一
どうしても、話してみたかった。
その少年がいつも一人で過ごしていたこと、あるいは顔立ちがとても美しかったことも理由の一つに数えられるかもしれない。だけれども最大の動機はやはり、彼の醸す独特の、どこか気品高い空気感のようなものだったに違いない。
二つ後ろの席、出席番号六番。名は、尾道三景と言った。高校に入って初めて覚えた人の名だ。
尾道という生徒は、クラスから浮いていた。いいや、孤立していたとすら言えよう。ただしそれは苛めや差別の結果ではなく、彼自らが進んで作りあげた状況であることを強調しておきたい。
尾道は入学初日から他の誰とも交わろうとせず、常に一人で行動していた。そんな彼を見かねて、クラスの中心グループたる男子数人が声をかけたことがある。が、尾道は心ここにあらずといった様子で、ろくすっぽ反応を示さなかった。別の日には女子の集団が接触を試みたが、これまた取りつく島もなし。以来、彼はずっと一人きりなのである。
僕は、どうにかして尾道と関わる機会はないものかと常々探っていた。しかし、『尾道には構うものじゃない』という不文律が教室中に重く圧し掛かっており、滅多な事が無ければ自分からアクションを起こせなかったのである。
その時分は特に、“二つ後ろの席”という、近くて遠い位置関係が大変歯がゆかった。隣や前後に並んでいれば、いくらでも会話のきっかけを作り出せただろう。あるいはうんと遠く離れた席にあれば、授業中に暇を見つけてはこっそり様子を窺うことくらいできたはずだ。ところが二つ真後ろとなると、間に挟まるもう一席が邪魔となり姿を視界に収めるのも至難なのである。
尾道の顔を堂々と盗み見ることができるのは、休み時間に教室を出入りする瞬間だけだった。授業と授業の合間の僅かな休息時間にも多くの生徒が席を立つから、窓際一番後ろの尾道の席がよく見通せるのだ。彼は大抵窓の外を見ているか、次の授業の準備をしているかである。
とりわけ、一心に教科書を読み込んでいる時は幸運だった。窓からの光によって輪郭が白く縁どられた美しい横顔が、人気のまばらな教室によく映えたからである。
その画を描き表せと言われれば、「そりゃあ造作もないことだ」と一つ返事できるくらい、今でも細部まで鮮明に記憶している。細い線を束ねた光沢のある黒髪、弧を描くようにカールした長い睫毛、三角錐の型で押し固めたような整った鼻筋――どれもこれもが溜息をつくほど美しいのだが、中でも僕の感性を特別激しく揺さぶったアイテムがある。即ち、尾道の前髪とサイドヘアを分かつように挿し込まれた空色のヘアピンだ。
それは、一つの強烈なアクセントだった。ピンさえ無ければ木炭デッサンで描くのが最も適当だと思われる、彼のある種無機質な容貌も、その一点が加わることによって色彩豊かな油絵を想起させるにまで至るのである。
そのちぐはぐさ――もしくは矛盾が、余計に僕を魅了してやまなかったことは言うまでもない。
日に五回ないし六回、尾道の絵画を脳裏に描いた。尾道は昼休み以外に席を立つ事が殆どないから、このルーティンを欠かすことなく継続できたのである。「ああ、相変わらず綺麗だ」「今日は日がよく出ているから、いつもより血色がよく見える」「どんな手入れをしたら、あんなに美しい髪艶を保てるのだろう」抱く感情はさした変化もなく退屈なものだったが、飽く事は一向になかった。
そんな風にいつまでも心のキャンバスに描き続けるものと思っていた空想と憧れが、突如現実に影を落とした。それは入学から一月あまりが経った、ある昼休みの出来事だった。
「卯城、どこ見てんの?」
「え?」
無心に窓際の最後尾を眺めていたところを、級友に咎められた。箸を持つ手は動かしていたものの、会話に上の空だったところを見透かされたらしい。髪の短い運動部の友人は、僕の視線を追ってその先にある美少年の存在を認めた。
「尾道を気にしてたの?」
「……ああ。いつも一人だなって」
「話し掛けても反応ないからね。仕方ないでしょ」
君は声を掛けたことすらないくせに、よくもそんな事が言える。というやっかみはすぐに引っ込んでしまった。同席していたもう一人の友人が、次のように提案したためだ。
「誘ってみる?」
心臓が急収縮した。ただ「うん」と言って提案を承諾すればいいだけなのに、この先に直面するどんな台詞のやり取りよりも緊迫したものである。同席する友人の言葉の裏に、拒絶を期待する暗黙の意図を嗅ぎ取っていたからかもしれない。
「うん、ちょっと声掛けてくる」
でも、うんと言えた。この時の最大の勇気が二人の運命を大きく揺るがしたものと、今でも信じている。
食事を共にする級友は、今どんな顔をしているのだろうか。それを確かめるのが怖くて、ついに彼らの方を見ないまま席を立った。
机と机の間をじぐざぐに縫いながら、教室の中央から隅っこへと進んでいく。尾道は声を掛けられる数秒前から僕の目的に気付いていたようだけど、敢えて事前に面を上げる事はしなかった。そうして名前を呼ばれた瞬間、さも今存在を感知したようにわざとらしく顔を向けた。
「何?」
それが、僕と尾道のファーストコンタクトだった。
「一緒に、昼ご飯食べない?」
冷徹とすら形容できそうな無愛想な態度にも、臆せず誘いかける。元々まともなリアクションなど期待していなかったためだ。
だから尾道が、
「――いいよ、一緒に食おう」
と答えた時には、驚きのあまり暫く固まってしまった。
「そっちに合流すればいい?」
「……そうしてもらえると助かるかな。もう一席用意しておくね」
かくして、尾道と昼食を共にすることになった。孤高の少年尾道を、口も利いたことがない男子生徒三人が取り囲んでいる。
頗るおかしな光景だ。万の道を彷徨った僕の妄想も、流石にこの絵面までは映し出せていなかったものである。
僕の真向かいに座った尾道は、何も告げぬまま弁当に箸をつけ始める。気まずいとか、決まり悪いとか、そんな感情一切抱いてなさそうな胆力に、僕らは思わず閉口してしまった。
――さあ、どうしたものか。尾道以外の三人はしきりに目を泳がせながら、互いの出方を窺っている。誰かが口火を切らねばならない。ゲストを連れてきた者が舵を取るべきだろう。しかし、適当な話題が見つからない。この無言の場で脈絡なく口を開くこと自体、甚だハードルが高いと感じられる。
その内に、尾道を特に不得手とする運動部の級友はだんまりを決め込んだようだ。視線を斜め下に固定して、ひたすらに弁当を貪っている。「俺はもう知らん」と言わんばかりに。
何の言葉も交わされぬまま数分が経過した。このままでは空気が悪くなる一方だ。どうにか気の利いた台詞を……と思案している間に、もう一人の友人が沈黙を破ったのだった。
「尾道くん、下の名前は三景って言うんだね。風流な感じする」
それは、いつか雑談の端緒として切り出そうと思っていたトピック。上等なチョイスだと評すると同時に、先を越された悔しさが入り混じって、おかしな気分になった。
「……そうかな。ありがとう」
会話はすぐに打ち止めになる。が、話のタネがこれで尽きた訳ではなさそうだった。文化部の友人は、間髪入れずに次の一手を繰り出す。
「尾道くんは、勉強得意?それともスポーツ派?」
「運動は苦手かな。勉強も、別に得意じゃないけど」
悪くない質問だ。ここぞとばかりに、すかさず援護射撃を加える。
「でも、休み時間にはいつも教科書を読んでるよね。本読むのは好きなんじゃないの?」
「暇でやることがないから読んでるだけ」
……砲撃は不発に終わった。さっきよりも一層程度の悪い気まずさが、ひし形のランチテーブルを覆う。沈黙を貫かんとする者はよいが、頑張って会話を試みている者からすれば居たたまれないまでのムードである。
その後にも多岐に渡る質問が五、六投げかけられた。が、尾道は決まって会話を断ち切るような受け答えをするので、話は殆ど広がらなかった。
それでも、僕がした問いかけには幾分熱心に答えてくれているような気がして、懸命に会話を繋いだ。発言の六割以上は僕のものだっただろう。傍から見れば張り切って空回りしている滑稽ものに見えたに違いないが、当時の僕には己を客観視するだけの余裕はなかったのである。
「――なんか、思った通りって感じだった。すげえ無口」
会食を終えて、押し黙っていた方の友人が唐突に口を開く。その無遠慮な言い草には、少なからず不快感を覚えた。
「緊張してたんだよ。俺たちとは全然話したことないし」
「そうかなあ。他の奴にもあんな感じじゃん?」
「まだ仲良くなれてないからでしょ。もう少し親しくなれば、きっと雰囲気変わるよ」
という自身の言葉を、この時点では殆ど信用していなかった。尾道はどこか高嶺の花のような存在で、僕らのような卑しい人間とは付き合わないものと想像していたためだ。いいや、あるいは暗にそれを望んでいたのかもしれない。
次に尾道と会話したのは、翌日の昼休みのことだった。前日のような昼食会を習慣にしようと思って、再び膝を交えようと誘ったのである。
「いや、今日はやめとく」
勧誘は、簡潔に断られた。
「――どうして?」
「俺が一緒だと、皆楽しくないでしょ」
「そんなことは……」
「流石にそれくらいはわかるよ。気遣わせたくないから、三人で食べて。俺はここで食うから」
悲しい拒絶だった。尾道は自分の立場を判って、同席を固辞している。
「ああ、そうですか」と言ってしまうのは容易い。しかしここで退いてしまえば、せっかく微かに芽生えた繋がりが千切れてしまうのは明らかだった。
「だったら、二人で食べよ。俺、この席に弁当持ってくるからさ」
それが嫌で、とても意固地な提案をした。
「卯城と、二人で?」
「うん。やだ?」
「……それならいいよ。俺もそんなに気張らなくて済む」
その時の喜びをどう表現したらいいか、未だに上手な言葉を見つけられていない。誘いが受け入れられたことばかりが嬉しいのではない。自分の特別性を認められたことが、何よりの幸福だったのである。
二つ手前の自分の机を運んできて、彼我の席をくっつけた。尾道と、向き合う。昨日も同じように相対したのに、左右に他人がいないだけでこうも景色が変わるのかと、不思議な感動を覚えた。
「いつも一緒に食べる二人はいいの?」
「断りとかは入れてないけど、見れば察するでしょ」
「そうだね」
なんだか昨日よりも緊張少なく話せた。周囲の人間関係について、気を揉む必要が無くなったためだろう。
「尾道くんさ、」
「くん付け、やめよう」
「えっ。……ああ、くんで呼ばれるの嫌だった?」
「嫌ってほどじゃないけど、変じゃん。俺も呼び捨てにしてるからさ」
「わかった、じゃあそうする」
言われてみれば、確かにおかしな話だった。他の男子は皆呼び捨てなのに、尾道にだけ『くん』を付ける。他と異なる扱いをしていることが丸わかりである。
「なんで昼飯誘ってくれたの?」
「……昨日の事?今日の事?」
「両方」
「尾道が一人で食べていたから。きっと寂しいんじゃないかなと思って」
「ふうん」
含みのある調子だった。まさか下心があるのが見透かされているではと危惧したが、それはどうにも確かめようがない。
口と目を食い違いに動かしながら、対面する少年の動きをよくよく観察する。尾道の食事の仕方は、非常に上品に映った。
元々大きくないミートボールや卵焼きの一切れを箸で半分に分けて、小さなこま切れを口元に運んでいく。それが正しい作法なのかはわからないけれど、僕の全注意力を奪うくらいには風趣に富んでいた。
「ごちそうさま。じゃあまた」
「ん、またね」
結局またも、尾道の琴線に触れる言葉を見つけられぬまま食事は終わる。なのにどこか満たされて、浮ついた気分になるのはなんでだろう。
次の約束は気恥ずかしくてできなかったが、明日も一緒にお昼を摂ろうと心に決め込んでいた。そういう意味での、『じゃあまた』だった。
尾道と昼食を共にするようになってから一週間が経った。僕らの関係には何の変化も訪れていない。
日付は五月の半ばまで進行していた。陽気は例年より盛んに奮っていて、シャツの下が汗ばみそうな放課後の夕暮れ。昇降口で、偶然尾道と居合わせた。
半袖のYシャツを皺なく着こなす尾道は、下駄箱の扉に手をかけんとしているところだった。
「やあ。いつもこの時間に帰るの?」
と自然を装って問いかけながらも、僕は知っていた。尾道は普段、この時刻に下校することがないことを。
「今日はたまたま早いんだ。卯城は、大抵この時間?」
「部活やってないし、いつもは授業終わったらすぐに帰るよ。ちょっと教室に残って駄弁ってたから、今日は放課後から三十分遅れ」
「へえ」
返事を聞いているのか聞いていないのか、尾道は背を向けたまま外靴を取り出し、履き物を替え始める。動作が非常にスムーズだから、こちらがもたもたしているとそのまま置いて行かれそうである。
「尾道、どっちの方向?」
時間稼ぎも兼ねて、呼び留める。
「普通に駅まで。そこから、新宿方面」
「じゃあ同じ方向だ。一緒に帰ろう」
「え。――うん、いいよ」
あんまり嬉しくなさそうである。昼食時に席を合わせるのと、帰り道で肩を並べるのとは、彼にとって全然違う意味合いらしい。
校門前の坂は黄色く染まっていた。滲んだ光が路面に乱反射して、実際以上の生温かさを感じる。尾道は、アスファルトの舗装路を音もなく歩いた。履き慣れていないローファーのせいで余計に音を立ててしまう自分が、無性に恥ずかしくなる。その音をかき消すように、取り立てて意味のないことを尋ねた。
「最寄り駅どこ?」
「下北沢」
「結構遠いね。時間かかるでしょ?」
「歩き含めて一時間強。大してかからないよ」
「俺は一時間超えるときついかも。往復で二時間半とかでしょ?しんどいしんどい」
駅に着くまで他愛もない会話をずっと続けていたが、内容はあまり覚えていない。というのも、意識の先が周りを歩く生徒たちの存在に向けられていたからだ。
あの女子は同じクラスの生徒だ。一緒に帰宅する姿を見られたら、何か噂されるかもしれない。明日になったら、クラス中の者が変な目で見てくるんじゃなかろうか。意地の悪い男子に知られたら、怪しい関係だってからかわれる可能性もある。そんな杞憂に等しい懸念に駆られて、いつまでも夢想状態だった。
直方体の白い車両の中に乗り込むと、僕も尾道もいくらか調子が落ち着いた。尾道がいつも乗り込むという最後尾の車両には同じ制服の影は見当たらず、周囲を気にする必要が無くなったのである。
とは言っても、急に口達者となってあれこれ語り始めた訳ではない。尾道は生来寡黙な性質であることは既によく知れているし、僕だってあまり話が上手な方ではない。
時々、何か思い出したようにとりとめもないことを口にするくらいで、あとは黙って外の景色や車内の広告に目を移ろわせるばかりだった。
ようやく有用な――とはいえ、当時はそんな意図はなかったのだが――台詞を吐けたのは、最寄駅の一つ手前を発車したタイミングだった。
「ヘアピン、似合ってるよね」
「ああ、これ?」
と、尾道は髪に挿したピンを引き抜いて、右手にちらつかせてみせる。なんだか自身のパーツを取り外してみせるサイボーグの様を目撃したような気分になって、妙にどぎまぎした。
「髪が散らかるのが嫌だから、ピンで分けてるんだ。妹のを拝借してるから、こんな派手な色なんだけど」
「でも、よく似合ってるよ。尾道にぴったりだと思う」
「そうかな。青色だし、誰にでも似合うと思うよ。卯城にだってきっと。つけてみなよ」
と、尾道は僕に宝石を差し出す。
「俺はいいよ!絶対似合わないし、恥ずかしい」
「そんなことないって」
半ば強引に拒絶を退けると、尾道はなおも優しい手つきで僕の髪をかきわけ、二度三度迷いながらヘアピンを挿し込んだ。
抵抗は、一応試みた。が、変に暴れる方がよりみっともないことを悟って、すぐになされるがままになったのだった。
「……で、どう?」
「うーん、俺の方が似合ってるかなやっぱり」
尾道が、初めて発した冗談だった。くすくすと、いたずらの大成功を見届けた子どものように無邪気な笑いを漏らしている。
僕の中の尾道が別の色合いを含んだのは、まさしくその瞬間だった。