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血と契り  作者: 雲野ハレマ
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神と大バカ

「さあ、時代は平成の後期へ。押しも押されぬ国民的スターになったゼンジローさん。ここで、ゼンジローさんの付き人だった湯川ヒデさんに登場していただきます。舞台裏のゼンジローさんはいつもどんなかんじなんでしょう? みなさん興味ありますよねー?」河島アナがゲストを紹介する。


野田の合図で観客席に拍手が起きる。


ずんぐりした普段着姿の男にスポットライトが当たった。頭頂部の髪がまるでクエスチョンマークのように跳ねている。彼は目をぱちぱちさせながらカメラを探し、見つかるとカメラに向かって手を振りながら笑ってみせた。


それから司会の2人に向かって手を振り、鳥が餌をついばむようなお辞儀をひょこひょこ繰り返した。


最後に善治郎に向かって、コンビニ袋を掲げ、指差し、何か言いながらお辞儀する。友達の見送りに来たのだけれど手土産を渡しそびれて慌てている男みたいだ。


善治郎はこの男の顔を見て、すぐにぴんときた。10年も前に突然いなくなった付き人だ。野田とスタッフはいったいどこでどうやっってこいつを見つけたのだろう?


この男にはプライベートな部分をずいぶん見せてきた。世間に堂々と胸を張って言えないようなこともいくつかあったかもしれない。野田が暴きたいのはそういう部分なのだろう。善治郎はうんざりしてため息をついた。


善治郎はスーツのポケットに手をやり、拳銃がそこにあることを確認した。ここだ、というタイミングがきたら自分の頭をそいつで吹き飛ばして、このうんざりする時間からおさらばすればいいのだ。


銃声と俺の血が、こいつらに自分たちが何をしたかを思い知らせるだろう。拳銃の存在は善次郎の心を落ち着かせ、不思議な静けさの中に善治郎を包みこんだ。


観客たちは、ひょこひょこ歩くずんぐりした男をくすくす笑いながら見ている。

男の顔、体つきは、ひと目見ただけで人々の笑いを誘う。善治郎はこの男を初めて見た時も同じことを感じた。それはお笑い芸人としては素晴らしい資質だが、この男の場合、そんなことは帳消しにしてお釣りがくるほどの欠点があるのだ。


男は先ほどまで黒木ユリアが座っていた椅子に座った。善治郎が座っている椅子の2メートルほど先だ。


男が椅子に座ると、足が床まで届かない。ぶらぶらする足が観客席の笑いを誘う。


しかし、野田は打ち合わせの時に気づかなかったのだろうか? この男の最大の欠点、超がつくほどのバカのせいで、この男に番組の進行とか手順を覚えさせるのはほぼ不可能なのだ。まともに喋らせることすら、かなりの苦労を伴うだろう。


まあ、なんとかなるさ、などと、いい加減な目算で見切り発車をしたに決まってる。うまくいかなかれば出演者とスタッフのせいにすればいい。大石譲りのおごりは、野田に確実に受け継がれているようだ。


「湯川さんはゼンジローさんにお願いがあって出演を決意なさったとか」河島アナが湯川ヒデに話を振る。


「うあああっ!」

湯川ヒデが、暗闇でいきなり肩を叩かれた人のように驚き、河島アナを凝視した。河島アナはこれほど驚かれたことに衝撃を受け、言葉を失ってしまった。


2人はお互い驚愕の表情を浮かべながら数秒間見つめ合った。


「あの、ゼンジローさんにお願いがあって来たんですよね?」柳井アナが河島アナの後を引き継いで、獰猛な犬に餌を与えるときのように、びくびくしながらたずねた。


「えっ? えっ? えっ?」湯川ヒデはまたしても驚愕の表情を浮かべ、柳井アナを凝視する。柳井アナは苦いものを間違って口に入れてしまったような表情を浮かべ、押し黙った。


野田は目を閉じて天を仰ぐ。


野田は湯川ヒデから話を聞き出すのは無理だとやっと気づいたらしい。こいつとまともな会話ができるのは世界にただ1人、この善治郎くらいのものなのだ。


「僕から経緯を説明させてもらっていい?」助け舟を出すように善治郎は言った。野田を助けるつもりでは全くなく、話の主導権を握るためだ。聞かれたくないことに話が向きそうになったら、話題を変えてやればいい。


「お願いします」河島アナも柳井アナも湯川ヒデを相手に会話をするのは無理だと諦めたらしい。善治郎に向かって頭を下げた。


湯川ヒデが司会の2人の真似をして善治郎に頭を下げると、観客席からクスクス笑いが漏れてきた。


お前が頭を下げてどうすんだ! 善治郎は大声でツッコミそうになった。この男が笑われると、なんとなく自分がバカにされたような気がするのだ。何回も言うけど、笑わせるのが俺の仕事であって、笑いものになるのはどうにも我慢がならない。


だが湯川ヒデ相手にツッコむのはやめておいた。手に負えないような返しをされそうな気がして怖かったからだ。


そういう意味では、つまりバカのレベル比べというものがあるとすればだが、善治郎は湯川ヒデを自分より一段上の存在と見なしている。尊敬しているわけではないのだが。


「10年前のある日のことなんだけど、僕こいつに買い物を頼んだんですよね。それでさ、こいつ、そのとき出ていったっきり帰ってこなかったの。事務所で心配して捜索願いまで出したんだから。それから10年間まったく音沙汰なし! で、次に会ったのが、今、たった今のことなのよ。それでお願い事がありますってさ、頭おかしいんですよ、こいつ」


善治郎が呆れて首を横に振りながら、頭の横で指をくるくる回して見せると、湯川ヒデは、でへへへ、という声とともに、爆発したように笑い出した。


腹を抱えて笑う湯川ヒデに誘われるように、観客席に笑いが起きる。


湯川ヒデがひきつけを起こしたように笑い続けると、観客席の笑いも大きくなっていく。


ついに司会の2人もスタッフたちも笑い出した。


笑っていないのは善治郎だけだ。善治郎だけはずっと、冷めた目で湯川ヒデを見ている。この男を前にすると、善治郎は、珍しい生き物に出会った学者のように、つぶさに観察せずにはいられないのだ。


いったいこの男は、人間であれば必ず持っているに違いない、悩みとか、辛い想いとか、そういう感情は持っていないのだろうか?


善治郎はまだ笑い続けている湯川ヒデを真正面から見据えた。


湯川ヒデは無邪気な顔で笑い続けている。


その笑い顔を見て善治郎は思った。この男は人間の苦悩などというものとは無縁の世界に生きているのだ。


もしかしたら、この男は人間の苦しみなどとっくに乗り越えた、何か特別な存在なのではないか? あの頃もそう思うことが時々あった。まさかとは思うが、善治郎は今もその可能性を捨てきれない。


「ヒデくん、買い物に出た後のこと覚えてる?」


他に聞きたいことは山ほどあるが、いきなり質問を並べるとこの男は混乱してしまう。ひとつずつ順番に聞いていくしかないのだ。


「えーっと、んがっ。覚えてます、師匠!」


善治郎がつい昔の呼び方で、ヒデくん、と呼びかけると、湯川ヒデもそれに合わせるように、善治郎のことを師匠と呼んだ。


この男とは、10年もの歳月を経ていても、通じあうのは一瞬で足りる。


当時、善治郎は湯川ヒデの野生児的な感性が気に入って、事務所に押しかけてきた弟子入り希望のこの男をそばに置くことにしたのだった。


あの頃、善治郎は面白いものを模索していた。40歳を超え、これからどんなお笑いを目指していくべきなのか悩んでいる時に湯川ヒデに出会ったのだ。


この男の針が振り切れた様なバカさ加減は、確かに一つの方向を善治郎に指し示していた。その凄さは簡単に真似できる類のものではなかったのだが。


「一万円をヒデくんに渡したよねえ? 俺は何を買ってきてくれって言ったんだっけ?」


「師匠は『なんか甘いのが食いてえなあ』とおっしゃいました」


湯川ヒデがゼンジローのモノマネを交えて答える。よく似ているので、観客席から笑いと拍手が起きる。


「それで、ヒデくんは何を買うことにしたの?」


「師匠のお気に入りの和菓子屋のようかん、いつも行列ができるアレを買おう! と思いました!」


湯川ヒデが急に声のボリュームを上げた。


「怒鳴らなくてもちゃんと聞こえるから、ヒデくん。普通に話してくれればいいよ」


「ああっ、すみません!」湯川ヒデが謝りながら、猛烈な勢いで頭を掻きむしると、髪が爆発したように逆立った。


観客席に笑いが起きる。


「それで、一万円を持って事務所を出たんだよね?」


「はい! レイコさんに挨拶して、玄関をダダっと出ました」


レイコさんというのは、事務所の経理をずっとやってくれている女性のことだ。


人の名前を覚えられるくらいだからバカではないのでは? と思うかもしれない。事実、こいつは買い物の釣り銭もきちんと計算できる。


しかし、その程度のことができるからといって、うかつにこいつがバカであることを否定してはいけない。何度も言うがこいつは正真正銘、本物のバカなのだ。


「和菓子屋は商店街の中にあるよな?」


「はい! 歩きました。がっしがっしと歩いていたら、ギラギラ〜って眩しい光の玉が空からギュイーンって降りてきたんです、師匠! 度肝を抜かれて見ていると、その光は僕の目の前にびたっと止まりました。そんで、中から白い服、白い髭のお爺さんがムヨヨヨヨーって出てきたんです!」


観客席から、思わずという感じでぷぷーっという笑い声が漏れた。司会者2人は顔を見合わせて首を傾げる。野田は頭を抱えてしまった。


湯川ヒデはこの反応に困惑し、きょろきょろ周りを見る。


湯川ヒデが困惑した顔で首を傾げると、スタジオ内のあちこちから、笑いが漏れてくる。


善治郎はスタジオ内をぐるっと見回した。八代かなえが真っ直ぐ湯川ヒデを見ている姿が目に止まった。


彼女はきっと、湯川ヒデが真剣なことに気づいたのだ。真剣に何かをやっている人を笑いものにしてはいけない。彼女はそのことを知っている。だから、笑っていないのだ。


湯川ヒデは、人を騙そうと思って嘘をつくようなことはしない。そのことは善治郎が一番よく知っている。


だから、湯川ヒデの夢みたいな話を聞いても、彼がそれを真剣に語っているのであれば、頭から馬鹿にして笑ったりしない。それは善治郎が常に自分自身に戒めてきたことだった。


この男が見たと言えば、彼はそれを「見た」のだろう。たとえそれがこの男の頭の中だけの幻であったとしても。


「ほんとなんですよ。師匠!」


「怒鳴らなくていい。前にも言っただろ? 俺はお前を信じるよ」


お前を信じる、と言った時、目のはじに映った八代かなえがにこっと笑ったような気がした。


「そのあと爺さんはどうしたの?」


「『お前は金を持っておるか、ん?』と聞いてきました」湯川ヒデは、その爺さんのモノマネらしき、年老いた人の声で言った。


観客席からくすくす笑いが聞こえてくる。


善治郎も笑ってしまった。ただし、これはいつもの癖で「空から降りてきた爺さんが湯川ヒデをカツアゲする」というネタを思いついたからだ。


「はい、持ってます、と答えると、『いくらじゃ?』と聞いてきましたので、1万円ですと答えました」


ここで観客席からこの話のオチを予想するようなひそひそ声とともに笑いが聞こえてきた。


善治郎もつまらないオチを想像しかけたが、すぐに頭から追い出した。つまらないオチなんてクソ喰らえだ。


「『その金を持って、今すぐ府中競馬場に向え。百万馬券が出るから、その1万円を賭けるがよい』とその爺さんが言いました!」


湯川ヒデがそこまで言うと、オチが分かったぞ、とも言いたげな観客たちの拍手と笑いがぱらぱらと起きた。


「それで電車で新宿までバーッと行って、京王線にササッと乗り換えて、ジャジャーン、府中競馬場にビタッと着きました!」


「おい、ちょっと聞いていいか?」


「はい、師匠」


「俺のようかんはどうなったんだ?」


「あっ、すいません、師匠! それはスッコーン忘れてました! お詫びにアレ、今朝早起きして並んで買ってきました!」


湯川ヒデはそう言ってコンビニ袋からようかんとお茶のペットボトルを取り出した。善治郎の前におずおずと差し出す。


野田の指示でスタッフが動く。善治郎の前にテーブルが運ばれた。善治郎にとって嬉しいことに、八代かなえが皿とナイフを持ってきて、切ったようかんを用意してくれた。善治郎は、ありがとうと言って皿を受け取った。そのとき、八代かなえと目があった。大きな、見る人を射抜くような瞳。善治郎の心臓は純情な高校生のように跳ね上がった。


善治郎は、八代かなえが切ってくれたようかんをひとくち口に入れた。


「うん、うまい。やっぱりここのは特別だね」


「師匠が喜んでくれて嬉しいです。あと、遅くなってすみませんです!」


「遅すぎだけどな。まあようかんが美味いから許すよ」


湯川ヒデが頭を掻くと、観客席に笑いが起きた。


あの日は天気のいい日曜日で、競馬日和と言ってもいい日だった。善治郎はぼんやりとその日のことを思い出していた。


「で? 競馬場に行って、それからどうしたの?」


「競馬場に着いて、競馬新聞を持ったおじさんに、百万馬券の出そうなレースを教えて貰ったんですけど、おじさんはそんな馬券買うやつは大バカ以外にいねえよ、ってピシャッと言いました」


「でもヒデくんは空から降りてきた爺さんの言うことの方を信じたんだな?」


「そーです! あの爺さんに言われたら師匠だってきっと信じますって。見ればわかります。すっごく、ホワホワホワーって、ありがたーい顔してました。あの人は神様です。きっと!」


観客席からプッという笑いが漏れる。


今笑ったやつは、永久に幸運に恵まれることなどないのだろう。善治郎はそう思った。幸運に恵まれるのは湯川ヒデみたいなやつに決まってる。


自分は運が悪いと思っている人は、いちどこの辺りのことについてじっくり考えてみた方がいいかもしれないな。まあ、いくら考えたところで湯川ヒデくらいの境地に達するのは無理だろうけど。


「そのレースを目の前で見たんですけど、最終コーナーに入ったところで、なんかこう、神の手みたいな大きな手がうわーんと現れて、ブワッシューって大きな風を起こしたんすよ」


湯川ヒデはそこでその時の風を思い起こすようににんまりとし、しばし目を閉じた。


「それで先頭グループがドタドタドタってみんなこけて、オレの馬がスタタタターってぶっちぎって、オラ! よっしゃー!」

湯川ヒデは荒い鼻息でそう言いながら、拳を突き上げた。


観客席から、あははというバカにしたような笑いに続いて、ぱらぱらと拍手が起きた。


湯川ヒデは観客席の反応の理由がわからず、あげていた右手を力なく下げてスタジオ内を見回した。


たいていの人は自分の信じたいことしか信じない。そういう輩は自分が大勢の側にいると思い込んでいるから、異論を唱える者は徹底して排除しようとする。そのことがよくわかる、憎しみと蔑みに満ちた笑いだった。


「何度でも言うけど、俺はヒデくんを信じるよ」善治郎は湯川ヒデに言い聞かせるように言った。観客席に言ってやりたい気持ちもあった。


「それで、オレが、よっしゃー、取ったーって叫ぶと、いくら買ったんだ? えっ? 1万買ったの? すげえ、すげえってもう、人がゾロゾロ集まってきちゃって。くっちゃくちゃになっているところで、さっきの親切なおじさんがササっとやって来て、換金してバックパックに金をさくさくっと詰め込んで、ブオオオオーってタクシーで競馬場を出るところまでぜーんぶ面倒見てくれたんすよ」


「百万馬券に1万円賭けたんだから1億円だよな?」


「そーです、師匠、おっしゃる通り! ジャジャーン! い・ち・お・く円でっす!」


スタジオ全体に、他人の幸運を信じたくない人たちのざわめきが起きた。中にはあからさまに、嘘くせー、という声も混じっていた。


「1億円は重かったろう?」善治郎はそういう人たちの声を無視して湯川ヒデに聞く。


「はい、すっごく重かったです。でも後で数えてみたんすけど、1億円って、100万円の札束がたったの100個なんですよ。それでもけっこう重かったっす! それで、おじさんが助けてくれたんです。吉川さん、ヨッシーです」


「知り合いか?」


「100万馬券の出るレースを教えてくれたおじさんです。その吉川さんが『オレの店で祝杯をあげようぜ』と言うので、店のある新宿にガガーッと向かいました」


「えっ? そのおっさんタクシーに乗ってきたの?」


「はい」


「いやいや、危ない、危ない。そんな時に知らない人をタクシーに乗せちゃダメだぜ。な? ヒデくん、大金を持ってるんだぜ?」

善治郎がそう言うと、湯川ヒデはきょとんとした顔で不思議そうに善治郎を見た。


悪意を持った人間に金を狙われるかもしれない。そのことを説明するにはどうすればいいのか? まず、悪意とはどういうものか、の説明をしなくちゃ。善治郎はため息を吐いて諦めた。


「なんでもないよ。気にするな」善治郎は言った。


「ヨッシーはいい人ですよ?」湯川ヒデは善治郎が言いたいことをなんとなく察したのか、善治郎の顔を覗き込みながら言った。


「っていうか、すっごくいい人なんです。ヨッシーに出会えたこともきっとあの爺さんのおかげだったんです!」


「なるほど、そうか。ヒデくんはその日、よほどついてたんだろうな」善治郎がそう言うと、湯川ヒデは得意げに胸を張った。


「タクシーに乗って、そのあとどうした?」


「ヨッシーの道案内で、タクシーはズバズバッと新宿の歌舞伎町に着きました! そこからヨッシーの店までツツツーっと歩いて、まだ開店前だったんで、シャッターをガガガーって上げて店の中に入りましたっ!」


「ヨッシーの店は何の店なの?」


「ホストクラブです。ヨッシーがすっげえ儲かるから、一緒にやらないかって」


観客席からまたもやオチを予想するようなひそひそ話と含み笑いが漏れてきた。彼らは何がなんでも湯川ヒデが騙されて金を失うオチを望んでいるようだ。


言っておくけど、いくらこの国がクソみたいな国だからって、観客がお笑い芸人にオチを強要するなんて俺は絶対に許さない。


「ああ、その1億円を出資しないか? って言われたんだな?」善治郎は観客席の期待を口に出してやった。何故だか善治郎には、湯川ヒデが観客席の期待をスカッと裏切ってくれるだろうという確信があった。


「ヨッシーは『カネはいいからよう、おめえの運を俺にくれや』と言ったんです」

ヨッシーのモノマネらしき独特な節回しで湯川ヒデが言う。


観客席に不満と怒りのこもったどよめきが起きる。


「カネは銀行に預けてくれて、ウンヨウ? とかに回してくれて。あれ、すごいっすね。毎月残高がガチコンガチコンって増えていきまして。ほんっとヨッシーは魔法使いだと思いました」湯川ヒデがご機嫌で続ける。


観客席のざわめきが大きくなる。はっきりと、話がうますぎる、作ってるだろ、という声が聞こえてきた。先ほどより明らかに非難めいた響きが強くなってきている。


観客席にあと少しで爆発しそうな、きな臭い臭いが漂ってきた。


午後一で始まった収録だが、ゲストの入れ替わりごとに多少の休憩が入るものの、ほぼぶっ通しで収録を続けている。お客様気分でやってきた素人の観客たちがイライラするのも無理はない。


野田が不安そうにスタジオを見回した。


「神様の次は、魔法使いに会ったんだ。ヒデくん、すごい1日だったな」善治郎は野田と観客席に聞かせるためにわざと楽しそうな声で言ってやった。


これを聞いた観客席の不満が一気に高まる。中には、バカにしやがって、と怒りをあらわにしている者もいる。不満をぶつけずにはいられない、という空気があちこちから立ち上ってきた。ぶつける対象は目の前で絵空事を並べ続ける湯川ヒデだ。


湯川ヒデは確かにバカだが観客をバカにしているわけではない。だが、観客たちは、自分たちの思い通りに話が進まないことが、バカにされているように感じられるのだろう。


善治郎はがぜん楽しくなってきた。善次郎の楽しそうな表情を見ると、湯川ヒデも楽しくなってきたようだ。善治郎が笑顔でうなずいてやると、湯川ヒデも満面の笑みでうなずき返した。


神様も魔法使いも、嘘に決まってる、と片付けるのは簡単だ。でも、もしかしたらこの世界の何処かにいるのかも、と想像の余地を残しておけば、たったそれだけのことなのに、世界が少しだけ面白くなるじゃないか。あんたたちはそれっぽっちのことさえ許せないのか?


「そのあと、きょうどうけいえいしゃ? にしてもらって、お店は大繁盛して、すっごいたくさん給料を貰って、オレの口座残高はガッツンガッツン増えてたんですけど、ある日気づいたら、もうじゅうぶんに貯まっているいるじゃありませんか! それで師匠との約束を思い出しまして! あとひとつお願いもありまして! 今日ここに来た次第でっす!」


「そうか。ひでくん、いろんなことがあったんだなあ。それで? 俺との約束ってなんだよ? そんなのしたっけ?」


「10億貯まったんで! 師匠と約束した10億円が貯まったんでお届けに来ました!」湯川ヒデがそう言ってコンビニ袋から銀行口座の手帳をとり出して掲げる。


それを見た観客席から、ふざけるな!、と言う声が複数上がった。


「ふざけるな! そんなうまい話があるわけねえだろうが! 誰が信じるんだよ!」


「こんなバカが10億稼いだ? ありえねえだろ! 人をナメるのもいい加減にしろ!」


怒り狂った観客たちが、観客席から降りて、ステージに迫る。


慌てた野田が、カメラにストップを命じた。両手を上げて、観客を押しとどめようとする。


「ダメダメダメー」


叫ぶ野田の襟首をひとりの観客が掴んだ。何やってんだてめえ。別なスタッフがその観客の襟首を掴みにかかる。そのスタッフの襟首をさらに別の観客が掴む。


スタジオの中は、あっという間に、修羅場と化した。


「警備を呼べ! 今すぐ! 今すぐ呼べ!」観客にもみくちゃにされている野田が叫んだ。


スタッフが大声で警備を呼ぶ。


すぐにスタジオの入り口から数人の警備員がなだれ込んできた。


警備員の1人がステージに上がり、大声で「落ち着きなさい。これ以上の騒ぎになったら警察を呼びます!」と一喝した。乱闘寸前だったスタジオの動きがこの一言で凍りついたように止まった。


「みなさん、どうか落ち着いて。軽食と飲み物が、たった今、届きましたので、ちょっと休憩しましょう。スタジオの奥のほうに場所を作りますので」


スタッフの呼びかけで、怒りの空気がすうっと音を立てて萎んでいった。


スタッフたちが大急ぎで折りたたみテーブルと椅子を用意して、臨時の食事会場を作る。


観客たちの間から、やっとかよ、という声が上がる。食事と聞いて先ほどまでの気色ばった表情が消え、表情が和んでいく。テーブルについて食事にありついた者たちからは笑い声が上がっている。


善治郎は観客たちの態度の豹変を信じられない思いで見た。空腹が彼らの不満を増幅し、不機嫌にさせていたのだ。


野田と大石、山下、アナウンサー2人が集まってひそひそ話しているのが聞こえてくる。


観客用の昼食に頼んでおいたはずのケータリングが連絡ミスで注文されておらず、急遽中華の出前を頼んだのだが、出前の車が事故を起こしてアウト。スタッフ総出でサンドイッチなどの軽食と飲み物を近所のスーパーやコンビニからかき集めるという事態になったらしい。


しかも、買い物に出かけたスタッフの戻りが遅くなり、観客たちは腹ぺこのまま、収録を続けさせられた、ということだ。


「こりゃあ、暴動が起きてもおかしくなかったな」大石が腕組みをして、真剣そうな表情を作って言うが、語尾の辺りに笑いが混じる。


「メシの怨みを侮っちゃいけねえな」

山下が肩を揺らして笑いながら言う。


「まったく」

野田が大きく首を縦に振り笑う。


善治郎は笑っている3人を見て、衝動的な怒りを感じて立ち上がった。右手をスーツのポケットに入れ、銃の存在を確かめる。野田、大石、山下の順だ、と撃つ順番を考えた。


その瞬間、湯川ヒデに袖を強く掴まれ、善治郎ははっと我に返った。湯川ヒデは首を左右に振りながら、今から何をするつもりか知らないけど、やめて、と言っているようだった。善治郎から立ち上るただごとでない気配に何かを感じたのかもしれない。


彼は、椅子の中でコンビニ袋を胸に抱いて、怯えていた。


善治郎は深呼吸して落ち着きを取り戻した。


「ヒデくん、もう大丈夫だよ。控室で休憩しようか」善治郎は落ち着いてそう言った。そう言わせてくれた湯川ヒデに感謝しながら。


善治郎は湯川ヒデを連れて席を立った。

「控室にいるから」と野田に声をかけると「了解でーす」という、まるで何ひとつ問題は起きていないかのようなのんびりした返事が返ってきた。


控室へ向かって歩きながら善治郎はこの場をうまく収めることが出来そうなオチを思いついた。


過去の番組でも、こういうふと気が緩んだ状況でその場を救うアイディアがぽんと出てきたことがあった。


いくつかの角度から眺めてこのオチに不備がないことを確認する。問題は湯川ヒデに多少の演技をしてもらう必要があることだ。そこは賭けだがやってみるしかないだろう。


善治郎と湯川ヒデは、控室で差し向かいに座った。


「ところで、どんな約束したんだっけ?」善治郎は湯川ヒデにいちばん聞きたかったことを聞いてみた。

「むかし、事務所の屋上で、ようかんを食べて、お茶を飲みながら、話したことを覚えてます? 師匠?」


「うーん、何を話したっけなあ」


「師匠は、仕事がもうぐわーって嫌になったから、ちゃちゃっと引退しようかなっておっしゃいました!」


「俺そんなこと言った?」


「俺が引退して何するんですか?って聞いたら、『モルジブとかのリゾート地でのーんびり寝っ転がってさ、毎日くっだらねえギャグを考えて過ごすよ』って、ダラダラ〜とおっしゃいました。それから『タヒチがいいかなあ、ジワタネホかなあ』とか、いろんなリゾート地の話をトツトツトツっとなさいました」


「ああ、それな。お前よく覚えてるな。その日はすごく天気が良くてさ、ぽかぽか陽にあたりながら、リゾートの話をしてたんだよな」


「俺は引退してリゾートでダラダラダラ〜っとするには、ビシッとおいくらくらいかかるんですか? て聞いたんですよ」


「そうだったっけ?」


「そしたら師匠は『そうだな、ザックリ10億くらいあればいいかなあ』とおっしゃいました!」

湯川ヒデは善治郎のモノマネを交えながら話を続ける。


善治郎はにっこり笑った。


「10億って、そりゃおまえ、冗談だぜ?」


「師匠はそのくらい持ってるんじゃないすか? とお聞きしましたら『バカヤロウ、そんな金持ってるわけねえだろう。その100分の1もねえよ。貰ったら貰った分夜の街に消えていくんだ。それが芸人ってもんだ』っておっしゃいました!」


「ああ、それは言ったかもな。ほんとに金はねえんだよ」


「じゃあその10億オレがなんとかしますんでって言ったんですよ! それで、こないだ、ふと、通帳の残高を! ツラツラツラーと見てたら、ビッタシ! 10億を超えてまして、そうしたらその時のことをビビーンと思い出しまして! 山下社長に電話したら、お前テレビに出ろってことになりまして!」

湯川ヒデはコンビニ袋から何かを取り出して、善治郎に見せた。


銀行の通帳とハンコだった。通帳を開くと見たこともない桁の数字が並んでいる。1の桁から、十、百、千、万、と数えていくと、ほんとうに10億まであった。


善治郎は思わず、唸り声をあげ、口を押さえて固まってしまった。


「本当だったんだな。いや、お前が嘘をつくとは思ってなかったけどさ」それを言うのがやっとだった。何故だか理由は分からないけれど、涙がぼろぼろ溢れてきた。


スーツの袖で、顔を乱暴に拭くふりをして涙を拭った。


「ヒデくん、よく貯めたなあ。でもこれ、いくらなんでも俺がもらうってわけにはいかないよ」


「ええっ? でもそこは何がなんでも、ぜひ! もらっていただかないと。オレ、困ってしまいます!」


「うれしいけどさ。オレの前にまず、ヒデくんのためになることに使ってもらわなくちゃ。これだけあればいろんなことができるぜ? それにしてもよく貯めたなあ、ヒデくん」


「オレは何もしてないっす。ヨッシーが何から何までやってくれたんで!」


「俺もヨッシーに会って礼を言わないとな」


「エヘヘ、今度ヨッシーの店にご招待します。すっごい面白い店なんです!」


「そうか、楽しみだな。それはそうと、この番組のことだけどさ、このままにはしておけないから、いちおうのオチはつけとかないといけないと思うんだ。分かるか?」


「いちおうのオチ!」


「そうだ。芝居をするんだ」


「芝居!」


「観客とスタッフを騙すんだ」


「騙す! えっ?」


「いいかヒデくん、この世はいい人ばかりじゃない。中には悪い人間もたくさんいる。そいつらには、ヒデくんが大金持ちになったってことは教えないでおく方がいい。分かるか?」


「10億円稼いだことは教えない方がいい!」


「そうだ! だからこれからスタジオに戻って収録を再開するけど、その時に芝居を打つ。ヒデくんが通帳の金額を読み間違えたことにするんだ。悪いけど、ヨッシーにも悪者になってもらう。お前の金はヨッシーに騙し取られたことにするんだ。これが奴らの望んでいるオチだ。ここで俺の師匠、ぼんた師匠に登場してもらう。テッテレー! ドッキリ大成功! って、そういう段取りだ」善治郎は一気に捲し立てた。


だが湯川ヒデは浮かない表情だ。


「ヨッシーは悪者にされちゃうんすか?」


「いや、あとでヨッシーの店でネタばらししようよ。俺が説明に行くよ。日本全国民は知らなくても、お前らの友達が何人か本当のことを知っていてくれればいいだろう?」


「そっか、そうですよね」


「よし。じゃあ少し練習しておこう」


芝居臭さがなくなるまで、2人は何度も繰り返して練習した。


芝居が出来上がると、2人でぼんた師匠の控室を訪れ、協力をお願いした。ぼんた師匠は面白がって、協力を約束してくれた。


善治郎と湯川ヒデがスタジオに戻る頃には、スタジオ内はすかっかり落ち着きを取り戻していた。


「それでは収録を再開しまーす」野田のカウントダウンで収録が始まった。スポットライトが2人のアナウンサーを捉える。


「さあ、ここまでは新宿のホストクラブに出資するまでの経緯をお話ししていただきましたが、湯川ヒデさんはその後、ビジネスで大成功を収めて今日、師匠であるゼンジローさんの元へ戻ってきたのです。ここからどんなストーリーが語られるのでしょう? どきどきしますねえ」河島アナが先ほどの騒ぎで中断する前と繋がるように解説を入れる。


先ほどまでの雰囲気とは打って変わって、観客席は好意的な雰囲気で溢れている。胃袋が膨れたことで、何に対しても寛容になれる余裕が生まれたらしい。


「ヨッシーとホストクラブを経営してたら、面白くなっちゃって、あっという間に10年経っちゃったの?」善治郎が話を始めた。


「そうなんです師匠! それである日通帳を見たら、オオオオー! ビックリ、ビックリー! いつの間にか10億貯まってまして! それで師匠との約束を思い出しまして! 山下社長に電話したら、ちょうど! まさにどピッタシのドッキリ番組を企画中だから、お前それに出ろってことになりまして! 今日この日を迎えることにあいなりましたわけで!」


「なるほどな。ホストクラブってのはそんなに儲かるものなの?」


「そーなんです! ヨッシーのお店は業界でナンバーワンのすっごい人気のある店に成長しまして! 支店をビシバシ日本全国に展開しまくりまして! オレの銀行口座にヤクインホウシュウとやらがガッツンガッツン振り込まれまして! ほら、通帳を見てくだいさい!」


湯川ヒデがコンビニ袋から通帳を出して善次郎に差し出す。善治郎はカメラから見えないように意識して通帳を開く。


通帳を見る善次郎の顔がみるみる曇っていく。


善治郎は眉間に皺を寄せ、しきりに首を捻りながら、何度も数え直し、頭を掻きむしる。


観客の望み通り、通帳の金額に「何らかの問題」があることが発覚したのだ。観客席から期待に満ちたひそひそ声が聞こえてくる。


「ヒデくんさあ、これ、10億には桁が足りないぜ?」


「ええっ?」


血相を変えた湯川ヒデが、善次郎の持った通帳に飛びつく。2人で「1、10、100…」と桁を数える。この間も通帳の数字がカメラからは見えないように、善治郎は体を使ってカメラをブロックする。


2人で何度か数え直した後、善治郎が苦しそうにうめいた。


「ヒデくん、1千万だよこれ」


善治郎は湯川ヒデと顔を見合わせた。2人同時にがっくりと肩を落とし、カメラ目線で呟く。


「減ってるじゃん」


2人で観客席に向かってため息をつき、やれやれという風に肩をすくめて見せると、スタジオ内が爆笑に包まれた。


タイミングを見計らって、観客席の後方からちっちゃいピエロの老人が走ってきた。ピエロは善治郎と湯川ヒデの前に立ち止まる。はあはあ、と苦しそうに息をするぼんた師匠を見て善治郎は、ああぼんた師匠歳とったなあ、としみじみ感じた。ぼんた師匠はそんな善次郎の思いなど吹き飛ばすように、意地の悪そうな表情を浮かべ「桁が少ないの?」と半笑いで聞いた。善治郎が悔しそうにうなずくと、ピエロは「残念でしたー」と目を剥いて叫び「ドッキリ」と書かれたプラカードを掲げた。ピエロの表情は最高に憎々しげだ。


スタジオ内に、お馴染みの、テッテレーというファンファーレが響く。


上から大量の花吹雪が降ってきた。善治郎と湯川ヒデ、ぼんた師匠が口に入った花吹雪をまずそうに吐き出す。えずく顔が3人ともそっくりだ。


観客席は大きな歓声に包まれた。


「いやあ、感動の師弟愛。いいものを見せてもらいましたねえ」柳井アナが半笑いでまとめのコメントをする。


「湯川ヒデさん、ところでゼンジローさんへのお願いとは何だったんですか?」河島アナがおそるおそる訊く。


「引退後はリゾートでのんびりしていただくかわりに、あと数年は現役でテレビに出ていただきたい、とお願いしたいです。師匠の番組を見るのが好きなので!」


これを聞いた善治郎は、湯川ヒデを引き寄せ、抱きしめた。


湯川ヒデの耳元で、彼だけに聞こえるよう「ヒデくんありがとうな。あと、ヒデくんがバカに見えるようなオチにしてごめん。それに、ヨッシーを悪者にしてごめんな」善治郎は涙を隠すために、湯川ヒデの肩に顔を埋めた。


「抱き合う師弟。なんと美しい。いいものを見せていただきましたねえ」柳井アナの締めの言葉に続いて、野田が手をぐるぐる回して、もっと拍手を、と観客席を煽る。そして、野田の「はい、オッケーでーす」の言葉で収録は終わった。


野田、大石、山下が拍手しながら湯川ヒデと善次郎の元に歩いてきた。


「いやあ、面白かったっすよ」


野田の言葉に大石、山下が、大げさに首を縦に振る。


善治郎は仏頂面をキープしたまま、彼らにうなずいてやる。


そして湯川ヒデの耳元で囁いた。


「バカは相手にせず、とっとと控室に戻ろうぜ」


湯川ヒデがにっこり笑った。彼の笑顔を見た瞬間、善次郎の頭の中に、まるで春を思わせるような、爽やかな風が吹き抜けていった。


善治郎は湯川ヒデの肩を抱いて歩き出す。湯川ヒデは、でへへへ、と楽しそうに笑いながら、善治郎とともに控室に向かった。


(続く)


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