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血と契り  作者: 雲野ハレマ
3/5

別れても好きな人

「さあ、時代は昭和から平成へ。ついにゼンジローさんの人気が爆発! 冠番組をいくつも抱え、人気お笑い芸人の道を歩むゼンジローさん。しかし、ゼンジローさんの人気を脅かすスキャンダルが、静かな足音とともに、ひたひたと近づいていたのです!」照明が暗くなり、不安を煽るような音楽をバックに柳井アナが低い声で言う。まるでサスペンスドラマの語りのようだ。


観客席からの視線が善治郎に向かって注がれる。


スキャンダルねえ。確かに俺もいろいろあったけどさ。基本的にそれってプライベートの話だろ? 誰がプライベートの話でどっきりやっていいって言ったんだよ?


俺にも人権ってものがあるんだ。やっていいことと悪いことの区別はきちんとしてくれよ。


まあ、確かにプライベートに「踏み込んだ」かのようなどっきり番組もあるだろうよ。でもそれは、最初から打ち合わせ済みのことであってさ、あくまでもそんなふうに見えるように、出演者が演じてるだけなんだよ。そういう観客たちの勘違いを利用してさ、テレビ局が芸人を貶めるようなことしちゃダメだろ。言いたいこと分かる?


お前らのやってることってさ、過去の「本物の」スキャンダルを引っ張り出してきて、お笑いにしろってことだ。めちゃくちゃな話だよ。俺の言ってること分かるよな? これは犯罪に限りなく近いやり方だぜ。


分かりやすく言えば、い・じ・め、だろ?


野田の方を見ると、自分の演出に酔ったように、陶然とした目をして、唇の端に笑いを浮かべている。


テレビ史上初! ついに、本物のいじめをテレビ番組にしちゃいました! などと称賛されている自分の姿でも想像しているのか?


これ以上続けたら、ちょっとしたことでぶち切れて、このクソ野郎に銃弾を撃ち込んでしまいそうだ。その直後、俺は自分の頭を撃ち抜くことになるだろう。


善治郎は目をつぶってその瞬間のことを想像してみる。


その覚悟は本当にできているのか? と自分に訊いてみる。答えはもちろんイエスだ。この自信が揺らぐことはない。


善治郎はそっとスーツの内ポケットに手をやり、ケースに入れた拳銃の存在を確かめた。


「コメディアンが番組収録中に、ディレクターを射殺し、その直後に自殺」とか、世界中で報道されるといいな。この国のクソぶりを世界の人たちに知ってもらういい機会になるだろう。


いちおう言っておくけど、この世界には正義ってものがあるんだ。


えっ? 知らなかった?


なるほど、正義がもし存在するなら、俺に対するこんな仕打ちがほったらかしにされているはずがないものな。でも、存在するんだよ。その責任は実は国にあるんだ。学校で習わなかったか? お笑い芸人ごときが偉そうに国家を語るんじゃねえ? いやいや、そんな大そうなこと言ってるんじゃないんだ。ちょっと考えれば当たり前のことだと分かるだろう。まあ聞いてくれ。


どこの国でも人殺しは許されないよな? 誰が許さないんだ? 国だろ。理由を知ってる? 殺人をほったらかしにするようなクソな国には誰も住みたくないだろう? まともな人たちがみんな逃げ出してしまう。だから国は自らがまともであることを示すために、殺人を絶対に認めないんだ。


いじめも同じことなんだよ。


国はいじめなんてものは認めちゃいけないんだ。絶対にほったらかしにしちゃいけないんだよ。


まあ、俺がいじめの被害者かどうかという議論になれば、俺の方が負ける公算が高いけどね。きつい言葉で人をいじめるイメージが染みついちゃってるから。


また俺が悪者かよ。

まったく、心が折れそうだよ。今すぐ、拳銃を取り出して、口に咥えて、引き金を引くべきかな?


最近は夜になると、ずっとこんな感じで鬱々としてるんだよ。今は夜じゃないから、まだましだけど。


さっき、控室で少し寝たんだけど、その時に、20年も前に死んだおばあちゃんの夢を見たんだ。目が覚めたら、頬が涙で濡れていた。夕方、うたた寝して目を覚ましたらさっきまでそこにいたはずのおばあちゃんがいなくなっていて、家じゅうを探し回るけれど見つけられない、そんな夢だった。夢の中で俺は、何度も何度も、ばあちゃん、ばあちゃん、と叫んだ。両親が共働きでさ。おばあちゃんっ子だったんだよ、俺は。


そんな夢を見たせいで、控室で休むつもりがかえって疲れて重くなってしまった体を引きずるようにして、なんとかスタジオにやって来た。その直後に、柳井アナのさっきのアナウンスを聞かされ、野田のにやにや笑いを見せつけられたんだ。


善治郎は助けを求めるように八代かなえの姿を探した。彼女はカメラの後ろに控えていた。そのすっとのびた背筋と翳りのない目を見ただけで、善治郎は前向きな気持ちを取り戻すことができた。


しゃきっとしようと思ったのも束の間、背筋を伸ばした善治郎の横っ面をひっぱたくように、目の前の大型スクリーンいっぱいに週刊誌の見開きページが現れた。


「枕営業」の煽情的な文字が躍る。30を少しすぎた頃の善治郎が、背の高いモデル風の女性の腰を抱き、カメラのフラッシュに驚いている写真。


よりによって、これかよ。

こいつだけはさすがに避けてくれるんじゃないかと思ってたけど、甘かったな。野田のネタ選択に抜かりはない。


俺を晒し者にするつもりならこれほどぴったりなスキャンダルは他にないだろうからな。


善次郎の全身に、ふつふつと怒りが駆け巡った。この時に受けた、さまざまな理不尽な扱いを思い出したせいだ。


観客席から、あ〜、これ憶えてる、とか、こんなこともあったよねえ、と言う声が漏れてくる。


あんたたちは気楽でいいよな。当事者にとっては生きるか死ぬかの話でも、あんたたちは安全な場所から、ああでもない、こうでもないって、評論家みたいに腕組みして好きなことを言ってりゃいいんだから。


自分が当事者で、そんなふうに自分が扱われたらどんな気持ちになるか、ちょっとだけ考えてくれればいいのに。


立ち止まって考えてみるってことができない人たちが増えてるよな。この国の人たちって、まるで感性なんてものを持たない生き物、例えば虫みたいなものに少しずつ近づいているんじゃないだろうか、って思うことがある。


日本人が進化した結果虫になる。新しい進化論の誕生だ。これ面白いな。カフカが聞いたらさぞかしびっくりするだろうよ。


でも、そうなったらお笑いなんてものはもはや必要とされなくなるよな。虫は笑わないからさ。


「それでは、当時、ゼンジローさんとともにスキャンダルの渦中にあった、黒木ユリアさんに登場していただきましょう。当時は言えなかった裏話なんかをたっぷり、お話しいただきます!」河島アナが抑えきれないくらい楽しそうに言う。


観客席から期待に満ちた拍手が起きる。


ご本人にたっぷりお話しいただきます? やっぱり本人呼んじゃったんだ? いかれてるよ、お前らは! そんなことをして、いったい誰が得するんだよ?


他人の不幸は蜜の味って、平気で言うようなやつらだろ? まあ、そういう輩が世間に溢れているからこんなクソ番組でも視聴率を稼げるんだろうけどさ。


それにしても彼女はなんで、のこのこ出てきたんだ? 断ることもできただろうに。


金か? 黒木ユリアは目の前に積まれた金を断りきれなかったのか? 


善治郎は一瞬、黒木ユリアが落ちぶれて、貧乏なババアになって登場するんじゃないかと思って怖くなった。そんな姿になったかつての恋人と対面するなんて、それ以上の恐怖があるか?


観客席の奥の方がざわざわした。


善治郎は首を伸ばして、黒木ユリアを探した。


黒木ユリアは豪華な黒のドレスに身を包み、光輝くネックレスをつけて登場した。

30年ぶりに見た彼女はあの頃より美しかった。若かった頃の尖った部分が影を潜め、その分知性と余裕が加わった。気高さすら感じさせる。強い男に出会い、愛され、いい生活をさせてもらっているのに違いない。


「黒木さんは、世界的な富豪のドウェイン・マードック氏とご結婚なさって、いまカリフォルニアにお住まいになっていらっしゃいます。今日は、この番組のために来日してくださいました」河島アナが豪華な衣装に身を包んだ黒木ユリアを羨望の眼差しで見ながら紹介した。


美しい教会での結婚式や、大物たちと撮った記念写真が次々と大型スクリーンに映し出される。


観客席からほう〜というため息が漏れる。


さらに、カメラが観客席近くに立っている、黒スーツを着た、どちらも2メートル以上はありそうな、ボディガード2人を映すと、観客席からお〜というどよめきが漏れてきた。


黒木ユリアは、司会席横の椅子に優雅に座った。その向かい2メートルくらいのところに座っていた善治郎は、彼女の威厳に圧倒され、起立し、彼女が腰掛けるまで、その優雅な動作を見守った。


黒木ユリアは善治郎を見て微笑んだ。


「あの〜、たいへん失礼ですが首におかけになっているネックレスは、本物のダイヤモンドなんでしょうね?」河島アナが、おそるおそる訊く。


「これ? そうよ」黒木ユリアはこともなげに答えた。

さらに河島アナが、番組が調べたそのネックレスの値段を、声を震わせながら言う。

観客席に、うお〜とかうえ〜みたいな驚愕の声が溢れる。


「あのう、もうひとつ、これもたいへん失礼な質問なんですが、今年50歳になられたと聞いたんですが本当ですか?」


「ええ、それも本当ですよ」黒木ユリアが笑顔で答えると、スタジオ内がどよめいた。「うそだろ〜」スタジオ内の誰もがそう思っただろう。どう見ても30そこそこ、20代と言ってもおかしくない。


善治郎はもちろん黒木ユリアの歳を知っていた。善治郎が30歳の時、20歳の女子大生の彼女と共演者として出会ったのだ。


「実にお美しい。日本でグラビアアイドルをなさっていた頃よりもさらに美しくなっておられます」柳井アナが善治郎の方をちらちら見ながら言う。


柳井アナは善治郎にコメントを求めているのだ。何か面白い返しをしなければいけない。それは芸人としての善次郎の責務だ。しかし善次郎の人間としての本能は別のことを考えていた。


あんたが、あの頃以上に美しくいてくれてうれしいよ。


善治郎は思いついたままにそう口にしてしまおうか、と思った。それがかつて愛した女への男としての礼儀のような気がしたから。


しかし、人間としての自分より、芸人としての自分が常に先に来てしまうのが善次郎である。


「へえ〜、どんなすげえ皺くちゃババアが登場するかと楽しみにしてたんだけど、期待が外れたね。もちろん、いい意味でよ」


観客席に笑いが起きる。


黒木ユリアは花が咲いたような笑いを見せた。


「あら、ひどい。ゼンジローさんこそ還暦には見えないわ。皺くちゃじじいになってたら、いっぱいいじめてやろうと思ってたんだけど」


観客席に拍手が起きた。黒木ユリアの切り返しに対する賞賛だ。彼女は今のひとことで、ここにいる観客全員に気に入られたようだ。


たいしたもんだ。善治郎は初めてテレビで彼女と共演した時と同じことを思った。彼女が口を開くとみんなが注目する。そして彼女のことを好きになる。生まれ持った魅力を持っているのだ。


善治郎は30年ぶりの彼女に好感を持った。ただ、なぜ今になってこんな番組に登場したのか、という疑問は残った。あんなひどい別れ方をしたのを忘れたわけではないだろうに。いまさら、そのことを忘れて楽しく同窓会ってわけにはいかないじゃないか。


「ここで懐かしいビデオを観てみましょうか」柳井アナの言葉と共に大型スクリーンにビデオが映る。前髪をカールし、派手なブルーのスーツを着た善治郎がアップになった。


「ああ〜、なんか見たくねえ〜、恥ずかしい〜」善治郎が悲鳴を上げると観客席から笑いが漏れた。


ビデオは1990年代、平成初頭のものだった。バブル経済真っ盛りの頃で、どの出演者の顔にも屈託のない笑顔が浮かんでいる。その数年後に、まるでバカ騒ぎのバチが当たったかのように起きた大地震やテロ事件の翳りのひとかけらも見られない、日本にたまたま訪れた、バブルという不相応に幸運な時代、その時代の象徴である「女子大生」を主役に据えた、ほとんど内容のないバラエティ番組である。


黒木ユリアは女子大生の出演者の1人だった。彼女は女子大生のグループの中では、容姿の点でも、トークの上手さでも、物怖じしない度胸の点でも、圧倒的な存在感を放っていた。スターが生まれる期待を見る者全てに抱かせた。司会の善治郎も当然のように彼女に数多く話しかけている。黒木ユリアは善治郎にまるで親しい友達のようにタメ口で話しかける。善治郎も面白がって、それを許しているように見える。


番組の収録が終わった後は毎回、善治郎はスタッフと出演者を伴い、銀座に繰り出していたのを思い出した。時はバブル経済の真っ盛り。いったい誰が金を出していたのか知る由もないが、とにかく、ものすごく高い店で、ものすごく高い酒をみんな浴びるように飲んでいた。


善治郎は銀座での飲み会が終わった後で、出演者やスタッフを自分のマンション(みんな「ゼンさんの豪邸」と呼んでいた)に泊めてやったりしていた。その中に黒木ユリアもいた。


いつの間にか、スタッフ、出演者の間で善治郎と黒木ユリアは付き合っているのではないか、という噂がたった。


「この番組をやってる頃よね、週刊誌に私とゼンジローさんがデートしてる、って報道されたのは」黒木ユリアが屈託なく言う。


観客席から、ヒュー、と冷やかすような歓声が上がった。


善治郎は首を傾げて、笑いとも困惑ともつかない表情を浮かべて彼女を見た。黒木ユリアも善治郎を見返した。彼女からは、もうこの際ぶちまけちゃいましょうよ、という強い意志が感じられる。


しかし、真実は少し違うし、ぶちまけるにはちょっと躊躇してしまうようなヤバい裏もあったのだ。


「う〜ん、それはちょっと俺の記憶と違うなあ」善治郎はそう言って、首を傾げながら人差し指をピンと上げ、目の前で振り子のように左右に振ってみせた。


黒木ユリアがにこにこ顔で首を傾げた。その顔は、その真実とやらを是非聞いてみたいわね、と言っているようだった。


「その記事が出る少し前に、あの番組のスポンサー企業のお偉方に、女子大生出演者の一部が枕営業をしていたっていうのをすっぱ抜く記事が出てたんだよ」


観客席にどよめきが起きる。


2人のアナウンサーの表情が強張るのが善治郎には分かった。同時に野田とその周囲のスタッフにも緊張が走ったのを善治郎は見逃さなかった。


黒木ユリアは大きな笑顔を浮かべて、善治郎を見た。よくできました、と出来のいい生徒を褒めるような笑顔だ。


善治郎はこの笑顔で確信した。黒木ユリアはこの時に受けた不名誉を晴らしたいと思っているのだ。だからテレビ出演を承諾したのだ。


野田に利用されるふりをして、この場に爆弾を持ち込むつもりだ。


頭がよくて大胆な彼女の考えそうなことだ。


ひどい目にあった、という意味では善治郎も彼女と同じかそれ以上に理不尽な思いをしたのだ。それに野田にひと泡吹かせてやりたいと思う気持ちもある。ここは彼女と共同戦線を張ろう。善治郎は心に決めた。


そう決めると、なんだか急に楽しくなってきた。


「あのスポンサー企業はどこだったっけ? 証券会社か何かだったよな?」善治郎がスタジオ全体に向かって疑問を投げかけるように声を上げた。


スタジオ全体がざわついた。


黒木ユリアは善次郎に満足の笑みを向けた。


「ちょ、ちょっとカメラ止めまーす」野田が慌てた声で言って駆け寄って来る。数人のスタッフが続く。その後ろからひょろっと背の高い大石と丸々と太った山下が続いた。


スタジオのざわめきがさらに大きくなる。


「善次郎さん、スポンサー企業をネタにするのはルール違反です」野田が善次郎の前で、抑えた声で言う。


「お前こそルール違反だぞ。タレントが喋っている時に勝手にカメラを止めるなんて、何様のつもりだ?」善治郎はわざと声を張り上げ、観客席に向かって訴える。


観客席が静かになった。どんなトラブルが起きたのか気がついたようだ。


「いや、それは謝ります。でもですね、スポンサー企業を批判するのは見過ごせません。スポンサー企業あってのテレビなんですよ」


「お前らの『新人教育資料第1章テレビ業界とは』なんて聞きたくもないね。言っておくけど、俺はひと言も批判していないぞ。ただ名前を上げただけだ。今の所はな!」


「この後、批判するつもりだったんでしょう? だから止めたんです。ねえ、大石編成局長、僕らの立場としてはスポンサー批判は許しちゃいけないんですよねえ?」野田は後ろで腕組みをしている大石にすがるように聞いた。虎の威を借る狐、のつもりか? もっとも、当てにしているその男は猫にすら負けるだろうけどな。


「うーん、スポンサーって言ってもさ、もう倒産しちゃった企業だし、そこは微妙だなあ」大石が煮え切らない声を出す。


善治郎は久しぶりに大石の声を聞いたが、煮え切らないものの言い方は昔のままだと思った。こいつはきっとこんな感じでいつも責任を避けて通りながら、出世コースを歩んできたのだろう。


大石の言った通り、問題のスポンサー企業はバブル崩壊時の経営の失敗でとっくに倒産してしまっているのは事実だ。


「ゼンジローさんの好きなように喋ってもらえばいいじゃないか。放送するかしないかは後で判断すればいい。収録なんだからさ」大石がゼンジローのほうをちらちら気にしながら言うと、野田はしぶしぶうなずいた。


「報道番組じゃないんだし、どこをどんなふうに編集するかは、契約上、こっちの思い通り、だったよね、山下さん?」大石が山下に釘を刺すように言う。


「昔からずっとそうだよ」山下が目を伏せてうなずく。下請け企業の社長らしく、全てはお上の仰る通りでございます、か。楽でいいな、お前は。ツケは全部、俺らタレントに払わせればいいんだから。


確かに大石の言った通りだ。喋ったことがそのまま放送されるわけじゃない。時にはこっちの意思とは正反対に編集されて放送されることさえある。それに文句を言えないのが下請けの辛さだ。慣れっこだけどね、俺は。


善次郎に出来ることはただ、ここにいる観客たちに伝わることだけを祈って喋ることだけだ。


それはそれでかまわない。黒木ユリアのほうを見ると、彼女は全てを理解し、了解した、と言いたそうな微笑みを返してきた。


「じゃあ、そういうことで収録を続けます」野田が不満げに唇を曲げ、アナウンサーふたりに合図した。


スタッフ全員がぞろぞろと持ち場に戻る。


八代かなえが一枚の紙を持って柳井アナに渡した。その立ち居振る舞い、背筋の伸びた姿、ほとばしる生命の輝きみたいなものを目にして、善治郎はまたしても、目が覚めるような思いをした。俺もまっすぐに、とあらためて自分に言い聞かせた。


その紙に柳井アナが素早く目を通す。

「いまゼンジローさんがおっしゃったように、ゼンジローさんと黒木ユリアさんの記事が出る少し前、番組のスポンサー企業の社員に対し、出演者の一部が、社会的な常識を欠いた営業行為を行っていた、とされる報道があったのは事実でございますし、当該出演者が事実を認め降板したということもございました。ただこの企業は既に廃業しており、帝都テレビはその後一切関わりがございませんことをここで申し上げておきます」柳井アナが、急遽用意された原稿を報道アナウンサーのように読み上げ、川島アナとともに深々と頭を下げた。


観客席から、なんだよこれ、謝罪会見みたい、と言う声が漏れてきた。


どうせこの場面もカットなんだろう。それにしても、柳井も立派な会社人間なんだな、と善治郎は思った。バラエティー番組をやっている限りでは、この男のこういう面はまったく見えなかったけど。


こんな大人になっちゃダメだぞ、と言いそうになって、善治郎は慌てて口を閉じた。世の中のほとんどはそういう大人なのだ。それを口にすれば猛反発を食らうことは間違いない。


それでも「こんな大人になっちゃダメだ」という自分の意見の方が正しいという自信が善治郎にはある。


正しいと思うことを口に出来ないのは、戦時中の国とかではありそうだけど。ここは21世紀の平和な先進国なんだぜ?


いや、この国の偉いじいさんたちは今でも戦争をやっているつもりなんじゃないの? そう考えるといろんなことがピタッピタッと腑に落ちるんだけど。


やめておこう。そんなことを口にしたら、あっという間にクビが飛ぶ。


俺の声がオンエアされるのは、当たり障りのない、面白いことを言っている限りにおいてだ。国とかテレビ局相手にケンカを売るような真似をすれば、あっという間に抹殺されるのは間違いない。


すぐにでも死にたい俺には、それも悪くないいだろう。だが、今は黒木ユリアの名誉の回復が先だ。


「だよね。あったよね、そういうことが。これを覚えている人は、間違いなく35歳以上だ。歳バレちゃうね」善治郎が言うと、会場から笑いが漏れた。2人のアナウンサーも硬い表情を解き、笑いを漏らす。


「まず最初にそういうことがあったわけだ。それから、数人の女子大生出演者が事実を認めて降板ということになった。そこまでは理解した?」


善治郎が歴史の講師のように観客席に呼びかけると、は〜い、という授業中の生徒のような返事が返ってきた。


「いい返事だ。先生はうれしいぜ」


このやり取りががヒントになった。善治郎は舞台袖にいたスタッフに声をかけた。

「ねえホワイトボードあったら持ってきてくれる?」


ホワイトボードはあった。すぐに善治郎が座っている椅子の横に設置される。


善治郎はマジックペンを取り、ホワイトボードのいちばん上に、事件の構図、と大きくタイトルを書き記した。


観客席からくすくす笑いが漏れてくる。善治郎は次に、ゼンジローのなんでもナイト、という当時の番組名(酷い番組名だ)を中央に書き、丸で囲んだ。番組名の少し上に、帝都テレビを配置した。その斜め上に、あるスポンサー企業、と書く。さらに、帝都テレビの下に、モデル事務所Aと書き、矢印を帝都テレビに伸ばす。モデル事務所Aから矢印をもう一本、あるスポンサー企業まで伸ばし、矢印の横に枕営業と書いた。さらにスポンサー企業から帝都テレビに矢印を伸ばし、その横に、影響力、と書いた。さらに帝都テレビから番組名に矢印を伸ばし、その横に、タレント選び、と書いた。


黒木ユリアがにっこり笑うのが善治郎の目に入った。善治郎も微笑み返す。


「これがこの事件の全貌だよ。ここまで書けば、いくらぼ〜っとした君たちでも分かるだろう?」


さらに、下の方の余白にモデル事務所Bを書き、そこにユリア、と書いた人を示す絵を書いた。その横に山下芸能事務所を書き、そこにゼンジローと書き人の絵を書いた。ゼンジローとユリアの絵の間にはハートマークを書いた。書いたあと、照れたように頭を掻いて見せると、観客席から歓声とともに拍手が起きた。


黒木ユリアの方を見る。彼女も善治郎を真っ直ぐ見返した。彼女の目は潤んでいるように見えた。


「は〜い。みんな、ちゅうも〜く」善治郎がホワイトボードをペンでコツコツやると、観客席の全員がホワイトボードに視線を向けた。


「みんなこの絵を見てどう思う? この2人は事件に関わっているように見える?」善治郎はゼンジローとユリアの絵を指しながら言った。


いいえ〜という声とともに、観客たちが一斉に首を横に振った。


「君たちがカンがいい生徒でよかった。先生嬉しいぞ〜」善治郎が満面の笑顔でそう言うと、観客席から笑い声とともに、大きな拍手が起きた。


「さあ、そこであの週刊誌記事に戻ってみよう」善治郎がマジックペンで大型スクリーンを指した。スタジオじゅうの目が大型スクリーンに映し出された週刊誌記事に注目する。


「当時何度も読んだから、記事の内容はよく覚えてる。それは、黒木ユリアが人気が出たのは、俺に対して枕営業を仕掛けて目をかけてもらったから、という嘘八百の内容だった」善治郎の怒りがスタジオをしんとさせた。


「当たり前だけど、そんな事実はない。俺は彼女のことが好きで、彼女も俺のことを好いてくれて、それで付き合っていただけだ。そこにそんなありもしない噂が立ったんだよ。さあ、それを踏まえてこの図に戻ってみよう」善治郎はホワイトボードをマジックペンでコツコツ叩いた。


「誰かが、なんらかの理由があって、あの週刊誌記事の内容をでっち上げて、出版社に持ち込んだんじゃないか、と俺は思ってる。そうすれば得をする誰かを見つければ一目瞭然なんだけどさ。でも、その誰かが誰なのか、今さら俺は追求しようとは思わないんだよね」


善治郎はそう言いながらも、「誰か」というたびに、ホワイトボード上の「モデル事務所A」と書かれた箇所をマジックペンで何度も叩いた。そのことに気づいた観客から、善治郎がマジックペンでホワイトボードを叩くたびに笑い声が上がった。


「私は決して誰とは言いませんよ!」そう言いながら、善治郎がその箇所をしつこく叩くと、ついに観客席の笑い声は爆笑に変わり、全員が拍手を始めた。


黒木ユリアも笑いながら拍手をしている。


善治郎は拍手と歓声が静まるまで少し間をとった。


「みなさんありがとう」善治郎はそれまでとは違う、穏やかな口調で言った。

スタジオが静かになり、みんな善次郎に注目した。


「これがこのスキャンダルの真相だと俺は思う。でも今話してるこの部分は、おそらく放送されないだろう。みなさんも入場の時に誓約書にサインしたでしょう? ここで見聞きした内容についてはSNSなんかで明かしちゃいけません。じゃあ真実は闇の中のままなのかな? いや、俺は今ここにいるみなさんが知ってくれればそれでいい。そう思っています」善治郎はそう言い、深々と頭を下げた。


観客席から拍手が起きた。


「この件で俺もずいぶん酷い目に遭ったけど、黒木ユリアさんはもっと酷い誤解を受けたままになっている。そのことをみんなに知ってほしいんだ。彼女がどんな人なのかは、今ここにいる彼女を見れば、十分すぎるほど分かるだろう」善治郎が言うと、いっそう大きな拍手が起きた。


「まあ、家族や友達にちょこっと話すのは構わないけどな」善治郎が囁くような声で言うと、また拍手が起きた。


善治郎は黒木ユリアのそばまで歩き、手を差し出した。


「これでよかったかい?」


「ありがとう」黒木ユリアはにっこり笑い、善治郎の手を取った。


野田ディレクターが2人の元に走ってきた。


「もう十分面白い絵は撮れただろ? どうせ放送はしないんだろうけど。ちょっと休憩するわ。次の準備が出来たら呼びにこいよ」


何か言いたそうな野田に、善治郎はマイクを外して手渡した。黒木ユリアのマイクも外して野田に手渡す。


善治郎は黒木ユリアの手を取り、スタジオの出口に向かってゆっくり歩いて行った。

長身のボディガードの2人がその後に続く。


ふと振り返ると、八代かなえがこちらを目で追いながら、静かに拍手しているのが見えた。善治郎はありがとうの意味を込めてうなずいた。


スタジオ全体が、善治郎と黒木ユリアを静かに見送った。


善治郎は黒木ユリアにだけ聞こえるように、「面白かった? 俺はいい線いってたと思うけど」と問いかけた。


「面白かった。やっぱりあなたは最高のお笑い芸人よ」黒木ユリアは微笑みを浮かべ、善治郎の手をしっかり握った。


善治郎は素直に喜ぶことにした。それ以外のことは何も考えないことにした。


そうしないとこれから自分の頭を吹き飛ばすつもりだ、ということを言ってしまいそうだった。

たぶん、昔の恋人に何もかも打ち明けたい、という気持ちが生まれたのだろう。

でも彼女はもう自分のものではない。彼女への気持ちは永遠に眠らせてしまうしかないのだ。


あの時は、番組が打ち切りになり、善治郎は世間から猛烈なバッシングを受け、数ヶ月間の謹慎生活を強いられた。彼女もそうだ。あんなに好きな女だったのに、善治郎は彼女を守りきることが出来なかった。


そうしたつらいことをのりこえるために、彼女は日本を捨て、外国に旅立った。そして、今の彼女があるのだ。それは彼女が成し遂げたことであって、俺はそこにはいなかった。許されることならそこにいて、彼女を助けたかった。いまさらそれを後悔してもしかたがない。


本当のことを言えば、あの時、俺たちをずたずたにしたのは、週刊誌だけじゃない。テレビ局とスポンサー企業とそこに群がるタレント志望と彼らを利用しようとするヒルのような芸能事務所。それに芸能人をおもちゃとしか思っていない一般の視聴者たちだ。さらに「枕営業」などという唾を吐きかけたくなるような言葉が国全体に受容されている、この国の女性蔑視の文化そのものだ。


彼ら全てを糾弾しなければ、黒木ユリアの名誉を回復したとは言えない。いまここにいる観客たちだって、今日は俺の味方になってくれたけど、明日は別の無実の誰かを痛めつける側にいるかもしれないのだ。


だが彼らを責めることは善治郎には出来ない。


なぜなら、彼らは善治郎の観客であって、彼らあってこその善治郎だからだ。憎いけれど、彼らがいなければ生きていけないことを善治郎は知っている。


それがほとほと嫌になったら?


頭を撃ち抜くしかないだろう。


強い視線を感じて振り返ると、野田が唇を曲げて憎々しげにこちらを見ていた。それを見たことで、善次郎の頭には、あの、爽やかな春のような風が通り抜けていった。


ざまあみやがれ!


さらに視線を巡らせて観客席の端に目をやると、小さなピエロが寂しそうに俯いているのが目に入った。


しまった! ぼんた師匠のことをすっかり忘れていた。ピエロの衣装を着た70代半ばの師匠が意気消沈して俯いている姿は実に痛々しい。


善治郎は黒木ユリアの手を取ってスタジオの出口に向かって歩きながら、後でぼんた師匠に謝りに行かなきゃ、と考えていた。


(続く)


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