11「アマトの咆哮」
「はぁ……はぁ……」
無数のグリズギルとの乱戦を繰り広げ、血糊が全身にベッタリと付着して不快感のある中、残るはひと回り大きいリーダー格の個体を残すのみとなった。
全滅なんてする前に、敗色が濃くなれば逃げるのが動物でありそれが自然。自らの命の大切さをよく理解しているはずだ。
にも関わらず、これだけ派手にやられて逃げないなんて普通ではない。
アマトはまるで、なにかに強制させられているかのような、そんな違和感を感じていた。
「あとはお前だけだぜ……! 逃げるなら今のうちだぞ」
パキパキと乾いた血糊が指先から剥がれ落ち、グリズギルを指差す。
アマトの最後の優しさは、意味を為さなかった。
最後の一滴まで命を引き絞るような、悲痛な咆哮を天まで轟かし、猛然とアマトへ立ち向かってくる。
そう、もはや立場は逆転している。彼が立ち向かうのではなく、グリズギルが立ち向かうのだ。
「そうかよ……! 後悔すんなよっ!」
彼にはなんとなくわかった。わかってしまった。
この戦い、グリズギルが望んだものではないと。
(俺が今、楽にしてやるからな)
勢いに任せて突っ込んできたグリズギル。大きな顎を限界まで開き、アマトの体を真っ二つにせんと迫りくる。
本調子のアマトであればこんな直線的な攻撃、容易に躱すことができたであろう。しかし長期戦になり、彼の体力も限界まで削られていた。そこへまだピンピンしているグリズギルのリーダー格が相手。
実力は五分五分と見ていい。
「ぐっ……?!」
大きな体を生かした突撃を避け切ることは難しいと判断して、上顎と下顎をその手で受け止める。全身に激しい衝撃が突き抜け、地面に踏ん張りの跡を引き伸ばしながらそのまま押し込まれて家屋の壁に激突。何倍もの体格差のある相手の勢いを殺すことは流石にできなかった。
崩れる家の中で、それでもグリズギルはその質量の猛進を止めない。
立ち込める噴煙の中、反対側へ突き抜けさらに次から次へと家々をぶち抜いていく。
「いい、加減にぃぃ……っ!!」
奥歯が割れんばかりに食いしばり、全力で手に力を込める。とてつもない握力が発揮されて指先が鼻先と下顎にめり込み血が吹き出した。
「しろやぁぁぁぁぁ!!!!!」
そのまま捻るように腕をクロスさせ、人間の何倍もある巨体がぐるりとその場で回転する。踏ん張りを失ったグリズギルを横方向へ投げ飛ばし、どうにか止まらない体当たりから脱した。
「くっそ……滅茶苦茶しやがって……!」
血が付き、埃を被り、煤け、ボロボロの服は首の皮一枚繋がった状態。まさに満身創痍の体を様していた。
壁を突き破るほどの衝撃を何度も味わった背中は全面に深過ぎる傷を負い、肉が抉れている部分もあった。
そこから蒸気のようにジュゥゥゥウ……と音を立てて煙が立ち上り、瞬く間に傷が修復されていく。この回復力がなかったら、とっくにお陀仏であっただろう。
戦いのステージは、町の西側から中央へ。住民の避難は終わっているが、消火活動で衛兵がてんやわんやとなっている。そんなところへアマトを引き連れたままグリズギルが家をぶち抜いて現れたのだから現場は騒然となっていた。
「少年! 助太刀は?!」
遅れて追いかけてきた老兵の指揮官が声を上げる。側から見ればボロボロの少年にまだ大きなダメージのないグリズギルだ。敗色が濃く見えるのは少年のほうであろう。
だがアマトは手を横に広げて拒否の意を示す。
「いらねぇ! そんなことより避難と消火を急げ!」
「しかし──」
「いいから! 早く!!」
「わ、わかった!」
鬼気迫るものを感じ、老人は折れた。残るリーダー格のグリズギルは大きな個体とは言え一匹のみ。さらに、まさに荒ぶる鬼神の如き戦いを目の当たりにしているし、避難と消火を急がなければならないのもまた事実。
「少年を信じよう! 一班から三班は消火に加われ! 残りは逃げ遅れている人がいないか捜索だ!」
「「「おう!」」」
「任せたぞ、少年!」
「ああ、任された!!」
頼もしき返事を背中越しに、アマトは油断なくグリズギルを見据えていた。あちらも慌ただしく人々が行き交う中でありながら、獰猛な視線はアマトから外れない。
お互いに、倒すべき相手だと認識し合っている。
飛び出し、先手を打ったのはアマト。素早く懐へと潜り込み、今まで倒してきたように上空へ蹴り上げる攻撃を試みる。密集した剛毛に厚い皮下脂肪で攻撃が通りにくくとも、落下の衝撃は確実に蓄積される。
だが──
「ぐっ?! 重い!」
攻撃は確かに入ったが、少しばかり浮き上がる程度に終わる。ひと回り大きいだけで、ここまで質量に差が出るのは誤算であった。さらにアマトの体力も限界に近づいてきている。生半可な攻撃では倒し切ることはおろか、有効打にすらならない。隙を見つけて、一撃必殺を決めなければ。
懐へと入り込み、アマトの攻撃は失敗に終わったということは、逆を言えばグリズギルの間合いに入ったということ。
浮き上がって落下する勢いを利用した、前脚によるスタンプ。
空から壁が落ちてくるような圧力と気迫にアマトは体を転がすように跳躍し、辛くも逃れる。
大地にめりこまん勢いで打ち据えられた前脚は、地面を軽く揺さぶった。
「っぶねぇ……!」
額から溢れる冷や汗を拭う。
いくら回復力が人外的であろうとも、頭や心臓がぐしゃぐしゃに潰されたらどうなるかはわからない。それを確かめる手段は無いし、余裕もない。試すにはリスクが大きすぎた。
グリズギルは仕返しにと体勢を立て直し切れていないアマトへすぐさま追い討ちをかける。
右から、左から、上から、下から、あらゆる角度から猛烈な速度で爪が襲いかかる。
「お、っと、っと?!」
無理な体勢から無理やり体を捩ってなんとか躱し続けるが、どんどん追い込まれていく。
「くっそ……っ!」
体の大きさに反して思っていたよりも動きが俊敏で、反撃に転じることができない。そんなもどかしさから焦りが募り、初歩的なミスを犯してしまう。
躱す方向を誤り、おまけに血溜まりに足を取られて転倒までしてしまったのだ。
「しまっ──」
命の駆け引きをしている獣が、こんな絶好のチャンスを逃すはずがなく。
「ガッ?!」
左肩に丸太が激突したような衝撃が突き抜け、骨の砕ける鈍い音が脳髄にまで響き渡る。軽々と吹き飛ばされ、受け身も取れずに地面を跳ねて転がる。
チャンスと見たグリズギルの攻撃はまだまだ終わらない。
すぐさま追いすがり、爪の乱舞を繰り出す。
「させ……るか!」
その前にどうにか体勢を立て直し、飛ばされた先にたまたま転がっていた樽を蹴り飛ばしてぶつけた。
グリズギルは難なく腕を振ってそれを粉砕するが、中に入っていた液体を全身に被った。
中身はただの水だったが、これが勝負の行く末を決定づけた。
グリズギルの動きが僅かに鈍ったのだ。
今しかない。
アマトはこのチャンスを見逃さず気合一喝、まさにドラゴンが如く吼えた。
「がああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
全身の細胞が沸き立ち、血が沸騰しているような錯覚を感じながら、アマトは大地が陥没するほどの勢いで叩きつけるように跳躍。天高く舞い上がり、ぐるりぐるりと縦回転を加えて勢いを増していく。
「く た ば れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」
自由落下による勢いと回転による遠心力を乗せた踵落としが脳天に直撃。頭蓋を粉砕し、そのまま首の関節がゴキリと外れて致命傷となった。
左腕の骨折をすっかり忘れていてまともに受け身を取れなかったアマトは無様に地面に転がり落ちる。その間もドラゴンの血による回復は行われているが、全快になるまではまだまだかかりそうだ。
「どう……だ……っ!」
全身ボロボロになり満身創痍な身体を押して立ち上がる。
完全に急所に入ったし、手応えもあった。これで勝負は決まったとアマトは疑わなかった。
「おいおいおいおい……嘘だろふざけんじゃねぇぞ」
だがグリズギルは必死にもがき、立ち上がろうとしている。白目を剥き、口から泡を吹き、ビクンビクンと痙攣をしていながら、それでもなお立ち上がろうとしているのだ。
何者かの意思に無理やり精神と、魂と、体を動かされている。乗っ取られている。そうとしか思えなかった。
アマトは、苛立ちを隠せない。
「もうやめろ……終わったんだよ。やめていいんだ」
もはや聞こえていないと、届いていないとわかっていながら、声をかけずにはいられなかった。
お互いに望んだ戦いではなかったのだから。哀れで仕方がなかったのだ。
「ダメか……。今、楽にしてやるからな」
でたらめに暴れるグリズギルに無用心に近づくと、右手を腰だめに構えた。
そのまま手刀で貫くように左目に突き刺すと、眼球がガラスのように粉々に砕け、そのまま肘までねじ込んで脳味噌を完全に破壊した。
ヌプリと滑らかな泥から手を抜くような音を響かせて、ついにグリズギルは沈黙。その命は天へと召されていった。
「くそがっ……!」
彼は胸糞悪さに、悪態をつくしかなかった。
***
地平線を超えた先、指で作った輪を覗き込む赤い瞳が一つ。
「やんっ♪」
輪っかの内側の空間が、ガラスが割れるような音を響かせて砕け、透き通った破片が宙を美しく彩る。
砕けて天へと昇っていく破片を眺めながら、少女は脱力した。
輝くような赤い瞳とは対をなす緑色の髪をサイドアップに纏め、短いタンクトップにホットパンツと肌の露出も多めの格好をしていた。
「あーあ、負けちゃったぁ。水が苦手なのバレてたかぁ」
見えないはずの戦場を見て、少女は楽しげに呟いた。
「ま、所詮雑魚だし、別にいっか。代わりはいくらでもいるし?」
断崖絶壁に腰掛けて遥か彼方の映像を指の輪から覗き込んでいた彼女は、愉快そうに表情を歪めた。
脳裏に思い描くのは、必死の形相で立ち向かってきた赤髪の少年。手刀で貫かれる光景を最後に途切れた映像を思い返すと、愉悦に満ちた笑みが自然と浮かび上がってくる。
「可愛かったなぁあの子……もっと歪んだ表情が見たいなぁ♡」
彼女はどうやれば赤髪の少年をより苦しめることができるかで頭がいっぱいで、自らの使命をすっかりと忘れていた。
──バドラギ王への報告を。




