能界の仕事を始めた頃だ。でも、これ一本で食っていけるかどうかは、まだ自信が持てない、そんな時期だった。


その頃は高円寺の事務所の近くのアパートで、女の子と暮らしていた。


いろんなバイトをやってはみたけれど、どれも長続きせず、同居していた女の子の世話になっていた。はっきり言えばヒモみたいな生活をしていたわけだ。


芸能界の仕事はいつ声がかかかるかわからない。だから、そういう場合に備えるために、定職にはつけないんだ、というのが世話になっていた彼女への言い訳だった。


問題は、その頃に「関係した」女性は彼女ひとりではないことだ。


認めるけど、その頃の俺は人間として最低の奴だった。若くて愚かだったというのは決して言い訳にはなるまい。


だが、人間のオスという、一個の生物としての言い訳をさせて貰えば、目の前にいる魅力的な女と親密になれるチャンスがあるのなら、男としてそのチャンスを逃さず飛びつく、という行為については、酌量の余地があるんじゃないかな? ダメ?


ひとりの人間としての貞操観念を問われるならば、間違っていたと認めざるを得ないとは思う。その点については、言い訳のしようがない。機会があれば(出来れば避けたいけど)女の子一人ひとりの前で土下座してもいいくらいだ。(女の子の長蛇の列はどれくらいの長さになるのか、想像したくもないけど)


まあ、その頃が俺の人生最大のモテ期だったことは間違いない。アソコが乾く暇もないというのは、大袈裟でなく、事実だった。


正直に言って、彼女たちのことは、名前はおろか、数さえ覚えていない。写真を見せられても、たぶん見分けられないだろう。


善治郎はふと、視線を感じて顔を上げた。スタジオ全体が自分に注目している。時間を忘れて考え続けていたのだ。


久しぶりに「焦る」と言う気持ちを味わった。何か面白いことを言わなきゃ。


「えーっと、2番目のしつもーん。今座ってらっしゃる場所、そこはどこですか?」


「えーっと、ここは駐車場ですね」


「いや、そういう意味じゃなくてさ」


「ははは、ボケてみましたー。ごめんなさーい」青年が頭をかきながら答える。青年のボケに観客席から好意的な拍手が起きた。


思いがけなく、青年に助けられた。


「ここは静岡県富士市の市民病院の駐車場ですね」


「静岡県! ずっと静岡に住んでるの? えーっと、つまり、そのう、ずーっと、静岡なの?」


「えーっと、僕は生まれも育ちもずーっとこっちで、ずーっと富士山を見ながら育ちました」青年が、「ずー」に力を込めた善治郎の言い方を真似て答えると、観客席にまたもや笑いが起きた。


この青年は、笑いのカンもいい。


それが俺の遺伝子のせいだとすると、うーん、困ったことになるな。


「お母さんの実家で育ちました。お母さんが僕を身籠ったのは、東京だって聞きましたけどね」青年はそういって、一瞬だけ笑顔でカメラを見た。その笑顔は、善治郎に対する、何らかのメッセージのようにも見えた。


ずっと静岡だと聞いて安心しかけていた善治郎はドキッとした。青年はもしかしたら、何もかも知っているんじゃないか? いや、それは十分にあり得る。野田のリサーチがあって、この青年はその網に引っかかって、そこから、面談や打ち合わせを経て、いまこの場にいるのだから。


何もかも知った上で、このだらだらした、正体探しゲームにつきあっているのだ。


善治郎は面白さを期待している観客をまったく無視することは出来ない。というか、面白くないことを、カメラの前で、このゼンジローがやるわけにはいかない。


もしかしたら、青年はそのことも承知の上で、付き合ってくれているのかもしれない。


「彼女いるの?」

善治郎が次に絞り出したのが、この質問である。


青年が苦笑いする。観客席からは、失笑が漏れてくる。


「結婚して妻がいます」


「ええっー、そうなの?」


「僕36歳ですよ。そんなに驚くことでは」


「まあ、そうだな。結婚してても不思議はない歳だよな。俺は60歳で未婚だけど」


「未婚だけど、隠し子がいたりして」青年のこのひと言で、観客席がどっと湧いた。青年はにこにこ笑っている。


善治郎はいきなり腹を殴られたような気がした。

こいつ、けっこうなタマかもしれないぞ。舐めてかかっていると大変な目に遭うかもしれない。


「君ねえ、冗談でもそういうことを言っちゃダメよ」


「すみませーん。つい調子に乗っちゃいました」素直に頭を下げて、謝る姿を見ると、観客席の青年に対する好感度がまた上がっていく。


「仕事何してんの?」


「実家のみかん農園をやってます」


「それ儲かるの?」


「そこはノーコメントです」


観客席からまた好意的な笑いと拍手が起きた。この青年は確実に観客たちを味方につけている。


「歯は丈夫?」善治郎は次の質問を絞り出す。


「はい?」聞き取れなかったのか、青年が聞き返す。


「歯は丈夫なほう? 虫歯はありますか?」観客席に、なんだよその質問は、というざわめきが起きる。だが善治郎にとって、それはぜひ知っておきたいことのひとつであった。


「ああ、僕小さい頃からずっと虫歯ってできたことないです」


やっぱりそうか。善治郎は口に出さず、ただ、うなずいた。善治郎もそうだ。父親もそうだった。虫歯なんて生まれた時から一切縁がない人生を送ってきたのだ。


この青年もそうだとなると、やはり可能性はぐっと上がる。周りの人間を見渡しても、そういう性質はまれだったからな。


「足速い?」


「は?」聞き取れなかったのではなく、なんでそんなこと聞くの? というふうに青年が聞き返す。


「かけっことか、いつも一等だったりした?」


「いや、僕は普通でしたよ。速くもなく遅くもなく」


なるほど、これはハズレなんだ。俺はなにしろ足が速かった。高校に入学した時陸上部に誘われたけど、夕方からのお笑い番組が見れなくなるから断ったんだよ。


「どちらかというと文系? それとも理系ですか?」観客席から、はあ? みたいな声が聞こえてくる。どうでもいいことばかり聞きやがって、と思っているのだろう。


「断然、理系ですね。でも、英語も歴史も好きなんですよねえ。でも、どちらかと言われれば、数学とか物理が得意でした」


善治郎は断然文系である(というか、数学とか物理とかまったく見向きもしなかったのだが)。


しかし、ハズレが多ければ安心は安心だけれど、それイコール、生物学上の関係を否定することにはならないだろう。ここらで、ぐっと核心に近づいてみよう。


「あのさあ、彼女と外を歩く時にね、たとえば、歩道が白線で区切られただけの狭い歩道だったりした時に、君は彼女を車から遠い安全な方に自然に導けるような人なのか。それが知りたいな」善治郎が質問すると、またもや観客席がざわざわした。いったいゼンジローは何が知りたいんだ?


青年は、全てを理解したように、大きくうなずき、微笑んだ。


「俺の質問の意味は分かった? 分かりにくい?」


「いや、ゼンジローさんの聞きたいことは、すごくよく分かりました。で、質問の答えですけど、僕はどんな時でも、彼女が安全な位置になるように配慮します」


青年がそう言うと、観客席からほう〜という声が漏れた。善治郎は深くうなずいた。


やはりそうか。


「それは、母親からそうするように教えられたからです。母と歩く時には、僕がそれを自然にできるようになるまで、何度も言われました。ゼンジローさんが知りたかったのはそのことでしょう?」


善治郎は潤んだ目でスクリーンの中の青年を見つめ、うなずいた。善治郎の知っているある女性のことをこの青年も知っている。青年もうなずき返した。


「ところで、母の名前は智子です。聞かれていないですけど。ゼンジローさんは知りたかったんじゃないですか?」


やはり智ちゃんか。高円寺のアパートで、5年間俺と暮らし、支えてくれた人だ。彼女は、子供みたいな俺に、大人の男として生きていくために必要なことを全て教えてくれたのだ。


そんな彼女を大事にするどころか、芸能界での成功とともに捨てるように手放してしまった。俺が人生で後悔すべきたったひとつのことがあるとすれば、智ちゃんを大事にしなかったことだ。


「智ちゃん、どうしてる?」善治郎は絞り出すような小さな声で訊いた。


「母は昨年亡くなりました。癌でした」


「智ちゃん死んだのか」


善治郎は呟くようにそう言うと、肩を落として床を見つめた。そのまま固まってしまったように動かなくなった。


スタジオ中が静まりかえって、みんな善治郎を見つめている。


河島アナが何か言おうと、口を開きかけた時、不意に善治郎が嗚咽を漏らした。それから堰を切ったように、善治郎は肩を震わせながら、泣き出した。


その様子を見た河島アナは手で自分の口を押さえて、善治郎に声をかけるのをやめた。柳井アナも声を出せず、ただ善治郎を見た。野田も山下も大石も、八代かなえも、ぼんた師匠も、スタッフたちもみな、凍りついたように善治郎を見つめた。


今や善治郎の泣き声だけが、スタジオで聞こえる唯一の音だった。


善治郎は椅子から崩れ落ち、床に膝をつき、額を床につき、両腕でそこにいない誰かを抱きしめながら泣き続けた。


智ちゃん。人生で一番大事な時期に大事なことを教えてくれ、飯を食わせてくれ、愛してくれた女性。いま、彼女の死を知り、彼女の存在が自分にとっていかに大きなものだったか、やっと気づいた。


スタジオは静まり返っている。


そのあまりの静けさに善治郎は気づいた。おい、忘れたのか? これはお笑い番組だぞ。なんだよこの空気? スタジオを凍りつかせてどうするんだよ? これをどうやって挽回するんだよ? もう無理だぞ、これ。


謝って帰っちゃおうか? 黙って逃げようか? いや、拳銃で自分の頭を吹き飛ばせばいいんじゃない? さっきまでそのつもりだったよね? そうだ、そうしよう。


善治郎はスーツのポケットに手を突っ込み拳銃を掴んだ。そしてゆっくり立ち上がった。涙が溢れる目でスタジオ全体を眺めた。これが人生で最後に見た光景か。


「お父さん急いで!」スクリーンから緊迫した声がした。スタジオ中の目が、いっせいに、そちらに奪われた。


お父さん? 善治郎はぼんやりとスクリーンを見た。誰? 俺のことじゃねえよな?


映像が揺れ、声の主らしき人物にフォーカスした。白衣を着た女性看護師が、緊迫した表情で青年に呼びかけている。お父さんと呼ばれたのは青年のようだ。


「今日が予定日なんですよね?」河島アナが慌てて解説をしようとするが、要領を得ない。「つまりそのう、今日は彼の奥さんの出産の予定日なので、スタジオまで来られなくて、それで中継となっていたわけですが」柳井アナも解説を試みるが、こちらも要領を得ない。


「産まれます! 急いで!」

青年と看護師が走り出した。カメラが後を追う。病院の建物に入り、エレベーターの前でボタンを押してエレベーターを待つ。エレベーターは上の方の階から動かない、青年と看護師は階段へ向かう。


「わたしの妻が、美沙というんですが、彼女が、実は、そのう、今日が出産の予定日でして、この病院に待機していたわけですが、それが、そのう、ついに始まったということでして」青年が息を切らしながら、カメラに向かって解説する。はあはあと喘ぎながら「陣痛が」と付け加える。観客席から、やっと事態が飲み込めたという、安心した声が上がる。


先ほどまで死ぬつもりだった善次郎は、その衝動をどこかに吹き飛ばされ、口を開けてスクリーンを見つめた。


産まれるって? これ、マジなの? 演出じゃなくて?


カメラが病室の前に着いた。看護師が中に入っていく。青年は病室の前の椅子に落ち着かない様子で座る。その様子をカメラが捉える。


「ゼンジローさん、さっきの話の続きですけど、僕があなたの息子であることは認めていただけますか?」


善治郎は慌ててスーツの袖で顔を拭った。

「うん、認める。認めるからさ、お前、俺を訴えたりするなよ」善治郎が言うと、観客席に笑いと拍手が起きた。


善治郎はその笑いと拍手の中に、今日初めて、観客から自分への思いやりのようなものを感じた。


少し前までの善治郎なら「てめえらの同情なんかいらねえよ」とでも言っただろうが、今は違う。ありがたかった。


「そう言えば君の名前をまだ聞いてなかったよな」


「いつ聞いてくれるかと思ってました。よしともって言います。父から善の字を、母から智の字をもらって、善智です」


父と母の名前から1文字ずつか。また涙が出そうになった。


「最初に聞いておけば、他の質問はいらなかったのにな」そんなことを言って泣きそうになるのをごまかした。


病室から看護師が出てきて善智に声をかけた。「いよいよですよ。準備してください」善智は看護師に促されて病室に入っていく。


スクリーンは病院のドアだけを映し続けている。善治郎はドアを見つめながら、産まれる、という言葉を噛み締めていた。死ぬ、という言葉の対極の位置にある言葉だ。いや、どちらも人間の生のほんの一部だ。智ちゃんは生まれて死んだだけじゃない。俺という人間に大きな影響を与え、善智を産み、育て、愛し、愛され、そしてこれから産まれる子の中にも彼女は生きている。


数分の沈黙のあと、ドアの向こうから、元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。スタジオ内に拍手が起きる。


善治郎はまた泣きそうになった。俺の涙腺はどうなってしまったんだ? さっきから涙が出っ放しだ。


病室のドアが少しだけ開いて、赤ん坊を抱いた善智の姿が見えた。カメラが一瞬捉えた赤ん坊の顔がスクリーンに映った。


善治郎は赤ん坊の顔を見て、また涙が止まらなくなった。


昔、おばあちゃんの葬式の時に、坊さんが、命の受け渡しの話をしてくれた。ばあちゃんから父ちゃんへ、父ちゃんから俺へ。命が受け渡されていくんだ、という話だった。


父親の葬式の時、同じ坊さんだったのだが、その話はしなかった。今にして思えば、50歳を過ぎて未婚の息子(俺だ)、に気を使っていたのだろう。俺のところで、命の受け渡しは、途絶えるのだ、と思ったのだろう。


それがどうだ。今日俺の目の前に、息子が現れ、そのすぐ後に、そいつの子供が誕生した。その子は、俺の孫って事だ。


あの坊さんに知らせてやらなくちゃ。っていうか、墓参りに行って親に報告したりするんだろうな、普通は。そのついでに坊さんに話してやろう。めんどくさいけど。


「ゼンジローさん、お話しを伺っていいですか?」河島アナが恐おそるおそる善治郎に訊く。


「ん? もちろん、いいよ」善治郎はもう、涙を隠さなかった。鼻をずるずるすすりながら、カメラの方を向いた。


「ゼンジローさんは、今日、父親になって、その直後に、おじいちゃんになるという、おそらく、世界じゅうを探しても滅多にないような経験をされました。ぜひ、感想をお聞かせください」


「感想? 知りたい? 本当に? でも、教えねえ〜。なぜなら嫌だからで〜す」善治郎は目を剥いて意地悪そうな顔を作った。さらに両手でピースマークを作り、子供のように両手を掲げて見せた。顔は涙と鼻水でどろどろだ。


絶妙なタイミングで紙吹雪が大量に降ってきた。善治郎は口に入った紙吹雪を不味そうに吐き出す。


走ってきたぼんた師匠が、善治郎の前でポーズを取ると、ファンファーレが鳴った。


テッテレー。


観客席が笑いと拍手に包まれる。


「昭和、平成と全力で駆け抜けてきたゼンジローさん。そして、令和となった今、また新しい物語が始まろうとしています。おめでとうございます!」河島アナがエンディングのコメントをする。


新しい物語の始まりか、うまいことを言うね。俺はてっきり、今日が人生の終わりだと思っていたんだけどね。


野田が観客席に向かって手をぐるぐる回して煽る。拍手が最高潮になったところで「はい、オーケーでーす」野田のひと言で収録は終わった。


お疲れ様でーす、という声がスタジオのあちこちで上がる。スタッフに導かれて、観客たちが退場していく。


観客がいなくなったスタジオで、スタッフたちが片付けを始める。善治郎はスクリーンを見つめていた。スクリーンには病室のドアが映っている。


スクリーンに善智が現れた。


「スタッフさんのご好意で回線はつながったままにしてもらってます」


「ありがたいね」


「いきなり、お父さん、って照れるんで、しばらくの間はゼンジローさんでいいですか?」


「もちろん」


「元気な男の子です」


「そうか、おめでとう」


「ゼンジローさんも当事者なんですよ。おじいちゃんなんですから」


「その呼び方はやめてえ」善治郎が体をくねらせながら悲鳴をあげると、2人のやりとりを聞いていたスタッフたちから笑い声が上がった。


「もう一人、感謝したい人がいるので、ここで紹介させてください。母と僕の生活をずっと見守ってくれた人がいるんです。僕は山下のおじさんと呼んで慕ってきました」


「山下? うちの事務所の山下?」


「そうです。山下芸能社の山下社長です」


スタジオの中を見回すと、金髪のデブはすぐに見つかった。山下は野田、大石、その他のスタッフと談笑していた。


「どういうことだ?」善治郎は山下に声をかけた。


「お前も智ちゃんも、俺らみんな家族みたいなものだったじゃないか」山下が言う。


「まあそうだけどさ」


「お前と別れた時、智ちゃんは妊娠してたんだよ」


「なんでそれをお前が知っていて、俺が知らないの? なんでそんな事態が起こり得るのよ? おかしいだろ?」


「ちっともおかしかねえよ。俺は何度も言った。お前はその度にうやむやにして逃げたんだよ。お前は都合よく忘れてきたんだよ。なのに智ちゃんは産むって言ってきかねえんだよ。俺は智ちゃんを必死で説得したよ。こんなクソ野郎の子供なんか産んでどうするんだって。ごめん。言葉が過ぎたな」山下はここでスクリーンの善智に向かって手を振って謝った。「クソ野郎ってのはあくまでコイツだけのことだから」そう言って善治郎を指差す。善智はスクリーンの向こうで苦笑いした。


「クソ呼ばわりかよ」善治郎が言う。


「言い訳があるなら聞くぞ」山下が善治郎を睨む。


「いや、ねえよ。俺は自らクソ野郎への道を選んだんだよ。そう言えば分かりやすいだろ」善治郎は確信を持って答えた。若くて愚かな俺には、芸の道を極めるためには、結婚して家庭を持つことなど、それこそ絶対に犯してはならない過ちとしか考えられなかったのだ。今のこの状況はきっとそんな俺への天罰なんだろうよ。それは甘んじて受けるつもりだ。


「でも、俺が売れたおかげで、お前は金持ちになれたんだ。そのことについては、てめえがくたばるまで言い続けてやるからな。覚悟しておけよ」


「まあそれは覚悟しておくよ。だがな、俺にも言いたいことは山のように溜まってるんだ。いいか、智ちゃんが善智を産んだ時、俺は静岡まで行って、立ち会ったんだよ。智ちゃんは、ゼンジローの子を産んだよって、泣いて喜んだんだぞ。お前はその時、どこで何をしてた? どうせ銀座あたりで、クソ高い酒を飲んで酔っ払っていたんだろう。まだまだあるぞ。善智の学校の行事は全部俺が行った。あいつが父親がいないことで寂しい思いをしないようにな。お前はその時何をしてた? どうだ、ちっとは俺に感謝する気になったか?」


「そうか、それならおまえをなじる頻度は、1割ほど割り引いてやってもいいかもな!」


「たったの1割かよ!」この山下のツッコミに善治郎が吹き出した。周りのスタッフたちも笑い出した。つられて山下も笑い出す。


笑いはしばらくの間続いた。笑いながら、善治郎と山下は目を合わせ、うなずき合った。30年以上一緒に仕事をしながら支えあってきた2人だ。憎み合っているわけではない。


「今日、善智をお前に引き合わせることにしたのは、去年、智ちゃんに頼まれたからだよ。病院でもういよいよお別れだ、という時に智ちゃんに腕をつかまれて、約束させられたんだ。約束したんだよ俺は。お前は絶対嫌だと言うだろうから、番組でも作って、無理矢理やるしかないじゃないか、そうだろ?」


「じゃあお前、そのために俺にこの番組をやらせたのか?」


「そうだ。大石に打ち明けて、相談しながら一緒に作ってきたんだ」


「黒川ユリアとか、湯川ヒデは?」


「彼らがこの番組に出ることになったのは、全くの偶然だ。というか、お前の持っている何かが呼び寄せたんだよ。俺らは『やはりゼンジローは持ってるモノが違うよな』って言って感心してたんだ」山下の隣で、大石と野田がうなずいた。


ああ、なんだかこいつらがいい人間に見えてきたのがむちゃくちゃむかつく。こいつらの罠にはまってしまった自分が悔しい。


「よう、俺もう帰るわ。お疲れ」そう言って善治郎は歩き出した。


「近いうちにそっちに一度行くよ」スクリーンの善智に声をかけた。


「待ってますよ、おじいちゃん」善智が笑いながら手を振る。


「おい、せがれ! その呼び方はやめろ!」善治郎がスクリーンの善智を指差して大きな声で怒鳴る。


スタジオに残っているスタッフたちが爆笑する。


善治郎はマイクを外して、八代かなえのところまで歩いていった。八代かなえはマイクをうやうやしく受け取った。


「あいつの連絡先わかる?」スクリーンを指差しながら訊いた。「いま調べますね」と言った八代かなえに善治郎は名刺を差し出す。表に野々垣善治郎の名前と裏に携帯の番号、その隣に一輪の薔薇のイラストが描かれている。善治郎が電話番号を教えてもいいと思う特別な人だけに渡す名刺である。

「ここにショートメールくれる?」

八代かなえは名刺を受け取り、にっこり笑った。


善治郎は純情な高校生のようにどきどきしながらその場を後にした。


この後、善治郎は八代かなえをヨッシーの店に誘うつもりである。湯川ヒデと一緒なら、めちゃめちゃ楽しい夜になるだろう。


善次郎の頭の中に、あの爽やかな春のような風が通り抜けていった。


新しい物語の始まりか。悪くないね。


(終わり)

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