五
割り切るか、割り切らないか。気持ちを整理するか、未練を残すか。
二択の天秤はしきりに傾きを変えて、心の揺らぎは一向に収まらない。もう全てが否定されたに等しいのに、脳裏の絵画は相変わらず鮮明に主張して、簡単に消し去ることを許してくなかった。
「卯城、急に静かになったね」
「え――」
「なんか、機嫌悪い?」
そう訊かれると、本当に機嫌が悪くなりそうだった。けれど、ここで余計にこじれさせても何の得にもならない。わかっていたから、努めて気持ちを静めた。
僕らは、冷たくなった校舎の中に居た。イーゼルを倉庫に戻した後、尾道が絵を理科準備室に置いておきたいと言い出したのだ。確か、「どうせ部室に来るのなら、倉庫までイーゼルを取りに行くことなかったのに」と発言した気がする。
今日の教室には誰も入っていないはずなのに、いつもと同じ香りがした。埃の匂い。絵の具の匂い。女子の香水の匂い。尾道三景の匂い。
懐かしい記憶が、雪崩れ込んできた。除光液に浸していたはずの絵画は、また急に色素の沈着を強めて、前よりも鮮やかに蘇ってしまった。
網膜の裏では、嘘の絵画の展覧会が催されている。下らなくて、愛おしい絵がいくつも並んでいる。そこから目を背けることができない。まして近づいて破り去るなんで絶対に不可能だ。
僕は、絵のあまりの稚拙さに涙を流した。尾道はまだ、それに気付けない。
「絵を、描いてほしい」
その時の僕の声は、尾道の耳にどう響いたであろうか。
「……何の絵?」
「裸夫画。モデルは僕。前に、描きたいと言っていたでしょ」
「言った。言ったけど――」
尾道は困惑を隠せない様子だった。
「わかった、今度描こう。この風景画を描き終えたら、次に取り掛かりたい」
「それじゃあ駄目なんだ」
それでも僕は、相手を困らせる言動を止めない。
「今日言えたんだから、今日描いてほしい。明日になったら、もっと先になったら、意味が変わってしまう。今日の僕を表現して欲しいんだ」
「卯城――」
その後どんな台詞を交わしたか、覚えていない。僕と尾道は、違う形で会話を始めていたから。
いつも女子部員の荷物が散乱している壁際の机の上に、僕の薄紺色のシャツが置かれた。
尾道の眼差しが、僕の体の輪郭をゆっくり、丁寧になぞる。それからその線の細い指がすっと伸ばされて、無垢のキャンバスに触れた。
指先が動く。点。線。円。複雑なストローク。僕に対する感情が表現され、熱によって伝わる。
今、どんな形をしている?
彼のキャンバスに刻まれる陰影を直接確かめることはできないけれど、限りなくそっくりに写し取った絵を、さっきのいんちきっぽい画廊の中に並べることはできる。そうすると今度の絵画もまた嘘くさく見えてくるけれど、それが美しいことにはちっとも変わりがないのだ。
似ているようで、全然違う。僕の描いた絵と尾道の絵とは大きく性格が異なるが、どっちがいいと順位づけするものではない。ただ悲しい事は、本物の存在を知った贋作はいずれ自ずから色褪せてしまうことである。
そしてきっと、真の絵画は独りぼっちになって、いつまでも暗い密室の中に閉じ込められたまま大切に保存されるのである。
だって尾道は、同じモチーフを二度と描かないのだから。
「前に、僕のポリシーを話したことがあったよね。一度描いたものには興味を失くすから、二枚目は描かないって」
「……うん、聞いた」
つい直前まで、僕が思考していたこと。
「あれね、正確な言い回しじゃないんだ。前に描いた時より上手く描けないことが怖くて、結局モチーフ自体も忌避するようになってしまうというのが真相。自分の才能が劣化していることを明示するものが、恐ろしくてたまらないんだよ」
「才能の、劣化――」
芸術家特有の悩みだろうか。僕には、いまいち感覚を再現することができない。
「中学二年生の夏まで、絵のお師匠様についていたんだ。業界ではかなり名の知れてる、大御所って言えるくらいの絵描きだった。小さい頃に才能を認められて以来、『上手い上手い』とよく褒められていた。でも、大きくなってから段々評価されることが少なくなって、しまいには他の門下生の前で公然と貶されるようになった。『君は才能を失った。以前のような魂のこもった絵が全く描けていない』って」
「ショック、だったろうね」
「悲しかったし、不貞腐れた。それで、逃げるようにして教室を脱会した。俺は負け犬さ。だから、俺の絵は下らないものだと言ったんだ」
尾道が、自分の深部を曝け出した。きっとこれは、僕だけにしかもたらされない情報。嬉しい。やはり自分は、彼にとって特別だったのだ。
だけど、最大の気がかりは別の所にあった。今通じ合う思いは、この先どうなるのか。それを知らない限り、僕の心は決して休まらなかった。
そして、訊いた。
「絵、うまく描けた――?」
「これ以上ないくらい素敵なものが描けたよ。自分にこんな美しさを表現する力があるだなんて、思ってもみなかった。卯城のおかげだよ、感謝しなきゃ」
「――そう。よかった……」
二回目の、絶望。
取り返しのつかない過ちを、自ら進んで選択してしまった。そう思うと、後悔の念がふつふつと沸いてきて、もはや発声するのも難しくなる。今声を出せば、烈しく震えて砕けてしまうのがわかりきっていた。
終わった。全て、終わった。
僕は、尾道に描かれてしまった。それも、最高の形で。
これからの僕は、彼にとって恐怖の対象でしかなくなる。辛い記憶と嫌な感情を喚起する、無用のもの。彼の隣に、居てはならないもの。居ることが、できないもの。
「どうかした、卯城?」
「――ううん。その絵、どうするの?これから色も塗るんだよね」
「こいつは家に持ち帰ろうと思う。絵が絵だし、見られたら大変な騒ぎになっちゃうもん。自宅のアトリエでゆっくり仕上げて、それからまた卯城にお見せするよ」
「楽しみにしておくね」
尾道が僕に親しく話しかけるのも、あの絵が仕上がる時までだろう。
どうにか絵の完成を妨害できないかと思案を巡らそうともするけれど、それが何らかの実を結ぶまでもなく、すぐに愚かしさに気付いてしまうのだった。
僕は、絵の中の卯城光を壊すことができない。だって、綺麗な絵の具を持っていないから。