10「ドラゴンの力」
「お母さん……」
「大丈夫よ。きっと衛兵さんたちが守ってくれるわ」
とある家屋に、逃げ遅れた親子の姿があった。震えて怯える我が子を力一杯に抱きしめる。これ以上怖がらせないように、自らの抑えきれない震えをなんとか隠しながら。
外は火の海。いずれこの家も炎の波に呑まれるだろう。だからといって外に出ては徘徊している巨大で凶暴な熊、グリズギルの格好の餌食となってしまう。
親子は決めかねていた。このまま助けが来るまで隠れるべきか。覚悟を決めて外へ出て、もっと安全な場所へ移動するか。
だがその迷いが、運命を決定づけた。
「きゃあ?!」
破砕音を響かせて壁ごと扉が吹き飛び、立ち込める砂煙にぼんやりと映り込む巨大な影。
裂けんばかりの大きな口からはダラリと赤く染まった涎が垂れ落ち、強い粘性からべチャリと音を立てて床にへばりつく。牙の隙間からは、誰かの指が助けを求めるようにはみ出していた。
「お母さん……!」
「大丈夫! きっと大丈夫よ……!」
母親は両手を広げ、子を庇うように身を盾にして躍り出た。大丈夫と言うその言葉にはなんの根拠もなく、ただ〝我が子を守りたい〟とその一心から勝手に飛び出た言葉であった。
そんな心からの叫びを、ただの動物が聞き届けるはずもない。
低く唸り声を上げながら、ゆっくりとグリズギルは獲物を追い詰める。一歩足を進めるたびに、親子の運命が無慈悲にも細くなっていく。
綱から縄へ。縄から紐へ。紐から糸へ。糸から繊維へ。
振り上げられる前脚。振り下ろされる爪。
プツンという音もなく、運命は途切れた。
──その刹那。
天井を突き破り、なにかが飛来した。そのなにかはグリズギルの前脚を吹き飛ばし、床を破砕しながら着地する。
落とされた前脚のすぐそばには、何者かが立っていた。
「おいたが過ぎたようだな、獣風情が」
それは小柄な少女であった。土色の髪を腰まで伸ばした、褐色肌の少女。体は小さくとも隠し切れない存在感が、少女の背中を大きく、頼もしく感じさせた。
凛とした立ち姿を呆然と見つめていると、不意に声をかけられる。
「ここはお主の巣か?」
「……え?」
「おっとすまんな。ここはお主の住処か?」
言い直した少女に、母親は黙って頷いた。すると少女は首だけで軽く振り向いて笑顔を向けた。
「それはすまんことをした。穴を開けてしまった」
「そ、それは構いません! それよりも──」
「みなまで言わずとも良い。母としての役目をよくぞ果たしてみせた。よく頑張ったな、あとは我と我が子らに任せよ」
そういう少女の傍には、いつの間にかさらに小さな女の子が二人。全く気配を感じさせず、いつからそこにいたのか親子にはわからなかった。
「ほっ」
軽い呼吸で前方へ滑るように跳躍。
しかし語気とは裏腹に床を蹴り砕く勢いでグリズギルに真正面からぶつかっていき、遥か彼方へ吹き飛ばし逃げ道を確保する。小さな体のどこにそんな怪力を秘めているのか、親子には到底理解できないものであった。だがこの力さえあれば抗うことができる。活路を見出すことだって。
「どうやらこの熊どもは西からやって来たようだ。逃げるなら東だ。早う行け!」
「は、はい! ありがとうございます! その……御武運を!」
「うむ!」
親子は少女の言う通り、東へ。そこで避難誘導している衛兵を捉え、親子は無事戦火から逃れることができた。
その様子を見届けた少女は、油断なく取り囲むグリズギルを一瞥し、吐き捨てた。
「母は強しというところ、しかとその魂に焼き付けよ!!」
少女は拳を向け、吼えた。
***
土色の長髪を靡かせた褐色の少女、チトセは拳を構えた。
それに負けじとグリズギルも吠え、無謀にも飛びかかる。もっと知恵のある獣であったならどれほど良かったであろうか。少なくとも、バラバラにされる未来は訪れなかっただろう。
立ち向かおうとしている相手がドラゴンであるなどと、グリズギルは思いもしない。ただ柔らかくて旨そうな餌だと、狙いが逃げた親子から変わっただけだ。
「甘いわっ!」
馬鹿正直に突っ込んできたグリズギルの土手っ腹を蹴り上げる。体がバキリと音を立ててくの字に折れ曲がり、巨体が軽々と遥か上空へ。
「ふぅむ、いまいち。やはり人間の体は加減が難しい」
打ち上げられたグリズギルを呑気に見上げて、文句を垂れた。四つ脚はプラプラと力が抜け、口からは長い舌がだらりと垂れている。
たった一撃で、すでに絶命していた。
だがチトセは『容赦』という言葉を知らなかった。
すでに命を落としているのに、物理的に落ちてきたグリズギルに中空で渾身の掌底を当てると、逃げ場のない衝撃が全身を伝わって内側から爆散した。
「ぺっぺ! うげぇ、血肉が口に入ってしまった。毛ばくて不味いな、食えたものではない」
口に入ってしまった死骸の破片を吐き出して、食料にはならないことをたまたま確認した。
周囲を取り囲んでいたグリズギルは二の足を踏んでいた。
仲間が簡単に粉砕されてしまう。そんな光景を目の当たりにしてしまっては、いかに知能の低い獣であろうともわかりやすく本能が訴えかけてくる。
──命の危機を。
「ママーわたしもやりたいー!」
「ママー、わたしもー!」
「うむ? できるのか?」
「「できるよー!」」
双子の女の子、ヨウとリョクが元気よく手を上げながら自分もと立候補してきた。戦闘経験はなく、せいぜい深緑の森での狩りが良いところだが、これも経験とチトセは母として彼女らの意を汲んでやることにした。
「では今後のために戦闘経験を積んでもらうとしよう。我はあちらを片付ける。残りを任せても良いか?」
「「まかせてー!」」
双子は元気いっぱいに返事をする。それに満足そうにチトセは頷くと、背を預け合う。
「折角だ、また競争といくか? どちらが熊を多く殺せるか。ハンデだ、そちらは二人一緒で構わぬぞ」
「やるー!」
「まけないぞー!」
「その意気や良し! では──始め!」
チトセの合図とともに、三人は跳躍する。
一人は北へ。二人は南へ。激戦区である西はアマトが食い止めている。
「永遠を司る地母竜に挑もうなど、5000兆年早いということを思い知らせてやるわ!」
大地を割り砕く踏み込みとともに繰り出される掌底はグリズギルを一撃で跡形もなくバラバラに粉砕する。今度は血肉が入らないようにしっかりと口を閉じていた。
「ハッ! ぬるいわ!」
影も形も残らなかった虚空に向かって鼻で笑い飛ばし、次のグリズギルへ狙いを移す。もはや彼女にとって何倍もの体躯を誇ろうが歯牙にもかけず、児戯に等しいものであった。
まさに赤子の手を捻るが如く、ちぎっては投げちぎっては投げを繰り返し、瞬く間に数を減らしていく。血の海が広がり、大地がこれ以上血を吸うのを拒んでいるかのようだ。
「ま、ざっとこんなものかの」
準備運動にもならなかったのか、手足をプラプラとさせてから関節を伸ばし、一息つく。
「どれ、二人の様子でも見てみるか」
あっという間に見える範囲にグリズギルがいなくなってしまった。住民の避難は済んでいるようなので、踵を返して双子がいる町の南側へ。火の移っていない家の屋根へ一足で飛び乗り、周囲を見渡す。
「いたいた」
すぐさま我が子の姿を見つけると、念のためすぐ助太刀に入れるように構えつつ、見守る姿勢に。
双子はまだグリズギルを相手に立ち回っている。さすがに大人と子どもでは実力に差があり過ぎた。競争なんて吹っかけてみたが、少々大人気なかったかもしれないと少し反省しつつ観戦する。
見たところ手間取ってはいるようだが、苦戦している様子はない。殲滅速度がチトセと比べて遅い、というだけで余裕を感じられる。
その証拠に、双子の足元は血の池が広がっているし、返り血ばかりで損傷した様子もない。これならば安心して見守れそうだ。
「さて、お手並み拝見させてもらおうか」
双子に狩りを手ほどきしたチトセだが、その真の実力を目の当たりにしたことはない。
これからは長い旅路が待っている。その中で、自分の身は自分で守れるくらいの実力は持ってもらわねば困るときが必ずやってくる。
それを見定めるためにも、このグリズギルの襲撃は好都合。
「とおー!」
木葉の髪留めで前髪を分けたヨウが手をかざす。すると突風が巻き起こり、見えない刃に切り刻まれたかのようにバシュッと音を立てて全身に裂傷が走る。一瞬にして血飛沫を上げる様子はヒビの入ったガラスのようであった。
しかしその裂傷は裂傷にあらず。間を置いて裂傷の線をなぞるように切断され、木っ端微塵と成り果てる。
真空を生み出し相手を切り裂く鎌鼬を〝奇跡〟で生み出したのだ。
「ほお」
チトセは関心の吐息をこぼした。
教えた覚えのない〝奇跡〟の使い方をすでに会得しているとは。
神に最も近しい存在である者──すなわちドラゴンのみが扱える御業、それが〝奇跡〟だ。
と、いうことは──
「やあー!」
次は木葉がデザインされた紐でお下げに縛ったリョクが、気の抜けそうな掛け声とともに木っ端微塵になったグリズギルの残骸に手をかざす。
「なんと」
目にした現象にまたしてもチトセは関心の吐息をこぼす。
シュルシュルシュル──と血肉の欠片から若葉が芽を出し、瞬く間に成長して自在に蠢く蔓と化した。
人を丸呑みにできる大蛇の如く成長した蔓はグリズギルをまとめて絡み取り、ぐしゃりと熟れたトマトを握りつぶように圧殺した。
こちらは植物を操る〝奇跡〟を駆使し、難なくグリズギルを撃破する。
満足げに双子はハイタッチと笑顔を交わす。
そんな微笑ましい光景を屋根の上からこっそり眺めながら、チトセは顎に手を添える。
「アマトに名を授かって神格を得たか。この短期間で教えてもいないのに〝奇跡〟を使いこなすとは……やはり我が子は天才かっ?!」
親馬鹿ここに極まれり。
人の姿をしたドラゴンが三人も一ヶ所に集まれば、グリズギルなどという動物は、子熊のぬいぐるみ以下であった。




