4「三匹のドラゴン」
大自然に鍛えられた少年の肉体も、生まれたてとはいえそれ以上の体躯を持つ子どものドラゴンに、それも二匹で攻められては成す術もなかった。
岩ようにゴツゴツとした鱗で頬擦りし、尖った爪は少し引っ掛かっただけで容易く彼の衣服と皮膚を引き裂き、じわりと滲み出る真っ赤な血液が服に染み渡っていく。
『これ、我はなんと言い聞かせた?』
悪戯した子どもを咎めるように強く母親ドラゴンが言うと、ハッとしたような表情を浮かべて体をアマトから離した。
『あっ、そうだった!』
『パパはからだがよわいからあまりくっつかないようにって!』
『うむ、そうだ。ちゃあんと覚えておったなあ、偉いぞう!』
今度は赤子に対する猫撫で声を上げるチトセ。つくづく人間臭さを感じさせるドラゴンである。
パパと大切な話があるからと、双子を静かにさせてからぐったりとしているアマトに向けて首を伸ばす。
『生きておるか、アマト』
「……………………死んだ」
『生きておるな』
アマトの掠れた死にかけの声を聞いて、確認も済んだと反応も適当なチトセ。
もはや虫の息となり果てているボロボロの姿を見ても、チトセの態度は変わらなかった。強制的とは言え自分の夫になった人間が、子どもによって殺されかけているにも関わらず、だ。
なぜならば、答えは簡単。
「?! なんだ、これ……?!」
体に起き始めた異変にアマトが声を荒げる。
鋭いナイフで切られたような引っ掻き傷、鱗の頬擦りによるえぐれるような擦り傷も、ジュゥゥゥゥゥ……と奇怪な音を立てながらみるみるうちに治癒していく。この速さは明かに人間の治癒速度を凌駕していた。
「おい、どうなってる?!」
どう考えてもありえない。こんなことになっているのは、ドラゴンの仕業としか考えられなかった。
『ふむ、しっかり馴染んでおるようだな』
「わけわからんこと言ってないで説明しろ! 俺の体はどうなってるんだ!」
異常なまでの治癒を見て平静に呟くチトセに、アマトは説明を求める。これではまるで化物だ。
『なに、我の血を分け与えたまでよ。良かったな適性があって、喜んで良いぞ。ドラゴンの血を取り込んだ人間はほぼ死ぬからな』
アマトが最初に死にかけたとき、『助けてやらんでもない』と曖昧な言い回しだったのは、助からない可能性もあったからだったのだ。むしろそちらの可能性のほうがずっと高かった。
意識を失っているうちに飲ませるなりして取り込ませたのだろう。
そしてアマトは奇跡的にも僅かな可能性を勝ち取り、命を取り留めた。
ただし、奇跡には大きな代償が付き纏うもの。
「ドラゴンの血が混ざったからこうなったってのか?」
『うむ。我からすれば番としての〝契り〟のようなものだ。人間からしたら〝呪い〟かもしれんがな』
「呪い……?」
不吉な言葉に眉根を潜める。
人間の世界でも血によって契約を交わす血判があるように、血には神性が帯びているもの。それを〝呪い〟などと表現するなど、人間界では罵声を浴びせられ石を投げられても文句は言えまい。
彼が訝しんでいると、チトセは大きく息を吸う。それに呼応するように、深い青色の瞳が鮮やかに輝き出す。
『──ひれ伏せ──』
「なっ……!」
チトセが厳かに命令を下すと、彼の意思に関わらず、なにか見えない力で無理やりに膝をつかされた。そのまま訳もわからず首を垂れる。
「ウソだろ……!」
従っていない。従おうとしていない。
なのにまるで別人が体に乗り移ったかのように勝手に動いたのだ。体を動かそうとしても動かせず、滲み出る脂汗を拭うこともできない。
外側からの力ではく、内側からなにかが彼に働きかけていた。
なにかとは、なにか。
もちろん、血だ。それ以外に考えられない。
『嘘ではない。我の血によって眷属となったようなものだ。我の命令には逆らえない』
眷属とは、血の繋がりのある者や家来、従者のことを言う。アマトは正しく眷属と成り果てたと言っても過言ではないわけだ。
『ちなみにこれを〝竜言〟と名付けた。かっこよかろう?』
「ちっとも」
命を助けてくれたのは素直に感謝している。しかしそれとこれとは話が別だとばかりにアマトはわかりやすくそっぽを向いた。いつの間にか体は動くようになっていた。
彼にも住む場所があり生活がある。生まれ育った村ですくすくと成長し、今日だって村の人に旨いものを食わせてやろうと、偶然たまたま奇跡的に発見したフォレスノーラビットを必死に追っていたのだ。
食べなくても売ればそこそこの値段にはなる。村の発展の足しにはなるだろうと、それ一心でひたすらに追った。
もうちょっとで捕まえられそうだったところでまさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかっただろう。
話を聞く態度ではないアマトに、チトセは『はぁ……』とわざとらしくため息をついてみせる。ボボボ……と喉の奥から炎の音が漏れ出た。
『我にあまり〝竜言〟を使わせないで欲しいのだが』
「知るかよ。とにかく俺は村に帰らなきゃいけない。きっと心配してる」
森に行ってくると一言伝えてはあるが、あまりにも遅いようではアマトのことを捜索しに村の人たちが森へ入ってくるかもしれない。
最悪ここまで辿り着いてしまって、今度こそ餌として捕食されてしまう可能性だってある。アマトのことを救ってくれたからといって、他の人間も助けてくれるとは限らない。あのタイミングで双子が孵化したからこそアマトは助かったのだから。
そうなる前に、この森は危険であることを知らせるくらいはしなければ。
彼の言葉を聞いて、チトセは思案するように視線を空へと向けた。
『ふむ……確かに挨拶くらいはした方が良いな。夜が明けたら伺うとしよう』
「は? ちょっと意味が……まさか」
さも当然のように言うチトセに、嫌な予感が冷や汗となって大瀑布の如く流れ出る。
汗の出過ぎで全身グッチャリだ。
嫌な予感とは、往々にして当たるもの。アマトは大口を開けたまま固まってしまったので、しかたなくチトセが続きを引き継いだ。
『うむ。お主の村はこの森の近くにある村であろう? ならば早速、夫婦としての契りを交わしたことを報告せねばなるまい。事後報告になってしまったが、ドラゴンとなど前例もあるまい。困惑させてしまうかもしれぬが、きっと盛大に祝ってくれるであ──』
「なんでそんな簡単に受け入れられるんだよ!」
『…………』
喉の奥に詰まったように、苦しそうな表情で彼は叫ぶ。
チトセが言ったように、ドラゴンと人間が夫婦の関係になるなど、どれだけ過去に遡ろうとも例がない。これはドラゴン本人(?)の証言により確かなものであろう。
だからこそアマトは簡単には受け入れられなかった。
ドラゴンは、人間とは比べ物にならないくらいに高次の存在であり、地域によっては神として信仰しているところがあるほどだ。
そのような大いなる存在が田舎に暮らす少年と生涯を共にする? ちょっと体力に自信があるくらいのただの少年と?
笑えない冗談だった。
「どうして俺なんだ! ドラゴンはドラゴンと、人間は人間とくっつくのが当たり前だろ?! 俺じゃなくて、ドラゴン見つけろよ!」
至極当然の反論だがチトセは面食らった。ドラゴン相手にここまで堂々と物申せる人間などそうはいなかったからだ。
『……アマトよ、この世界にドラゴンが如何程かわかるか?』
「知るかよ。村からほとんど出たことないんだ」
ドラゴンについての知識はあまり無い。大きな村でもないため詳しく教えてくれる人もおらず、最低限の知識しかない。村の誰もが出会ったことはないので、少なくとも絶対数は少ないだろう。
だがその程度の話ではなかった。
『三匹だ』
「……は? それって……」
三匹──幼子でも数えられる問題だ。
『我と、この子らだ』
世界で生き残っているドラゴンは、アマトの目の前にいるチトセと双子ドラゴンだけで全てだと言う。
ふと、気づく。
「ちょっと待てよ、少ないのはまだわかる。けど数が合わないだろ」
母親と二匹の子どもで合わせて三匹。
ならば本当の父親はどこに?
『待て。この子らの前でその話はしたくない。とにかく我に、他のドラゴンという選択肢はもう残されておらぬのだ』
つまりチトセは言外にこう言っている。父親ドラゴンはもうこの世にいない、と。
誰だって子どもの前で死んだ親の話などしたくはないだろう。それはドラゴンとて同じなのだ。人間臭さを感じさせるチトセならばなおさらであろう。子どものことを優先させてアマトを救うくらいなのだから。
『とにかく、けじめはつけねばならん。挨拶くらいするのが筋だろうて』
「どうやって。大混乱になるぞ」
伝説級の存在であるドラゴンが唐突に田舎村へやってくる。ただそれだけで村は阿鼻叫喚の様相を呈するだろう。
『なに、簡単なことよ』
チトセはニヤリと笑おうとしたのだが、人間のアマトには獰猛で凶悪な表情にしか見えなかった。
そして変化は訪れる。
「おいおいおいおい……なんでもありかよドラゴン」
目の前で繰り広げられる神秘という名の異常に、開いた口が塞がらない。
大きなドラゴンはみるみるうちに圧縮されるように小さくなり、首も短くなって二足歩行へ。乾いた荒野のようにゴツゴツしていた鱗は柔らかく滑らかな人肌へ。艶やかな土色の髪を腰まで伸ばした、褐色肌の快活そうな美少女へと変貌を遂げた。
「どうだ! これならば問題あるまい!」
「大アリだよ!!」
今度こそ正しくニヤリと笑う表情を見せるチトセに、アマトは全力で突っ込んだ。
堂々と仁王立つチトセは、スッポンポンであった。