1「空の足音」
1「空の足音」第1章【魔王の卵】
ファンダム大陸にある人の住う国、セターン王国を地図の中央とし、南の遥か外れに人口が100人に満たない小さな村がある。名をファウストリの村と言い、畜産業が盛んで、そこでは鳥牛豚などがいたるところで飼育されている光景が見られる。
村人たちは日の出と共に仕事を始め、日が沈むころには仕事を終わらせて酒場などで世間話に花を咲かせ、一日を終わらせるというのがこの村全体の日課になっていた。
そして今日も、いつも通りの平和な一日が始まり、何事もなく終わりへと向かっていく。
……はずであった。
***
「いっちに、さんっし」
朝日が差し込み、鶏がうるさく鳴く中で柔軟体操をする一人の少年。
彼の名はアマト。刺々しい赤い髪は太陽の如く朝日を透かし、長身は影を人一倍に長く伸ばしている。よく伸びよく縮む引き締まった筋肉は欠かすことなく続けている日課のお陰か。
「よし、いくか!」
寝起きの体も程よく温まって解れてきたところで、アマトは唐突に全力ダッシュをした。目的地は村からさらに南下してすぐにある『深緑の森』と呼ばれている広大な森林地帯。
そこには兎や鹿など家畜以外の動物が数多く生息しており、他にも野草や山菜などがあれば採ってくるのが彼の目的であり仕事である。もちろん危険な生物も生息しているが、彼の腕っ節であればそうそう遅れは取らないし、いざというときの逃げ足にも自信はある。
村人たちはすでに起きて仕事を始めていて、すれ違う人たちに「いってらっしゃい!」と見送られては元気よく返事を返す。
毎日決まった時間に出発しているので、いつもの流れですれ違いざまに放り投げられた餞別の林檎も難なくキャッチ。
本日もいつも通りの賑わいを見せていた。
お礼もそこそこに齧りつつ走り続けていると、すぐに村の中央広場へと出る。
そこにはこの村を作ったとされる初代村長の等身大石像が屹立し、その前で数人の子どもたちを相手に紙芝居を披露している老人がいた。
この村の現在の村長である。本日も早朝からお勉強会が開かれているようだ。
一番偉い人の前を猛スピードで素通りは流石に非常識。アマトは挨拶をするため足を止めた。数メートル足跡の線を伸ばし、土埃を巻き上げながら。
彼の勢い良すぎる登場にその場にいた全員がギョッとして面食らいながらも、すぐにそれがアマトだとわかるや肩の力を抜く。
無意味に驚かせてしまったとも知らず、彼はのんきに笑顔で手を上げた。
「おはよう八代目! 今度はなに聞かせてるんだ?」
「『おはようございます』じゃろうが! せめて子どもらの前では正しく言葉を使わんかい! あともっと静かに来れんのか全く……」
村長は『長老』という言葉がしっくりくるような見た目で、曲がった腰に杖を突き立派な白い髭を蓄えた小さな老人だ。
アマトにとっては教師のように色々と教えてくれて、親のように愛情を注いでくれた特別な存在。
老人とは言え一つの村を長い間、現在も取り纏めているだけあってまだまだ元気。声にハリもあり、長い眉毛に隠れて見えにくいが瞳には生気が溢れんばかりに満ちている。
聞こえる大きさでぶつくさと文句を垂れていた八代目村長であったが、やがて満足したのか「うぉっほん!」と大きく咳払いをして喉の調子を整えた。
「ドラゴンの伝説についての紙芝居じゃ」
「あー、あれか」
アマトが子どもの頃に何度も読み聞かせをしてくれたのでよく覚えている。その頃から八代目村長は長老のようで、それからずっと見た目が変わっていないのは、子どもたちの中で密かな不思議となっていた。
「ま、頑張れよ諸君」
アマトは集まった子どもたちの肩を軽く叩く。叩かれた側はなんのことかとキョトンとしていた。
年寄りの話とは得てして長くなるものだ。ドラゴンのような脅威が存在していることを紙芝居を通して子どもたちに伝えるため、これも大切な役割と村長は己に課せられた使命に燃えている。
ただ単純に紙芝居を読み進めてくれればそれで良いのだが、体験談やら考察やらを交えながら話すものだから子どもからしたら退屈になりがちなのだ。
アマトも何度寝落ちして叩き起こされたことか──そんな思い出が懐かしく思い起こされる。きっとここにいる子どもたちも、同じような経験を何度も味わうことになるだろう。
「しっかしドラゴンねぇ……」
巨体が大空を舞うらしい姿を想像して、浮かぶ雲を眺めながらぽつりとこぼす。
──ドラゴンの伝説。
簡潔に纏めれば悪さを働くドラゴンを勇者が懲らしめ、世の中に平和をもたらすといったありきたりなもの。ドラゴンがどれほど危険な存在であるかを教えるための紙芝居なので、内容は意外とエグい。幼少の頃よりしっかりと言い聞かせることで人間とは小さく弱き生き物だから協力して生きるようにと教えられるのだ。
やんちゃな男の子であれば〝ドラゴン怖い〟よりも、そんなドラゴンに魔法という不思議な力を携えて立ち向かっていく〝勇者カッコイイ!〟と思うもので、アマトもそんな一人であったが、そもそもドラゴンそのものが希少な存在だ。
大きくなってからは、本当に勇者もドラゴンも存在していたのかと怪しんでいるほどである。
「ま、いいか」
十数年生きてきてまだ一度も目撃したことはない。彼の何倍と生きているであろう村長ですら話に伝え聞くだけで実際に目の当たりにしたことはないというではないか。
この紙芝居はあくまで子どもたちに協調性を学ばせるための御伽話のようなもの。いつまでも気にしていては始まらない。
早々に切り替えることにする。
「んじゃ、俺は森に行ってくるわ!」
「うむ、気をつけて行ってくるのじゃぞ」
「おう! じゃなー!」
「『行ってきます』であろうが! 全く……」
猛烈な勢いで走り去っていくアマトの背を見送りながら、やれやれと村長は息を吐く。元気に走り回る姿は昔から変わりない。中身は子どものまま体だけ大きくなったような背中に苦笑が漏れた。
「ふむ……雨が降らんとええんじゃが」
立派な髭をしごきながら、確かな予感と共に村長は早めに紙芝居は終わらせようと読み聞かせに戻る。
遠くには、墨を混ぜたような重苦しい雨雲がゆっくりと村へ足を伸ばしていたのだった。