9「グリズギルとの戦い」
風を切り裂き疾駆するアマトは燃え盛る町を目視できるまでに接近する。
「なんだあの数の熊は?!」
前方には数十匹はいるであろう巨大な熊がひしめき合っていた。
全身を覆う剛毛は刃物を容易に通さず、不厚い皮下脂肪は衝撃を和らげる。太く発達した四足は人間など軽々となぎ払い、その爪と牙で粉砕する。
それが〝グリズギル〟と呼ばれる巨大な熊だ。
「いや、ひよってる場合じゃねぇ! ぜってー助ける!」
首を振って不安になる気持ちを追い払い、さらに走る速度を上げる。野生動物と闘った経験はあるにはあるが、グリズギルと一戦を交えたことはない。とにかく危険な動物であることは八代目村長に子どもの頃から言い聞かされている。
できるのか。たかが人間が、倍以上もある巨体の熊を複数相手取るなど。
「いんや、やるっきゃねー! やってやる! やっちまえよ俺!」
自らを鼓舞しながら、全力全開の助走をつけて跳躍。
「だあああああっらぁ!」
上体を起こしたグリズギルの側頭部を後ろから回し蹴りし、強襲に成功する。蹴られたグリズギルはその巨体を回転させ砂埃を巻き上げながら吹き飛ばされ、他の個体数匹を巻き込んだ。
「手を貸すぜ! ここは任せな!」
背後に庇うように複数のグリズギルを前に立ちはだかり、親指を見えるように立てる。
指揮官らしき老人がすぐさま礼を述べ、部下たちに指示を出す。素早く、的確な判断であった。きっと長年の経験の賜物であろう。
アマトは大きく息を吸い、吐き出して呼吸を整える。町を焼く煙の匂いが鼻についた。
蹴り飛ばしたグリズギルがゆるりと立ち上がり、そのまま前脚を持ち上げて二足歩行の状態へ。牙を剥き出して敵意のこもった唸り声を上げる。その視線の先、標的はもちろんアマトである。
彼も決して短くはない経験から知っている。動物相手に臆してはいけないと。怯んではいけないと。後手に回ることは自らピンチを招くことだと。
見上げるほど高くなった相手の視線を睨み返し、先手必勝とばかりに動き出したのはアマト。
「うぉらぁ!」
彼は消えたと錯覚するほどの俊敏さで一足飛びに接近する。そのまま土手っ腹に正拳突きを文字通り突き刺さらんばかりの勢いで放つ。
しかしその拳は剛毛に埋まり、皮下脂肪に受け止められてしまう。
「いぃっ?!」
とっさに首を仰け反らせて、刺々しい赤髪を掠めて豪腕が頭の上を通過する。危うく首から上が地面を転がるところであった。
背後からズシズシと重い足音が響いてきているのを感じ取り、蹴りつけて拳を強引に引き抜きそのままの勢いで大きく跳躍。直後、ブオンと鈍い風が耳を撫でる。
「あっぶねぇ!」
相手が複数いるということを常に意識しなければならない。でないと死角から強烈な一撃を喰らい、一発で命を刈り取られてしまってもおかしくない。
グリズギルはそれほどの重い一撃を有している。
体の大きさに見合わぬ身軽さでもって素早くグリズギルがアマトを取り囲み、自由を制限する。ひと回り大きなリーダー格の個体が低い唸り声を上げ、それを合図に一斉に飛びかかった。
右からくる爪を前転で躱し、左からくる牙は鼻っ面を押さえつけて上に逃れ、後ろから振り抜かれた豪腕にタイミングを合わせて足裏で蹴りつけ、勢いを得てパチンコのように射出。正面の個体の鼻っ面に頭突きをかます。
「っつ〜?!」
狙いがズレて額に牙が当たり、深い切り傷が刻まれる。だがお陰で頭突きを喰らったグリズギルの前歯は粉砕された。これで噛みつき攻撃はある程度制限できたはずだ。
問題は、それが数十匹のうちのたかが一匹であるということ。
「目に血が──がぁ?!」
額から垂れてきた自らの血が運悪く目に入り込んでしまい、一瞬視界が闇に包まれる。その隙を突かれ、グリズギルの強烈な横薙ぎを喰らって軽々と吹き飛ばされる。ありえない角度で体が折れ曲がり、受け身をとることもままならず壊れたおもちゃのように地面を転がった。
「少年!!」
「問題ねー!」
衛兵の老人が慌てて声を上げる中、巻き上がる砂煙の中から血を拭ってすぐさま立ち上がる。額からはジュゥゥゥウ……と奇怪な音を立てながらありえない速度で傷が治っていた。
(忘れてたぜ、この回復力のこと。思った以上に動けるのもその影響か!)
チトセから分け与えられたドラゴンの血により人間離れした回復力と身体能力を得ていることを思い出す。
(なら多少の無茶は効くってことだ)
十年も眠ってしまった原因に感謝するのは癪だが、今このときだけは心の中で感謝してもいいとアマトは思った。
「ま、だ、ま、だァァァァァ!」
気合の雄叫びをあげながら猛然と疾走し、勢いのままに巨体の下に滑り込んで背後へ。通り過ぎ様に全力で足を取りなんとか転ばせると高く跳躍した。
「くたばれぇぇ!」
落下速度と膂力を掛け合わせた隕石のような拳と地面に挟まれて、グリズギルの頭が真っ赤な花を咲かせて爆散した。
「次ぃ!」
狂気じみた視線を巡らせて一番近い個体に狙いを定める。先ほどのやり取りで思い切って懐に潜り込むことが有効であるとわかったアマトは魂に猪が宿ったかのように猪突猛進する。
「うおああああああああァァァァァ!!!」
足下に滑り込んだアマトは全力で咆哮をあげてグリズギルの脚を抱えるように掴み、空中へとぶん投げた。人間の何倍もある体重をものともせず、風にさらわれた綿毛のように上空へ。
グリズギルは投げられて空を飛ぶという貴重な体験をして、その生涯を閉じることになる。
「喰らえやぁ!!」
空中ではなす術なく、落下してきたグリズギルの顔面に全力全開のアッパーが叩き込まれる。
全身のバネをフル活用された渾身の一撃で頭だけが天高く舞い上がる。残された体は激しく地面に激突し、赤く大地を潤す。
その光景をしかと見ていた老人が声を張り上げて指示を出す。
「総員顔を狙え! 的は小さいが当たれば確実にダメージを与えられるはずだ! 一班は少年の援護! なんとかして隙を作れ!」
「「「おう!!!」」」
体は剛毛も皮下脂肪も厚く、攻撃が通らない。しかし首から上はその限りではないことを老人も見破った。少年の圧倒的な攻撃力を活かすため、人員をサポートに割く。数人で一匹を取り囲み、顔に穂先を向けて突き出して牽制。生まれた隙をすかさず突いてアマトが死神の如く命を刈り取る。
即席の連携にしては上手く型にハマっていた。
しかし、戦況が優勢に傾いているのはアマトの周りだけ。多勢に無勢とはまさにこのこと。彼の行動範囲外はどうしても抑え込むだけで精一杯であった。どうにかアマトが自慢の脚力でもって戦場を駆け回るが、数で圧倒されていた。
このまま戦いが長引いてしまえば、状況は悪化の一途を辿る。
消耗した人間が、巨大で凶暴な動物の体力に敵うはずもない。
「うわぁ?!」「ぐああああ」「衛生兵!!」「助けてくれぇええ!!」
あちこちから部下の悲痛な叫び声が響き渡る。そのたびに血飛沫が宙を舞い、世界が赤に浸食されていく。
「くっ……!」
老人は歯噛みする。仲間の悲鳴が脳内を反響し、気が狂いそうだった。
アマトのお陰で戦況はマシになっても、一時凌ぎが限度。所詮はただの延命処置に過ぎない。
なにかグリズギルの群れを撃退する決定打がなければ。
──その時であった。
張り詰めた空気を呆気なく壊す少女の声がこだまする。
「おやおやアマトよ。苦戦しておるようだな、情けない」
「……おっせーんだよ」
仁王立ちでキメ顔を見せる、土色の長髪に褐色肌の小柄な少女がそこにいた。
「今度は少女だと……?!」
老人は次々と移り変わる状況に狼狽する。
少年の次に現れたのは少女。彼の反応からして知り合いなのだろう。少年が人並外れた力を有しているのならば、もしやこの少女も?
老人は疑り深い視線を向けた。
すると、彼女の背後からさらに小さな影が現れた。老人の疑り深い視線もさらに深くなり、眉間のシワまでも深く刻まれる。
「ママはやいー! すごいー!」
「ふふん、そうであろう? 我が子であろうと手加減はせぬぞ」
「ママーここあついー!」
「うむ、あちこち燃えているからな」
新たに現れた小さな影は女の子の子どもであった。
目の前でグリズギルの群れに襲われて町が炎上しているにも関わらず、新たに現れた三人は平和そのものであるかのように涼しい顔でやりとりしている。
ちらりと現状を一瞥すると、腰に手を当てて胸を張る。
「どれ、頑張っている夫を見習って、我も一肌脱いでやろうか!」
「「わたしもー!」」
ニカッと白い歯を出して笑う少女のその表情は、実に楽しげであったという。




