六
その後長い夏休みの間、尾道と会うことは一度たりともなかった。
携帯の番号は知っている。メールアドレスだって登録してある。実際に、二度三度連絡があった。けれども、一切の応答はしなかった。次に会った時の態度がどう変わっているか、確かめるのが怖かったから。
九月、夏休み明けの初日。色々に様変わりしている、話したこともないクラスの面々が目にうるさい。とは言うが、僕自身も大きく変容した者の一人だろう。
端的に言えば、僕は尾道から逃げ回っていた。あれほど熱心に付き合っていたのが急に相手を避けて動いているのだから、周囲からすれば不思議でしょうがなかったに違いない。親しくしていた友人たちには、「喧嘩した?」と無神経に訊かれた。
元々積極的に絡んでくる尾道じゃないから、距離を置くのは楽だった。登校直後に挨拶してきたのを無愛想にあしらうと、それで粗方察したのか以後近づいてくることはなくなった。
小さな会話のやり取りをした休み時間も、一緒に弁当を食べた昼休みも、構わず一人きりにさせる。それが一切堪えないかのように平然と教科書を読んだり食事を進めたりしている姿を視界に入れるのが、却って辛かったりもした。
でも、これでいい。今頃、尾道も自分への関心を失くしているだろう。夏休みは十分に長かったから、とっくにあの絵を完成させて満足しきっているに違いないのだ。
自分は十分に耐えた。だから、直接答えを聞かないでおくくらいの自由は、与えられてもいいと思った。
その日は平常の授業もなく、お昼過ぎで早々と放課になった。夏休み前なら、これからたっぷりの時間を部活(見学)に費やす日だったろうが、今日は家でのんびりと過ごせる日だ。
と強いて自分を納得させながら、荷物をまとめて席を立った。
「……ん、何か入ってる?」
いつもの習慣で立ち上がってから机の中を手探りすると、小さめで少し分厚い紙片の感触を得た。取り出してみると、黄緑色の慎ましい封に包まれた手紙であった。
差出人は、見なくてもわかる。間違いなく、尾道だ。
こうまでされると、流石に中身に目を通すのが義理だと思われた。しかし、教室内にはまだ人が残っている。当の本人は既に席から消えているが、誰かに見られてとやかく言われるのは一番避けたかった。
鞄をもう一度開け、手紙を押し込む。家で読むことにしよう。そう決めて、やっと祭りの前のように賑やかな自分の教室を後にした。
少し早歩き気味で校門をくぐると、後ろを振り向いた。今日は校舎がとても大きく感じられる。これから数か月、毎日のように通う場所だからだろうか。
それから、美術部の部室の様子をひっそりと思い浮かべた。第二理科準備室は校門からは隠れて見えない場所にあるはずなのに、窓の奥にある教室一つ一つがあの場所のように思われて仕方がなかった。
あの夜に渡された現実の絵画は、今も空虚なギャラリーの中に一際輝いて、僕の目を正常に働かせてくれないのである。
「前見て歩かないと危ないよ」
注意を促してきたのは、その絵の描き手だった。
記憶の面影より髪を短く切り揃えた少年は、校門の柱に背をもたれて両腕を組んでいる。僕が通りかかるのを、待ち構えていたらしい。
このタイミングでの接触は、殊更意外だった。朝方冷たく突っぱねたことで、全てを察して身を引いたと思っていたのに。現に先ほどまでは一切のアクションを控えていたではないか。それが、どうしてこの折に。
「封筒の中、確認してくれた?」
「……」
「その様子だと、まだみたいだね。いつ読んでくれるんだろうと思って、今日一日待っていたのに」
口ぶりから察するに、手紙は朝の時点から机の中に押し込まれていたらしい。今日は机の中に入れる荷物が何もなかったために、それに気付けなかったのだ。不運だとはいえ、申し訳ないことをした気分になる。
「読むつもりないの?」
「読むよ。でも怖いから、家で読ませてほしい」
「怖い?――そうか、やっぱり……」
尾道は合点がいったように、一人でうんうんと頷いた。
「だったら猶更、今読んで。そうじゃないと、意味が無いんだ」
尾道はわざと僕の言葉を借りているように思われた。そうしてこちらの負い目を意識させて、行動を引き出そうとしているのだ。
「……わかったよ」
もうここまで来たら逃げられないと思った。
鞄を置いて封を取出し、その開け口を慎重に広げる。中には、封とほぼ同サイズの写真が一枚入っていた。
「俺の、絵――」
間違いなく、自分が居た。僕の画廊の中心に孤独で佇むあの絵画の人物とよく似た、熱っぽい生命体。彼の指紋が、はだけた皮膚に押されてまだ残っている。これは尾道しか描けない絵。尾道と僕しか、作り出せない画だ。
作品に対する尾道の自己評価は――聞くまでもなかった。彼が何を言うでもなく僕は答えを出しきっていて、心の中で何度も反芻してしまっていたからだ。でも、聞かざるを得ない。最後の、本当に最後の審判を、今耳にする。
「すごくきれいに、描けたと思う」
……ああ、そうだろうな。そうじゃないと、おかしいもの。こんな息を呑むような美しい作品を、失敗だという画家がいるはずもない。でも、
「じゃあやっぱり、お別れじゃないか。だから……、だから開きたくなかったんだ。こんなもの、学校の近くで見せないでよ!」
「落ち着いて、卯城。封の中にもう一つ入っているものがあるだろう。よく探してごらん」
「もう一つ……?」
封をがま口のように大きく広げて、中を覗く。するとそこには、よく見親しんだ美の欠片が入っていた。
「ヘアピン――」
「プレゼント。風景画の時と、その前のイーゼル運搬の時のお礼だ。結局夏休み中連絡つかなくて何も奢れなかったから、その代わりだと思ってほしい。妹が買った場所忘れたって言うから、探すの結構大変だったんだよ」
「……」
意図がわからなくて、僕はまた押し黙ってしまった。何故今、そんなものを渡すのだろう。そしてそれが、僕に対する彼の態度へ、どのような影響を及ぼすのだろう。二つのアイテムの繋がりがあまりに不明瞭で、僕の思考回路は流れが滞っていた。
「君の絵を描いてみて――いやそれよりもっと前の段階から、僕は気付いていたんだ。人間は色んな性格を持っている。同じ人間、同じ表情だとしても、そこに至る背景と論理はそれぞれ異なっていて、可能性は無限大に開かれている。
だから、同じモチーフは描かない、描けないんだよ。今日の卯城と、明日の卯城を描くときでは、見えているものが全く違う。それらを忠実に写し取ろうとするだけでも、一つとして同じ絵は出来上がらない」
難しいことは言わないでほしいと思った。もう息が詰まって、今にも涙が出そうなのに、そんな高度で抽象的な思想にはついていけない。
「――言ってる意味、わかる?」
「説明が長いよ。もっとわかりやすく伝えて」
「……そうだなあ。じゃあ、それ貸して」
尾道は今贈ったはずの空色のヘアピンを奪い取ると、僕の髪にすっと差し込んで自分と同じ格好にしてみせた。
お揃い。もっと恥ずかしい言葉で言うと、ペアルックだ。
「ほら、また違う君になった」
アクセサリーが一つ増えたからどうとかじゃない。表に出る表情だって、きっと大して変わっちゃいない。でも、一秒前の僕と今の僕は別人だって言える。なぜなら、また彼の魔法にかけられてしまったのだから。
「また今度、もう一枚君を描いていいかな。次は服を着たままでいいからさ」
僕は、堪えきれなくなった涙を拭うのに必死だった。声がまともに出せない。でも尾道は、僕の声が普通に戻るまで待ってくれた。
「うん、描いてほしい。一枚だけじゃなくて、十枚、二十枚……とにかく沢山。尾道が俺に飽きる、一歩手前くらいまで」
貪欲な僕の回答に、尾道は苦笑しているようだった。そして最後に、ちょっぴり現実的な台詞を言った。
「そうなる前に、絵の具が足りなくなっちゃうよ」