四
待ち合わせ場所は、学校から数百メートル離れた場所にある河原だった。目印は、『バーベキュー禁止』の立て看板。約束の時間十分前に到着すると、尾道は看板から少し離れた場所に居て、既に絵の準備を開始している所だった。
「やあ、早かったね」
「尾道こそ。いつから居たの?」
「二十分前くらいかな。描く場所を決めるのに時間が掛かるかと思ったんだけど、案外すんなり決まってね。ビビッと来たんだ、ほらここ。川の流れと左右の木立ちが綺麗に画面に収まる。消失点も取りやすいし、風景苦手な俺にはぴったりだと思う」
「確かに。うん、ここがいいね」
尾道は絵の専門的な話をよくした。それに対して適当な相槌を打つだけなのが常なれど、尾道は僕が芸術――ひいては彼の創作理論をよく理解していると思っているらしい。その評価はありがたいようで、同時にそれを上回る罪悪感も少しずつ存在感を増していた。
体勢を整えると、やがて尾道は一心不乱に絵を描き始めた。こうなると話し掛けてもあまり反応がないから、大体黙って見ているだけになる。部活の時間は室内だったから全く苦じゃなかったが、屋外となると日差しが辛い。日陰が遠いので、姉から借りてきた麦わら帽子を被って対応した。
尾道は、暑くないのだろうか。ほぼ無地の白Tシャツに、踝まで覆うルーズなベージュのチノパン。格好は確かに涼しげだ。実際、視線が時折キャンバスの内外を出入りするだけで、表情は全くと言っていい程変わらない。
が、暑さの感受のしるしはしかと認められた。額から一筋、汗が伝っている。蝸牛が這うようなゆったりとしたペースで、徐々に輪郭の淵に達しようとしている。
その光景に、両目が釘付けとなった。ぴくりとも変わらぬ彼の顔色は、それだけに極限の集中と情熱を物語っている。たった一瞬でも、見逃したくない。あの大粒の水滴が顔の輪郭から垂れた瞬間、何か大きな事物が達成されるような気がしたからだ。
ポタリ。
滴が、彼の右胸の前を通って地面に染みを残した。やはりそれが合図だったのだろうか。尾道はぴたりと手を休め、そのまま腕を体側にだらんと戻して立ち尽くした。
「……下描き、終わり?」
「うん。とりあえず形はとれたかな。これから彩色するよ」
尾道は休憩するという事を知らないようだ。スケッチブックへのラフ画も含めて、かれこれ一時間以上は立ったまま作業しているのに、全く疲れた様子を見せない。
「それ、かわいい」
「え……帽子?」
「そう。よく似合ってるよ。小学生みたい」
からかいの意図も、僕にはうまく通じない。その前に「かわいい」とつけられたら、いかなる台詞も神秘の呪文に様変わりしてしまうのだ。
きっと彼ご自慢の絵の具には“魔法色”というのがあって、僕の体内は心房の裏までその色で塗りたくられているに違いない。
しかもそいつは濡らさないと発色しない特殊な塗料で、乾いた時間を送っているうちは染色に気付けないものだから尚性質が悪いのだ。
「人が描くのを見ているだけなの、退屈じゃない?」
「そんなことはないけど、暑いのがやっぱりしんどいかな」
「せっかくだし、卯城も絵描こうよ」
強引な、言い筋。尾道はどうしても、僕を絵の世界に引きずり込みたいようだった。
「うーん、でも画材持ってないし」
「こんな事もあろうかと用意してきた」
と尾道は、日陰に置いてあったやけに大きな鞄から、画板に画用紙、鉛筆消しゴム、その他絵描き道具一式を取り出して僕に押し付けてきた。
「はい、絵の具セット」
「……本当に余ってるんだね。久しぶりにこれ見たけど、ちっとも中身減ってないみたい」
入部時に買わされたというアクリル絵の具。以前も殆ど使っていないと言い放っていたものだ。尾道としては、これを僕にプレゼントしたいらしい。
「じゃあ、今日だけ借りるね」
「使ってみて気に入ったら差し上げるよ」
「それは流石に悪いよ。欲しくなったら自分で買うから」
とはいえ折角絵の具を貸し出されたのだから、その塗り心地を確かめてみることにした。パレットの中に青色の塗料を押し出す。嗅いでみると、いつも理科準備室に漂う化学的な匂い。すっかり慣れてしまって、寧ろ心地よく感じる。
「水、どれくらい?」
「好きなようにやってみなよ。画用紙が破けないならなんでもいいと思うよ」
尾道は必要最低限の助言しかくれなかった。僕の才能を過信しているからそう言うみたいなのだが、初体験のこちらとしては右も左もわからない。
僕は空らしきものと、地面らしきものを描いた。いや、紙面を二色に塗り分けたと言った方が正しいかもしれない。そこに形は見当たらない。我ながら、絵画と呼ぶに値しない代物になったと思う。
ただ、発色が違うことはよくわかった。学校の美術で使う水彩絵の具とは、出てくる色合いが大きく異なる。感触も、全然別だ。
「これ、悪くないかも……」
僕はその絵の具に評価を与えた。欲しくなったと言ってもよい。無論、尾道の所持品であるこれをただで頂こうとは思っていないが。
さて尾道は、僕の絵――とは言い難いが便宜上そう呼ぶ――を見て大笑いしていた。初めそれが何を示すかわからず、抽象的な意味合いがあるものと勘違いしたらしい。正解を告げられると、「こりゃ一本取られた」と言わんばかりに大変愉快げにしていた。
「でもすごいよこれ。ほら、逆さまにしてみると――なんと海になる!」
なるほど、波打ち際だ。画面の端から塗ったために中央の色が白くぼやけているから、余計にそう見える。
「もう俺の絵はいいから!尾道の絵はどうなったの?」
「順調だよ。川面の透明感を出すのが楽しい。けど、日が傾いてきて色味が変わってきちゃったから、今日はこの辺で終わろうかな」
気付けばもう夕方である。二人で協力して、撤収作業を始めた。筆を洗い、絵の具を元の順番にきちんと並べて尾道に返す。「ものの扱いが丁寧だね」と、褒められた。
「イーゼル持ってくるの大変だったでしょ?電車の中、邪魔になりそうだし」
「あ、これ?これは学校から持ってきたんだ」
「まさか、美術部の備品ってこと?」
「そうそう。部長に倉庫の鍵を返すの忘れててさ、持ったままだったの。丁度よかったから、昨日しまったイーゼルを拝借してここまで運んできたんだ。だから、これから学校に戻って返しに行くよ」
実にちゃっかりものである。尾道にそんな一面があるとは知らなかったから、大変驚かされた。
「俺も付き添うよ」
「卯城なら、そう言ってくれると思ってた。悪いけど、イーゼルの方持ってもらっていい?今度何か奢るからさ」
「奢らなくていいよ。そっちの荷物重いでしょ?木組み一つ運ぶくらい訳ない」
本当を言うと、頼られるだけで嬉しいのである。だから、形ある礼なんて要らないのだ。
また、うだるような大気の中を二人で歩いた。太陽がタイムリミットを告げるかのごとく、着々と西の地平線に沈もうとしている。学校が閉まるまでにはまだ十分に時間があるから、急ぐ必要はないのだけれど。
街中ですれ違う女性が、尾道の顔をしげしげと眺めているような気がする。今日は制服姿じゃないから、落ち着いた雰囲気の尾道は余計に大人びて見られるのだろう。
それが嫉妬心を呼び起こしたのか、僕はずっと聞けなかったことを口に出した。
「尾道、彼女居るの?」
隣の少年は、流し目で僕の横顔を覗いた。かと思うと、次の一秒には進行方向にある西日を、目を細くして見つめている。
実際、それは何秒間だっただろうか。タイマーが無かったから測れなかったが、途方もなく久しく、果てしない時間の滞留を感じた。
「いないよ」
肺から鉛の塊が押し出された。胸のつかえが解消されて、一気に全身が軽くなる。まさしく望んでいた通りの答えだ。逆の答えを言われた時の心持など準備していなかったが、賭けに出てよかったと思う。
そこで、満足すればよかった。するべきだった。ただ、欲張りな僕は、もっと深い部分での安寧を求めようとしてしまった。
「欲しいと思う?」
「思うね」
――次の問いには、意外なほど即答だった。
「どうして?」
「なんか楽しそうじゃない?漠然とした印象だけど。今まで誰かと付き合ったことがないから、余計にそう思うのかもしれない」
「理想像みたいのが、あるのかな」
「同じ趣味を持つ人がいいかな。どこか綺麗な場所に行って、時折お喋りしながら双方絵を描いて、作品を鑑賞し合う。そういうのに、すごく憧れている。贅沢な望みかな」
「……そう、なんだ」
それしか、言えない。脳は急に声帯への語彙供給を止めて、代わりに負の感情を凄まじい雄弁家にさせていた。
――それなら、さっきまで僕としていたじゃないか。君の望むまんまのことを、今日まさに再現しただろう?何故、叶った試しのない夢物語みたいに語るんだ!
無邪気な羨望の台詞の中には、残酷なとげが無数に潜んでいた。それが肌を刺す痛みをしかと感じるのに、僕は夢から目覚めてしまう。
尾道にとって大切な、かけがえのない人間に、僕はなれない。そんな資格はない。
どうして?絵を描かないから?違う。問題はそこにない。もっと根本的な、簡単には変えられない部分で、僕は違ってしまっている。
全部、幻だった。少しずつ形を変えて描かれた無数の連作は、まるで現実を模倣していなかった。夢中で描き溜めてきた絵画の価値が、一遍に奪われた気がした。
「俺、尾道と友達になれてよかった」
「俺も卯城と仲良くなれてよかったよ。じゃなきゃ、あまりに学校が退屈になっていたと思う」
微かな望みに懸けた最後の抵抗も、無慈悲に肯定されてしまった。
僕と尾道は、友達だった。