三
夏休み前の、最終登校日。担任に提出課題を運搬するよう求められていた僕は、放課後の職員室の中に居た。
「サンキュー卯城、助かったよ。秋の成績は贔屓にしておくな」
ひげ面の教諭原田は、満足げに礼を言うとともに拘束から解放してくれた。急な頼みには困惑したが、なかなか憎めないスマイルを持っているので、すんなり許せてしまう。
とはいえ、この長期休暇前の最終日に尾道と話ができなかったことは口惜しい。今日は顧問が不在なせいで部の活動はないそうだが、手伝いの依頼さえなければ帰り道を同じくすることはできたはずである……。
浮足立った生徒たちが闊歩する廊下と階段を経て、自分の教室に戻る。室内には楽しげに談笑する男女の集団があったが、中に親しい友人は含まれていなかった。
「やっぱり、もう帰っちゃったか」
鞄を回収して踵を返す。二階の窓を覗くと、濃い白斑を湛えた青空がさっきよりも広範囲に画面を占めていた。長い休暇の始まりを謳っているかのような晴れ晴れとした表情が、自分にとっては疎ましい。こんな事ならば、一緒に帰る約束を予め取りつけておくべきだったと後悔した。
「……あれ」
画面の上部が嫌になって俯くと、地面の近くに別の青色を見つけた。よく見慣れた、空色の輝くヘアピン。窓の外、校舎裏の地上に立つ人影は、間違いなく尾道三景だった。
「尾道!」
努めて朗らかに呼びかけると、真下に佇む少年はすぐに音源の方向を特定し、体を向き直る。その顔には、やや困ったような笑みが浮かべられていた。苦笑いとも違う、どちらかといえば甘ったるさを含んだような笑顔で、たまらなく魅力的に見える。
彼の体側には、足の部分がささくれ立った二つのイーゼルが抱えられていた。きっと、部の備品であろう。
「なんか仕事中?」
「部長に、イーゼルを運ぶよう頼まれたんだ」
大声を出すのが恥ずかしいのか、尾道は聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で返答した。そうなると、こちらが配慮してやらねばならない。
「今そっち行くね!」
急ぎ階段を駆け下りると、荷物を下駄箱棚の上に置いて外へ飛び出した。建物のまわりをぐるんと半周して、校舎裏に参上する。二階から見た時と同じ位置に留まっていた尾道は、あまりに素早い到着に面食らっていたようだった。
「原田の手伝いは終わったの?」
「もう済ませたよ。尾道も、似たようなお手伝いをさせられていたんだね」
「新学期に新しいイーゼルが届くから、古いやつは倉庫の中にしまいたいんだと。俺としては、紙やキャンバスを部費で購入してもらった方が嬉しかったんだけどね」
という尾道の願望には、あまり関心を抱かなかった。
「……尾道一人に任されたの?ひどいなあ」
「男子は俺だけだしね。それに運ぶイーゼルは六つだけ。あと二往復もすれば終わるよ」
「いいや、一往復だね。俺も手伝うから。終わったら、一緒に帰ろう」
とてもスムーズにそう言うことができたのは、尾道への親切心よりも理不尽に対する怒りの方が強く働いたためかもしれない。
口数少なく、ぼろぼろの木組みを運ぶ。理科準備室から倉庫までに階段を昇降する必要はないから、割に楽な仕事だった。
錆びついた鉄製の倉庫前に二人立つ。尾道が持たされていた鍵で錠を解くと、埃臭くてひんやりした空気が密室の中から漏れ出してきた。
同じ倉庫でも、普段出入りする体育倉庫とはかなり趣が異なった。てんでカテゴリの違う種々のものが無整理に置かれていて、一度収めたら取り出すことはしないという前提が実によく見てとれる。
ここは学校という生命体が排出した老廃物を蓄積する、秘密の臓器。暗く、人目から隠された、誰にも知られぬいのちの終着点だ。
――でも、涼しい。その一点の特徴によって、暗黒の倉庫は隠れたオアシスのようにすら感じられた。
「……どこに置けばいいの?」
「さあ、そこまでは指示されなかったな。入り口を塞がない位置に立てかけておけばいいと思う」
曖昧な指示に従って、手近な隙間――壊れたマネキンと、目盛りの掠れた身長計の間である――にイーゼルを押し込む。かなり強引に押し込んだが、尾道は僕以上に強い力でねじ込もうとしていたから、そのやり方で問題はなかったのだろう。
「終わったね、ご苦労様。さあ出よう」
埃と手汗をズボンの背で払うと、尾道は即座に退去を促した。
が、僕はそれに従えない。すぐにそこを立ち退くことを惜しいと思ってしまったから。
「どうしたの?棒立ちになって」
「あ、いや。滅多に入れない場所だから、よく見ておこうと思って」
「……それもそうだ」
と、何故だか尾道も乗り気になって、二人そこに留まる。言いだしっぺの僕はまともに観察などしていないのに、尾道ばかりが興味深げに辺りを見回しているのが余計に滑稽だった。
僕は間もなく気付いていたのだ。ここに収められている様々のがらくた等に興味はなく、隠ぺいされた暗闇の世界に尾道と二人きりで居る事こそが、特別なのだと。
「――夏休みはどこかに行くの?」
閉ざされない密室に反響する、細い声。鑑賞に夢中だと思っていた尾道が、不意に口を開いたのだった。
「お盆に田舎へ帰省する予定があるよ。あと、クラスの奴らと映画を見に行くつもり。尾道は?」
「今のところ何も。俺は、友達居ないから」
それに対して「俺が居るだろう」と返せるほど、当時の僕は強かじゃなかった。
「俺も友達多くないよ。部活やってないし、クラスでもまともに話すのは数人くらい」
「数人居れば十分だ。まだ一年生の一学期だもの」
尾道の悪い癖が出たと思った。投げかけられた言葉に対し、会話を断ち切るような返しをしてしまう。いつもならうまく立ち回れる僕も、その時は舌先がおぼついて効果的な台詞を紡げなかった。
それを察したのか知らないけれど、次の瞬間、
「俺、卯城のこと好きだよ」
尾道が、魔法を唱えた。
「すき……?」
「優しくしてくれるから。知っての通り人付き合いが苦手な性質でさ、特に初めて絡む人とは上手にコミュニケーションできない。大抵の人は、一回話しただけで見切りをつけて離れていっちゃう。でも、尾道はそうじゃなかった。しつこいくらい構いに来てくれて、おかげでやっとまともに言葉を通わす関係になれた」
「どうしたのさ、急に――」
人が変わったように饒舌じゃないか。
「言いたくなったから言っただけ。こういうの、時機を掴んだ時じゃないとそうそう言えない」
その『好き』は多分、一つの対象にのみ与えられる感情ではないだろう。もっと普遍的な――家族やペット、ものにだって付与されてしまう思い。そう理解していても、どこかもう一つの可能性を期待している自分が居る。『好き』と言うフレーズの内に、一層深い魔力が込められているんじゃないかと願ってしまっている。
「……俺も、尾道のこと好きだよ」
そうして相手の真意を測るために捻り出した言葉も、
「――ありがとう」
最も単純な日本語で効力を剥奪されてしまった。
「そろそろ引き揚げようか。今日は夕立になるかもって予報されてたから、あんまり長居しちゃいけない」
「あ……うん」
いつの間にか、話題は転換されていた。もうさっきの、息詰まるような緊張感を引き戻すことはできない。尋常の、まるで変哲のないいつも通りの会話。それが安心できるようで、かつ憎らしかった。
尾道の荷物を取るためにもう一度教室に戻った僕らは、途中すれ違った美術部の部長に依頼の完了を告げて学校を後にした。今度離れたら、次に通学するのはもう一月半後。日頃立派に感じた白肌の校舎が、今日はやけに小さく感じられた。
季節はまだ梅雨の明けきらないまま夏に突入したようで、湿気と熱気が高濃度で混ざり合っている。日頃からそう上手く働かない口先は、蒸し暑さによって一層塞がれがちになった。
「卯城、明日は暇?」
口をつぐむ僕を見かねたかのように、尾道はふと尋ねてきた。丁度、ホームに車両を迎えるアナウンスが流れた拍子だった。
「明日……別に予定ないけど、どうして?」
「河原に絵を描きに行こうと思ってるんだ。風景画、いよいよチャレンジしてみようと思って」
「本当?いいじゃん、素晴らしい決断だよ!俺もついて行っていいの?」
「一人だと、退屈しそうだから。卯城さえよければでいいんだけど……」
「勿論行くよ!明日の何時から?」
相手の方から何か誘われることなんてなかったから、すっかり有頂天になった。しかもすごく前向きで、活力に満ち溢れた提案である。気持ちが昂ぶるのを抑えようがない。
時間を決めて、集合場所を決めて、荷物の相談なんかもして、完璧な予定を立てた。まるで遠い異国の地へ旅行しに行くかのように。
「じゃあ、また明日。楽しみにしておく!」
尾道より一足早く駅のホームに降り立ち、手を小刻みに振る。彼はいつもの癖で、ドアガラスの向こう側から二本の指だけを立てて、そっと振り返してくれた。
「明日も、会えるんだ……」
なんて奇跡だろう。夏休みの最終日に『また明日』と告げられるだなんて、一体どうして予想できただろうか。
僕は得も言われぬ幸福のうちに包まれていた。少しずつ紫色に傾きつつある空が、いつまでも彼のヘアピンと同じ色に見えた。
その晩に、僕は生まれて初めて『翌日の楽しみの為に眠れない』という経験をした。「明日は尾道と二人きりである」「彼はどんな服を着てくるだろうか」「もしかしたら普段見られないような一面が覗けるかもしれない」浮ついた想像は、なかなかどうして留まる事を知らなかった。
「風景画、か。尾道はどんどん先に進もうとしているんだな」
静物画や動物画しか描かなかった尾道が、今一歩上の階層に進もうとしている。昔の美術界が決めた階級に権威を感じてなどいないが、尾道にとっては大きな勇気を振り絞った結果だったことは想像に容易い。
きっとその次には人物画を描く。肖像画ではない、一般の人間の描画がどの階層に位置づけられるのかは知らないけれど、今の彼ならば問題なく描きこなせるに違いない。
尾道は裸夫画ならば挑戦してみたいと語っていた。もし僕がそのモデルになると言い出せば、受け入れてくれるだろうか。
彼が納得ゆく出来の人物画。できれば、その最初のモチーフになってみたい。いいや、きっとそうなれるはずだ。僕は尾道にとって、心より打ち解け合った唯一の友人。彼が魅力を引き出せる存在があるとすれば、それは僕以外にあるまい。
あの人は、僕をどう描く。どんな筆で。どんな色で。どんな意味合いで。
第二理科準備室の一室で、芸術家とそのモチーフになる二人の映像を組み立てる。芸術へ安易に官能を持ち込むのは誉められたことじゃないのかもしれないけれど、脳裏の光景にはすっかり特別の色が乗ってしまって、ついにキャンバスの下地となって離れなくなってしまった。
――ただし、そんな夢幻の中でも、何かを忘れているような感覚が視覚野の傍らにずっと張り付いて、離れようとしてくれなかった。
重要な、何かとんでもなく重要な事項を一つ失念している感じがしてならない。今にも思い出せそうなのに、思い出せない。いい事ではなかったような気がする。一体、どんな出来事だったろうか……。
そいつが出し抜けに音声として再生されたのは、多分床に着いてから三十分ほど後の事だった。
「一度描いたモチーフには、関心が持てなくなる」
尾道は以前、確かにそう言った。
仮に僕の良さを十分に表現した絵を描けたなら、もう僕への興味を失ってしまうのだろうか。いつかモチーフにしたという野良猫のように、あっさりと捨て置かれてしまうのだろうか。
もしかすると、全部無くなってしまうかもしれない。水彩筆で描き残した思い出の群像が、風雨に溶けて消えゆく可能性を、どうして否定しきれよう。
甘ったるい妄想の横っ腹から、急に途轍もない不安の闇が割り込んできた。希望と危惧、相反する二つの強大な力。
具合のいいことに、それらの物量は絶妙に拮抗して、うまいこと中和された。昂奮は、完全に醒めきった。
口内には渋くて苦い、の粉末が残されている。そいつを舌の上に転がしながら、温度の無い眠りの淵に静かに落ちて行くのだった。