夫から逃げましょう
イルディズさんはその夜も遅く帰宅して、わたしは自室で寝たふりをして彼に会わないようにしました。
朝もとても平気な顔をしてられる気がしないので、朝ごはんと『遠くの山に狩りに行きます』と書置きをして夜明け前に家を出ます。
とはいえ、まだ肉は十分に家にあるので、手持無沙汰に町をブラブラするしかありません。
狩り以外の趣味のない面白みに欠ける女です。
トボトボと当てもなく歩いていると、パンの焼けるいい匂いが鼻孔をくすぐりました。
匂いを頼りに歩いて行くと、公園の傍の小さなパン屋さんに行き着きます。
通りにはまだ歩いている人すらいない彼は誰時。
店の窓からは煌々と灯された明かりの中で忙しく働く二人の人影が見えます。
なんとなくその姿をボーっと眺めていると、一人がこちらに気付いて出てきました。
兎狩りのおじ様でした。
「どうしたんだい? まだ開店前なんだけど」
「いえ――近くを通りかかって、いい匂いがしたんでちょっと誘われてしまっただけで――。また、お店が空いてるときに――」
邪魔をしてはいけない、と立ち去ろうとすると、
「ちょっと待って!…………今暇?」
「え?」
「暇だったら、手伝って行ってくれない?」
おじ様がニカッと笑いました。
パン屋はおじ様と奥様の二人で切り盛りしているそうで、二人の絶妙な連携プレーで次々と焼き上がるパンが素早くお店に並んでいきます。わたしも言われるがままにトレイを運んだり、洗い物をしたりと細々としたお手伝いをさせてもらいます。
パンの香ばしいにおいに包まれて忙しく体を動かしていると、色々な心配をしている暇がありません。
日が昇り、店には朝のパンを買い求めるお客さんが並んで、わたしも無理やりにでも笑顔をつくり声を出します。
その波が一度途切れて人心地つくと、
「少しは気がまぎれたかい?」
おじ様が声をかけてきてくれました。
「……ええ。心配してくださったんですね」
さりげない大人の優しさです。
「そりゃまだ暗いのにあんなところでしょんぼり突っ立っていられたらね。……何かあった?」
「……少し、家にいたくなくて」
優しい問いかけにあいまいに答えます。
気持ちのよい朝に、よもやダンナが男と浮気しましたとは言えません。ましてやあちらが本命なんですとも言えません。
「そう。まあ、色々あるよね。でも、こちらも君に手伝ってもらえて助かったんだよ。なにせ娘が嫁いでから人手不足で――」
その時――
突然、店の前が眩しく光りました。
おじ様と二人で驚いて動けないでいると、
陽の光の中でさえなお明るい銀色の光の柱が上がり、
光の中には――
「!」
黒衣の魔術師。
「あ……」
わたしはすぐに背を向けて、店の裏口から逃げ出します。
全力ダッシュです。
会いたくないんです。
会いたくないんです。
今彼と会えば何を言ってしまうかわからなくて。自分がどんなことになってしまうか、嫌な予感しかしなくて。
怖い。
怖くて、怖くて。
走って、走って、走って、
「シーラ!」
後ろから風を纏ったイルディズさんが追ってきて。
あっという間に、手を掴まれて。
そのまま後ろから、腕の中に閉じ込められてしまいました。
彼の温もりが背中からじんわりと伝わってきます。
それが、すごく哀しい。
――この温もりは、わたしのものじゃないのだから。
「離してください……!」
「離さない。どうして逃げるんだ」
強く、強く抱きしめられて。
「痛い……」
「痛くない」
全然緩めてくれなくて。
「山に行ってたんじゃないのか? どうしてパン屋に?」
「ひ……人助けを……」
嘘じゃない。本当の事です。
「私よりも大事なのか?」
耳元に寄せられた口から吐息がかかります。
「……っ……何言って……」
「私と朝食をとることよりも、大事なことなのか?」
「!」
腕を外そうともがいて、全然外れなくて、彼の足を後ろ手にバンバン叩きます。
「離してください!」
「答えてくれ」
イルディズさんの泣きそうな声。
「離し……て………………っ…………」
ついに涙がこぼれだしてしまって。
「シーラ……」
涙をぬぐうように目元にキスが落とされます。
それはすごく優しくて――哀しくて。
ドンっと彼を突き放しました。
「やめて……下さい……。そんなことされたら、勘違いしちゃう……」
もう、顔はぐちゃぐちゃで。
「勘違い?」
「わたし、知ってるんです。あなたに恋人がいることを……」
「……は……? 何だって?」
眉をひそめる彼に、カッと顔に血が上って、激情が勝手に口から飛び出していきます。
「とぼけないでください! いいんです!
わたし、見たんです! 昨日、あなたがキラキラした男の人と抱き合っているのを! それにキ……キスまで…… あの方が、あなたの恋人なんですよね? だから、ずっと結婚していなかったんですよね!? 好きな方が男の方だったから!」
イルディズさんが信じられないものを見るような目でわたしを見ます。
ああ、やっぱり……と思っていると、もう一度グイっと手首を掴まれて、抱きしめられました。
「離して!」
「クッ……クク……」
なぜかイルディズさんが笑い出しました。抑えきれないといったように。
「何がおかしいんですかっ!」
「君は勘違いをしている」
愉快でたまらないといった声音に、かあっと顔が熱くなります。
「わかってます! だから……!」
「キラキラした男――それは、私の師匠――私の、養母だ」
…………………………
時が、止まりました。
…………………………
…………………………?
わたしは大宇宙へと旅立ってしまった意識をなんとか頭に戻します。
は……母……?
「いえ、でも男の方……?」
長身のキラキラと輝く見目麗しいあの方の姿を思い返します。まるで王子様。
「いや、あれでも女だ」
「いえ、でもだいぶお若い」
どんな汚れも弾いてしまいそうな輝くお肌。
「美魔女なんだ」
「えええ……?」
理解が追いつきません。
「あれで、君より20歳年上だ」
「ろ……60……」
20代に見える60歳……。
「嘘でしょう……?」
そんな人がいるはずが……。
「いや、真実だ」
大真面目なイルディズさん。
大混乱のわたし。
「でっ、でもっ! お母様ならっ! わたしに紹介してくれたっていいじゃないですか……。結婚式にすら来てませんよ? それに、あなた孤児だって……」
「いや、師匠は私が7才の時に孤児院から引き取ってくれた養母で……。それに……君には会わせる顔がないと言って会ってくれないんだ。昨日はそれを説得していて――」
イルディズさんがため息を一つ。
「会わせるお顔?」
あんな美麗な顔で会えないんであれば、わたしこそ誰にも会えないじゃないですか。なんですか、顔がイケてる種族にはそんなにも厳しい戒律があるんですか?
意味が分からない。
わたしがはてなマークだらけでいると、やっとイルディズさんは体を離してくれました。
そして、イルディズさんは難しい顔をして、わたしにこう告げました。
「師匠は君の捜索を打ち切った人間だから――」