花の中で眠れ
翌日、更に山深くへと二人で歩いて行った。
薄暗い杉森の土の道を行く。奥へ進むにつれて道は草で覆われていき、道は道ではなくなり、ついに高い下草とそれまでとは明らかに異なる低い陽樹の明るい森へと変わった。
百年を超えてなお生きるものと、41年しか生きていないものの違い。
鬱蒼と茂る草をかざした杖の魔法で倒して道を作り、彼女の手を取り先導していく。
「足元に気を付けて」
「はい」
頷く彼女に背を向けて、足を動かす。
……今すぐ引き返したい。
気持ちはすでに負けていて、額に汗がにじむ。それでも、繋いだ手に心を支えられて、ゆるやかな上り坂を進む。
時折見つける敷石の欠片と古い地図を頼りに道を定める。頼りないが、他に目印など何も残っていないのだから信じて進む。
――これから行くのは、私の生まれた村だ。……村があった場所だ。
村が燃えてしまってから、一度もここには来たことがなかった。
来ようと思えばいつだって来ることができただろう。
それでも、足が向かうことは一度もなかった。
来るべきと思いつつ、私のやるべきことは異世界に飛ばされた幼子の捜索だと自分を定めて、ずっと逃げ続けていた。
なのに、夢にまで見るほどに忘れることもできなくて。
こうやって、逃げる理由がなくなってしまって、逃げ道を塞がれて、支えられて、ようやくこうして進んでいる。
一人でなんて、来る勇気すら持てなかった。
村についたら――
なんと言えばいいのか。
チリチリとした焦燥感が胸を焼く。
なんと、ぼくは謝ればいいのか。
――ごめん。
そうだ、まずは素直な謝罪の言葉を……。
ごめんなさい。
ぼくばかりが、生きていて。
そう、ずっと、謝りたかった。
守れなかったのに。
ただ、見てるばかりで。
何もできなくて。
ずっと、無力さに打ちのめされていた。
あの時、足が動いていたら。
すぐに、弟だけでも抱いて逃げたら。
もっと前に炎に気付いていたら。
魔法を、使えるようになっていたら。
ずっと、自分を悔いていた。
今なら、守れるのに。
今なら、全部、守るのに。
今さら過去は変えられないのに。
みんなを、焼け跡に置き去りにして、一人で、こうして生き延びていて、
――ごめんなさい。
懺悔と後悔と、そんな何の役にも立たないものだけしか出てこなくて、
本当に行く意味があるのかとか、悪夢が終わるなんて保証はないとか、
足がすくみそうになる。
それでも、きっと変わることがあるかもしれないと、彼女の手を握ると、そう思えて、進む。
でも怖くて。
あの赤い空と黒い大地に、ぼく以外誰も生きていないあの場所に、もう立ちたくないと。唇を噛んで。
怖いけど、進んでいきたいとも思って。
彼女は何も聞かずについてきてくれる。
普段はうるさいくらいに賑やかなのに、どうしてこんな時だけ静かに寄り添ってくれるのだろう。
振り返ると、微笑んで小首を傾げる。
「もうすぐだから」
そう告げると、こくりと小さく頷く。
――そろそろだ。
陰鬱な気分で歩を進める。
大丈夫。全部謝って、きちんと弔いを。
あの地獄の続きに立って――
新緑の森を抜けると、緑のツタに覆われた人の背ほどの崩れた石垣が姿を現した。
いよいよだ。ゾワッと肌が粟立って、逃げ出したい気持ちを飲みこんで、進む。
わずかに甘い香りが鼻をくすぐり、石垣のその先には――
一面の、白い花畑が広がっていた。
日の光を白色が眩しく反射して、目も眩むほどの明るくてのどかで平和な光景。
黄色い蝶が飛び交い、小鳥がさえずる。開けた空は青く、白い雲がゆったりと流れていく。
その光景に、虚を突かれて立ち止まった。
瞬きを、数回。
――覚悟していた、赤い空と黒く焦げた大地はどこにもなかった。
ただ、馬鹿みたいに呆けて。
どうすれば、いいのか、分からなくて。
「わあ! 綺麗なところですね!」
無邪気なシーラの声に、我に返る。
――そうだった。
「…………っ…………」
ああ、そうだったんだ。
「…………ううっ……………………っ…………」
……綺麗なところだったんだよ。
涙が滲んで、歪んだ視界のその先に懐かしい思い出の幻影が重なった。
甘い香りに導かれるように、おぼろげに温かい記憶がよみがえってくる。
父がいて、母がいて、弟がいた、そんな、遠い遠い記憶。
晴れた夏の昼下がり、友だちと遊ぼうって約束をしてて、家をこっそり抜け出そうとしたのに、弟――セイがいつもついてきた。
面倒くさいなあって思ったけど、ダメって言うとアイツすぐ泣くから一緒に遊んでやって、なのに結局途中で泣き出して母さんのところに連れて行かなきゃいけなくなって。
母さんに「あらあら」って抱っこされるセイを見てたら、うらやましかったけれど「ぼくも」なんて言えなくて、そっと家を出たら父さんが帰ってきて、ニカッと笑ったらあっという間に大きな体で肩車をしてくれて。
家に入ったら今度はセイがそっちがいいと駄々をこねて、結局ケンカになって……。
ごはんのハンバーグを分けてあげたらコロッと機嫌が直って。
寝るときはぼくの隣でしか寝たくないとまた駄々をこねて。
そのくせ最後には母さんの横に行ってしまって。
そんなセイを父さんが横で笑って。
ぼくも仕方ないなあって笑って……。
「……ううっ………う………っ…………」
そんな日々が、あったんだ。
「……ふ……ううううっ……………うう………っ…………」
確かに、ここにあったんだ。
どうして今まで忘れていたんだろう。
忌まわしい記憶に囚われて、そんなのは本当に最後だけで、そんなことより大切な記憶は心の奥にずっとあったはずなのに。
涙がとめどなく溢れる。
「…………っ……………うう………っ…………」
繋がれた手が力強く握られる。
ああ、そうか……。
ずっと、あの夢を見続けてきたのは、私が思い出したかったからなのか……。
辛い記憶に覆われた幸せだった日々を。
忘れたくない、大切な思い出たちを。
それを思い出すのに、41年もかかってしまった。
笑ってしまう。そんなことにも気づかずに、ただの悪夢だと思い込んで。
涙をぬぐって、もう一度目の前の光景を見る。
白い、白い、花畑。
甘い香り。
この花だって、私は知っている。
これは――母さんがよく摘んできた花だ。
――あの、黒いだけの大地からも、また命は始まっていた。
一度は何もかもがなくなったはずなのに。
私がここに来れなかった間にも、同じだけの時は流れていて。
私の家族が眠っている場所は、黒く寂しい焦げ跡ではなくて、天国のように美しい花畑に変わっていた。
隣を見ると、シーラが私を心配げに見つめていた。
「……大丈夫。大丈夫だよ……」
優しく手を握り返すと、柔らかく微笑んでくれて、私も笑み返す。
今、こうして来れたのは彼女のおかげで。
手を繋いでくれて、やっと向かってくる勇気を持てた。
つないだ手の柔らかさ、温かさを頼りに。
私を支えてくれる妻は、こんなに小さいのに、こんなにも頼もしい。
「――君と……来れて良かった」
微笑み合うと、また涙がこぼれた。
しばらく、二人で手を繋いで花を眺めていた。
甘い花の香りの中で、心の中で家族に語り掛ける。
――この人が、私のお嫁さんだよ。
ずっと会わないうちに、私ももうおじさんになってしまったんだ。
きっと、笑われるだろうと思う。
いつの間にか、父さんの齢も超えていて、きっとそっちで会える頃には、もっと年老いているはずだから。
屈んで、白い花に手を伸ばす。
この花を持って帰れたらと思っていると、ローブのすき間から金色の鍵がきらめいた。
――そうだった。
「シーラ。花を、摘んでくれないか?」
真剣な顔で頼むと、彼女は困った顔で小首を傾げた。
「いいですけど…………家に帰るころには萎れちゃいませんか?」
私は首を横に振る。
「――花を持っていきたい相手がいるんだ」
彼女はそれ以上は聞かず、しゃがみ込んで花を摘んでくれる。
マントを脱いで、その上がいっぱいになるまで花を二人で摘んだ。
師匠から託された金色の鍵を胸元から取り出して魔力を込めると、金色の魔法の光に包まれて、私達は岩だらけの洞窟の前へと転移した。
ぽっかりと開いた入り口には幾重にも金色の緻密な刺繍のような文様の結界が張られている。
鍵をかざし、再び魔力を込める。
『解呪』
金色の糸が色を失くし、入り口から奥へと順に魔法の力が失われていった。
『光よ』
銀色の光が杖の先に宿る。
「行こう」
私達は暗い洞窟の中を銀色の光を頼りに進んで行った。
生暖かい魔力に満ちた風がゆるやかに後ろへと吹き抜けていく。
しばらく進んでいくと、
最深部は、光で満たされていた。巨大な空洞。
天井はなく、岩の高い壁の上には青空が広がっている。
その中央に、巨大な竜が眠っていた。
家よりも、大聖堂よりも大きな紅色の巨体。
目は閉じられ、規則的に上下する胸に合わせて鼻息が風となり空へと消えていく。
「……炎竜……」
零れ落ちそうなほど目を大きく開けて巨竜を見上げるシーラに、深くうなずく。
「ああ。そうだ。……ここで眠っている」
41年前、この巨大な竜が突然目覚めて、私の村を燃やした。
……炎竜にとっては村なんて見えてもいなかっただろう。目覚めに飛んで、炎を吐いて、気が済んだらまた巣に戻って眠りについた。言ってみればそれだけのことだった。
その魔力でこの地に多くの恵みをもたらす竜は、気まぐれに小さな災厄をもたらし、その不運に偶然にも私の村が当たったというだけのこと。
そして、私は自身の魔力で守られて、自分だけが助かった。
そんな、小さな小さな出来事だった。
持ってきた花を炎竜の傍らに撒く。
甘い花の香りが広がる。
この花は、よく母が摘んできていたものだった。
気持ちが落ち着いてよく眠れる香りだからと、寝室にいつも飾っていた。
――家族で寄り添って眠った温かな思い出の香り。
だから――
一際大きな風が吹き、花が舞い上がった。
はらはらと、
雪のように白い花がゆっくりと降る。
甘い香りですべてを包みこみながら。
その幻想的な光景に、目を細める。
「炎竜も、このままよく眠れるといい」
そのまま、千年の眠りを。
起こされることなく、深く、深く眠って、出来ることなら、朽ち果てるまで、そのまま眠りについてほしい。
安らかな夢を見続けて。
キラキラした目で竜と花吹雪に見入るシーラの横顔を見つめる。
――きっと、今だからこうすることができた。
彼女を探すという目的がなければ、きっと私は学んだ魔法の力を敵討ちに使おうとしていただろう。ヒトの力で勝てるわけもないのに、詮無い無謀に命を散らしていただろう。
けれど、今は命が惜しい。惜しくて、惜しくて、仕方がない。
生きていたい。生きて、彼女と共に人生を歩んでいきたい。
そんなこともお見通しで託された鍵。これからの、守護者の証。誰も炎竜の眠りを妨げないように、守っていく。この地の恵みと共に。
目を閉じてそっと心の中で誓ってから、地面に剥がれ落ちている赤色の鱗に目をやる。
「さあ、鱗でももらって帰ろう」
「はっ、そうでしたそうでした! お義母様のお使いでした!」
二人で鱗を拾い集めて、洞窟を出た。
入り口に、今度は私の魔法で結界を張りなおす。
精緻な文様は今度は銀色の光を纏い、解呪の鍵も銀色に変わった。
これでいい。
これで、よかった。
穏やかな気持ちで、宿の部屋へと転移する。
「ありがとう。おかげで、師匠から仕事を引き継げた」
「えっ、お仕事だったんですか? ……むー」
彼女が何故かうらめしげに私を睨んだ。
「なんだ」
「せっかくの新婚旅行だったのに、お仕事なんてー、無粋。無粋なんじゃないんですかー。もう、お義母様まで」
頬をふくらます彼女に肩をすくめる。
「ふくれるな。まだ昼だろう? 今日はまだ長い。後は君に全部付き合うさ。どこに行きたい?」
彼女の目が一転キラキラと輝き出す。
「じゃあじゃあっ、昨日のお土産屋さんでまずお土産を買ってですねっ、露店のアクセサリー屋さんも気になりましたし、寄木細工とガラス屋さんも有名なんですって。それからオルゴール屋さんも行きたいですっ。あ、でもまずはお昼ご飯っ!」
「全部行こう」
「やった!」
彼女にぐいぐいと手を引かれて部屋を出た。
それから――
予告通りに、昼食を食べ、土産物屋をまわり、買い食いをした。
ずっと彼女は目を輝かせて楽しそうに笑っていた。
夕方になって宿に戻り、夕飯を食べ、満足気な彼女を見て安堵して寝る支度をしていると、
「イルディズさん、全然温泉入ってないじゃないですか」
彼女が呆れたように言った。
「――私はいい」
顔を背ける。
広い風呂は落ち着かない。狭い場所の方が好きだ。
「よくありませんよ。一緒に入ってあげましょうか?」
「……君はまたそういうことを言う……」
ため息が出る。
妻はたまにおかしい。
女湯に私が入るのも男湯に彼女が入るのもダメに決まっている。
けれど彼女は自信ありげに続ける。
「いえいえ、本当にですよ? 温泉に来て温泉に入らないなんて、雉の入っていない雉鍋と同じ! 見逃せないミステイクです。
ふふふー、実はですね、貸切風呂なるものを見つけまして、一応予約しているんです。これなら広いお風呂を二人占めできるんですよ」
「……………………」
「ほらほら、今日はもう全部わたしに付き合ってくれるんでしょう? 行きましょう、行きましょう」




