人生の忘れもの
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野々垣善治郎 - 芸名ゼンジロー(60歳)はいま、帝都テレビの第一スタジオでスタッフと観客に囲まれて、スポットライトを浴びている。
今日は「祝還暦!今宵ゼンジローが全てを明かす! 昭和・平成・令和を駆け抜けた芸人人生のすべて」と題した2時間特番の収録だ。
善治郎の笑みがスタジオの大型スクリーンにアップになる。その笑顔には狂気が潜んでいるのだが、それは後で録画を見た人が気づいたことで、この時点では誰ひとり気づいていない。
善治郎は半年前の誕生日で60歳になった。この機会に今の事務所から独立して、個人事務所を立ち上げることになった。何年も前から事務所の社長山下と話し合い、計画を進めてきたのだ。
ところが、ひと月前になって、山下が急にゴネ始めた。円満退社に向けてひとつ条件をつけたいと言ってきたのだ。
「ゼンちゃん、最後に記念の特番をやろうよ。『ゼンジローの芸人人生を振り返る』って、どうよこれ? ゼンちゃんの芸人人生とともに、懐かしい時代を振り返るわけ。あの頃はよかったよね。ぜったいウケるよこれ。帝都テレビの大石に持ちかけたらさ、乗り気なんだよ。あいつも今や編成局長だからな。ゴールデン枠を用意するからぜひやろうって。退職金がわりにギャラに色つけるからさ。な? やろうぜ?」
「芸人人生を振り返る」だと? まるで俺の芸人人生が終わったみてえじゃねえか。失礼にもほどがある。善治郎はそう思ったが、口には出さず、その時浮かべていた仏頂面をキープした。
でっぷり太った体を高級なスーツで包み、皺くちゃ顔のじじいのくせに、髪を金色に染め、部屋の中でもサングラスをしている。いかにも高級そうな机の上に投げ出した足元の靴はぴかぴかに輝いている。どこからどう見ても普通の会社の社長なんかじゃない。
このおっさん、いったい誰が金持ちにしてやったと思ってんだ? 善治郎は理不尽な思いに駆られる。ボロアパートに電話しかなかった弱小芸能事務所、山下芸能社をここまでにしたのは、善治郎の力だ。
帝都テレビの大石(当時はまだ新人ディレクターだった)と組んで、お笑いブームを作り、引っ張ってきたのはこの俺なんだぞ。その俺に会社をやめるんなら、最後に何か置き土産していけ? おまえは鬼か? 土産を貰うのはこの40年間おまえに尽くしてきたこの俺のほうだろうが。違うか? 善治郎は憤りをおぼえたが、このときに無意識下でも休まず働いていた善治郎の脳は「この場面をどうにか笑える状況にできないか?」と考えていた。お笑い芸人にとってもはや職業病とも言える癖だが、こんな状況でもその癖が出てくるのが善治郎である。
善治郎が捻り出したのはノリツッコミである。自らの救いようのない状況を、わかりやすい何かに例え、自らの窮状を訴えるとともに笑いを誘う。善治郎はこれが好きだし、得意でもある。
「やめる前にヌードをやらされるグラビアアイドルか俺は?」
ふむ、悪くはない。
悪くはないが、グラビアアイドルが事務所に借りを返すためにヌードをやる、という、いかにも日本的な女性蔑視と、芸能界の恥知らずな奴隷文化を知らないと、これは笑えない。しかしこのノリツッコミはおそらく99パーセントの日本人にはウケるだろう。ということはつまり、99パーセントの日本人はそういう文化を体験的に受容している、ということだ。ほんと、クソみたいな国だな。
ともあれ、善治郎はこのノリツッコミに満足し、口角を上げた。
善治郎の頭の中に、まるで春を思わせるような、爽やかな風が吹き抜けた。面白いネタを思いついた時だけ与えられるご褒美のようなものだ。
「退職金はいいよ。もう、じゅうぶん稼がせてもらったからな」善治郎はにこにこした顔で、しかしたっぷりと皮肉をこめて言った。
ところが、その皮肉はまったく通じず、山下は「そうか? ほんとにいらないの?」と、真顔で訊いてきた。
善治郎は、山下のその顔を見て、ほとほとうんざりした。40年間、二人三脚でやってきたこの男が、俺の気持ちを何一つ理解していない。
60歳になってからずっと感じてきた、もう死んじゃおうか? というあの気持ちがまた頭をもたげてきた。
夜になると忍び寄ってくるあの憂鬱さが、最近では昼間でもふとしたきっかけで出てくるようになった。
60歳になって、あらゆることに変化が起きた。長い休みをとって、考えをまとめる余裕があればいいのだが、過密スケジュールの中ではそうもいかない。
今まで自分の体は強いものだと思ってきた。30代からジム通いを始め、50代になっても、まるで30代のようだ、お若いですね、と言われたものだ。
ところが、50代の後半になってから、いくつかの不調が現れた。まず腰をやられた。腰をかばっていたら、膝をやられた。痛い方の膝をかばっていたら、もう一方の膝もやられた。動けないほどではないが、つねに痛みの兆候がある。そのせいで日課だったランニングから遠ざかってしまった。そうこうするうちに少しずつ体重が増えてきた。食事制限をすると憂鬱な気分が増してくる。食べれば太る。無理して走れば痛い。悪循環である。
もともと白髪は少ない方だったが、50代に入って、ある日鏡で自分の顔を見た時、白髪の多さに気づき、そのじじい臭さに耐えられなくなり、美容院で染めてもらうようになった。それに加えて、最近では前頭部の髪が薄くなってきたのに気づいた。
喉元の皺も気になり出した。ひとつ気になりだすと、もう際限なくいろんなことが気になる。
ある時、急に何もかもどうでもよくなり、衝動的に、今死んでしまおうか、と思うようになった。
父親は7年前、母親も5年前に亡くなったし、兄弟もいない、妻も子供もいない。自分の身に何かあった時のことは弁護士に一任してあるが、ひとつだけ気がかりなのは、子猫の頃に拾ってきていつのまにか五年も一緒にいる飼い猫のモモである。家政婦の小西さんがよく懐いているから、もしものことがあったら引き取ってもらえるよう、こんど頼んでおこう。
そんなことを考えていると、ますます気が滅入ってくる。
善治郎は目を瞑り深呼吸をした。なんとかして、この気持ちを追い出してしまいたいが、それは簡単なことじゃない。
「その番組をやれば、円満退社ってことにしてくれるんだな?」この辺で切り上げて、どこか別の場所の空気を吸いに行こう。そう決めた善治郎は、ギブアップするように両手を上げ、言った。
山下がうなずいた。
「じゃあ、やるよ」
「番組やってくれるのか?」
「もちろん」善治郎は引きつるような笑顔を浮かべて立ち上がり、机の向こうで満面の笑顔を浮かべている山下と握手した。
「さっそく大石に連絡しとくよ」
どんな番組をやらされるか分かったもんじゃないが、やるしかない。あまりにもひどかったら、ブチ切れて企画を潰してやればいい。そんなこと過去に何度もやってきた。なにしろ俺はゼンジローなのだから。
企画を潰すくらいなら、番組の収録中に死んでやるってのはどうだろうか? 善治郎はこのアイディアが気に入り、思わず笑みを浮かべた。
山下が何か勘違いしたらしく、善治郎をドアまで送りながら、なんどもうなずく。
こいつを殺した後に俺も死ぬってどうかな?
善治郎はますます楽しくなり、声を出して笑った。
スタジオでは、善治郎の隣で、若手の野田というディレクターが、台本を片手に収録の段取りを説明している。善治郎は神妙な顔を作ってうなずきながら、実は何も聞いていない。
そんなことよりも、善治郎のスーツにマイクを装着してくれているアシスタントの女性が善治郎は気になっている。何度か見かけた顔だが、黒縁メガネに、ポニーテール。背が高く、スタイルが良く、頭がよさそうで、真面目そうなところがいい。善治郎の周りの芸能人には絶対にいないタイプだ。善治郎は彼女の胸や腰のラインをちらちら盗み見ている。死ぬ直前にもいい女には目がない。それが善治郎だ。
いい女を見たことで善治郎の気分は上向きになった。世の中にはそこにいるだけで人に活力を与えられる人もいるのだな。この時の善治郎は妙に感じ入った。
マイクの装着を終え、アシスタントの女性が離れていく。
野田が咳払いし、それではよろしくお願いします、と大きな声を出した。
野田の「5、4、3、2、1」というカウントダウンから番組が始まる。ファンファーレが鳴り、カメラが司会のアナウンサーコンビに寄っていく。
男の方は柳井という30代半ばの中堅だ。女の方は河島という、これも30を少し過ぎた辺りの中堅だ。
善治郎は2人とも新人の頃から知っている。というか、ことバラエティに関しては善治郎がこの2人を育ててきた、と言っても過言ではない。そのあたりのことを汲んでの人選だなのだろう。善治郎はまた少し気分が良くなった。
「祝還暦!今宵ゼンジローが全てを明かす!芸人人生の全て。2時間スペシャル~」2人のアナが語尾を伸ばして番組名をコールする。
と、上から大量の花吹雪が降ってきた。あまりにも大量すぎて、善治郎の口に入ってしまい、善治郎はえずきながら吐き出す。
ここで観客からどっと笑い声が上がる。
「ゼンジローさん! 還暦おめでとうございます!」柳井アナが言うと「えっ?ゼンジローさん、そんなお歳だったんですかあ?」とすかさず河島アナがボケてくる。
「そう言ってる河島ちゃんだってすぐに還暦過ぎのババアになるんだよ〜」善治郎が語尾を伸ばし、舌を出した顔がアップになると、観客席から爆笑が起きる。
悪くない出だしだ。
「ゼンジローさんといえば、日本のお笑いの歴史と言ってもいいくらいの方ですからね。今日はその華々しい歴史を懐かしいVTRを観ながら振り返っていこうと、そういう番組なんです」と柳井アナが言うと、絶妙のタイミングで善治郎が「安上がりな企画!」とツッコミを入れる。
観客席からどっと笑いが起きる。
「そうだよな、野田?」善治郎は勢いに乗ってディレクターめがけてツッコミを入れる。野田の慌てる顔が見たくなったのだ。それに、こういう時に案外、喋りのうまさを発揮する素人もいるものだ。生放送ではリスクがあるが、今回は収録だから、失敗してもカットされるだけのことだ。
カメラが野田を捉えると、フロアに座っていた野田は、生真面目に「そんなことないです、けっこうお金かかってます」手を顔の前で振りながら言った。
観客席の笑い声がしぼんでいく。
野田は「面白い素人」ではなかった。これはこれで仕方がない。
「真面目か?」善治郎が投げやりに放った次のひと言で、観客席にはふたたび笑いが戻ってきた。自ら招いた窮地を自らの機転で逃れる。この一連の流れが善治郎をさらにいい気分にさせた。
「それでは、最初のVTRはこちらです」河島アナの言葉で、スタジオの大型スクリーンに1980年代、昭和の時代の新宿の様子が映し出される。
観客席から、懐かしいね、という声が漏れてくる。
続いて、肩パッドの入ったスーツを着て、後ろ髪の長いゼンジローが登場した。
観客席から、若い、とか、ウルフカットっていうんだぜ、あの髪型、とかいう声とともに忍び笑いが漏れてくる。
せっかくのいい気分がまた萎えてきた。人を笑わせるのが芸人の仕事だが、こんなふうに笑われるのは本意ではない。あの髪型だって当時の流行だったわけで、40年後に笑われることになるなんて、誰も知らなかったのだ。
VTRは善治郎が帝都テレビ主催のお笑い新人コンクールでグランプリを受賞した時のものだ。
当時は「圧倒的に面白い新人が出てきた」などともてはやされたものだが、今となってはいかんせん古い。もう笑えない。お笑いというのはその時代の中でしか生きられない。古いお笑いは時代とともに消え去るべきものなのだ。善治郎は照れ隠しに笑いながらも、不愉快になってきた。何で昔の録画なんか引っ張り出してくるんだよ?
さらに善治郎の頭に冷水をぶっかけるような、柳井アナの言葉が響いた。
「ひとり漫談でデビューしたと思われているゼンジローさんですが、実は最初はコンビで漫才をやってらしたんですよねえ」
観客席から、へえーという声が聞こえてきた。
ちょ、ちょっと待て! 口から出そうになって、善治郎は思わず口を抑えた。それって公式プロフィールに載せていない。俺の黒歴史、言っちゃダメなやつじゃないか。
「そうなんですよねえ。実は当時の相方を今日はスタジオにお招きしています」河島アナが淡々と続ける。
観客席からどよめきが起きる。
おまえらみんなグルか? 俺をバカにしてんのか? バカにして俺を笑いものにしたいのか? いいか、笑わせるのが俺の仕事であって、笑いものになるのはそれとはまったく別物なんだよ。なんでおまえらにはその違いが分からないんだ? そういうのはいじめっていうんだぜ? いじめられた人間がどう反撃するか見せてやろうか? 今すぐ、ここでお前たちが馬鹿にした人間が血を流して死ぬところを見せてやろうか? その前に、このクソな国のいじめ文化については、ひとこと言わせてもらうけどな!
どうやって死ぬかは、この数ヶ月、ずっと考えてきた。知り合いの俳優に紹介してもらった「なんでも屋」と呼ばれる男に銃の調達を頼んだ。「なるべく小さくて、いつも身につけていられる物を」と注文をつけた。取り引き場所は新宿西口の高級ホテルの一室だった。
東京を一望できる部屋に、その男は仕立てのいいスーツを着て、頑丈そうなアタッシュケースを携えてやってきた。男は善治郎の顔を見て誰だかすぐに分かったようだが、そのことには最後まで触れなかった。男はベッドの上に「商品」を並べ、ひとつひとつ説明した。善治郎は一番軽い、と説明された最新の素材で出来ているという拳銃を買うことにした。男はひと通り銃の扱い方を教えてくれた。「タクシードライバー」という映画の一シーンそっくりだと思って善治郎がそう言うと、男は喜んで「あの映画、私は100回見ましたよ」と笑いながら言った。実務的かつ話がうまく、いかにも有能そうなこの男に、善治郎は好感を持った。ケースをサービスにつけると言われて、皮のものか軽量の強化ビニール製のものか選ぶように言われた。善治郎は強化ビニール製を選んだ。実用的なチョイスだ。銃弾はサービスですと言われて、200発入りの箱を差し出されたが、善治郎はその中から、その銃に装填できる6発だけ手に取り、ポケットに入れた。「殺したい奴はそんなにはいないからね」と善治郎が言うと、男は楽しそうに笑ったが、特にコメントはしなかった。善治郎は2つの分厚い紙袋に入れてきた現金を男に手渡した。男は紙袋の中身をあらため、うなずき、部屋を出ていった。取引は30分もかからずに終わった。
その銃は今ケースに入れてスーツのポケットに入れてある。非常に小さくて軽く、手帳を入れているような感覚しかない。あとはただ、ケースから取り出し、安全装置を外し、口に咥えて引き金を引くだけだ。それをやる気持ちの準備は出来ている。だが今ではない。もうちょっと先だ。
善治郎はスタジオ内のどこかにいるはずの、山下の姿を探してキョロキョロ見回した。
今はまずカメラを止めさせよう。この騒ぎをオンエアされたらタレントとしての価値にキズがつく。今まで築き上げてきたものが台無しだ。死ぬ前にキズをつけられてたまるか。
「おい野田~、の・だ・あ~、止めろ、止めろ。なんだこれは? 俺は聞いてねえぞ!」
善治郎はマイクを外しながら野田に迫った。
すかさずアシスタントの女の子がマイクを受け取りに走ってくる。マイクを渡す時に善治郎は優しく「ごめんね」と声をかける。女の子は目を伏せ、うやうやしくマイクを受け取った。
その瞬間、善治郎は、彼女が首から下げたIDをすばやく読み取った。八代かなえ。可愛い名前じゃないか。IDカードは社員ではない、派遣業者に割り当てられたものだった。彼女が帝都テレビの社員ではない、自分と同じ出入り行者であることに、善治郎は好感を抱いた。
善治郎がマイクを外したことで、観客席から困惑した声が上がる。不安そうにアナウンサー2人も寄ってくる。そのうちにその他のスタッフやら、スタジオにいたスポンサーのお偉いさんやらが善治郎と野田の周りにぞろぞろ集まってきた。
善治郎は人ごみの中にひょろっと背の高い大石を見つけ、詰め寄ろうとする。大石は品のいいスーツに身を包み、帝都テレビの社員証を首からぶら下げ、にやにやしている。身分を保障された、安全な場所にいるサラリーマン。対する自分は体だけが資本の出入り業者。この構図に善治郎はいつも腹立たしい思いをしてきた。いま、善治郎の怒りの温度は沸点を目指して駆け上がりつつある。
大石の隣にはでっぷり太った山下がいる。その隣のピエロみたいな衣装を着た小さな老人が目に入り、善治郎の足がぴたりと止まった。善治郎の顔に恐怖の色が浮かぶ。
「ぼんた師匠!」善治郎は大声を上げ、身を折るように深々とお辞儀した。
善治郎がデビュー時から目をかけてもらい、芸能界でただひとり師匠として慕い、そしてまた怖れる人、それがぼんた師匠である。師匠は70代半ばを過ぎている。ピエロの衣装が痛々しい。
「師匠、なぜここに? 今日はいったいどうなさったんです?」善治郎はさっきまでの大石に対する怒りなどどこかに消し飛んでしまったのを感じながら、おそるおそるぼんた師匠に訊いた。
「これだよ、これ」ぼんた師匠は恥ずかしそうに「ドッキリ」と書かれたプラカードを掲げてみせる。
「ドッキリの人」として、80年代に人気が爆発したぼんた師匠にとって、このキャラはなによりも大事なキャラなのだ。
「師匠、こ、これは」善治郎は絶句してしまった。
「ゼンちゃんが怒っちゃったからさあ、俺の登場シーンが台無しになっちゃったよ」ぼんた師匠が悲しげな声で言う。そう言いながらも、プラカードを往年のポーズとともに掲げ「音声さん、お願い」と言うと、懐かしい、テッテレーというファンファーレが響いた。このファンファーレがこれほど悲しげに響くのを聞いたのははじめてだった。
観客席から失笑が漏れる。
「すっすみません、師匠。このゼンジロー一生の不覚です。お許しください!」善治郎はぼんた師匠の登場シーンを台無しにしてしまったことを心から申し訳なく思った。恩を仇で返してしまった自分が腹立たしかった。
「ゼンちゃんは時々ぶち切れて、訳がわからなくなることがあるよな? そういうところは直した方がいいよ、って俺昔言ったよな?」
ぼんた師匠が優しい声音で言う。
「申し訳ありません。俺、思い上がってました。もう二度としません、誓います」善治郎は床にひたいを擦りつけながら、必死で謝った。
ぼんた師匠は善治郎の横に膝をつき、肩に手をかけ、善治郎だけに聞こえるように、そっと耳元で囁いた。「ゼンちゃん、ドッキリネタは実は4つある。どれもスタッフが時間をかけてじっくり練り上げたものだが、ゼンちゃんにとっては笑えないものもあるかもしれん。でもここは、俺のためにもやり通してくれんか?4回連続でコレやったらぜったい面白いから」ぼんた師匠はそう言ってプラカードを振ってみせた。
「はい、師匠。おっしゃる通りです。4回も続けてドッキリにひっかかれば面白くないわけがありません」善治郎はそう言い、涙で濡れた顔で笑ってみせた。
「みなさん、どうでしょう、ゼンちゃんも謝っていることですし、収録を続けませんか?」ぼんた師匠が言うと、スタジオ全体が拍手に包まれた。
善治郎は立ち上がり、スターらしくスタジオ全体に向けて手を振ったが、あの死にたくなるような重ったるい気持ちは、土砂降りの前の黒い雲のように近づいていた。
八代かなえがやってきて、善治郎のスーツに再びマイクを装着した。ふと、彼女が同情的な目で自分を見たように善治郎には思えた。それだけで善治郎は、俺がんばろう、死ぬのはもうちょっと先にしよう、と気を持ち直すのだった。
ざわめきとともに人々が散っていく。
野田がふたたびカウントダウンし、収録の再開を告げた。
河島アナが何事もなかったような顔で続ける。「さあ、お招きしましょう。デビュー直前にコンビ別れした元相方の坂田さんです」
ファンファーレが鳴り、善治郎は40年ぶりに、見たくもない元相方の顔を見ることになった。
その時ふと、スタジオの隅で、山下と大石が顔を見合わせて笑っている姿が目に入った。
なるほど、てめえらがグルになって仕掛けたことか。ぼんた師匠まで巻き込みきやがって。ぼんた師匠もぼんた師匠だ。ギャラに釣られてのこのこ出てきやがって。
そっちがその気ならやってやろうじゃねえか。ここはひとまず付き合うふりをして、いちばんいいところでぶち壊してやる。
俺はゼンジローだぞ。舐めるんじゃねえ!
(続く)