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ペトリコールに浮かんだ恋

雨が降る前の匂いをペトリコール

雨が降った後の匂いをジオスミン


何日も続く雨が六月を支配して、花緑青は青々と雨露を滴らせては光っている。


快晴。雲は一つもなく昨日までの憂鬱が嘘のようである。足元に見える水たまりも、車がはねた泥水も、全部今日の終わりには干上がってなくなるのではないかと思うくらいの暑さであった。


雨上がりの朝に香る特有の匂いが鼻を掠め、息を大きく吸い込んでは数秒留めて吐き出した。決していい匂いとは言えないだろう。雨上がりの泥水の匂い、石の匂い、草花の匂い、地面の、アスファルトの匂い。全てが混ざり合って新たな匂いを作り出している。しかし、懐かしい気持ちになるのはなぜだろうか。子供の頃から意識せず匂っていたからだろうか。住む場所が変われば匂いは変わる。その土地によって混ざり合う土の配合が違うからか。一見して同じに見えるが、ビル街の隙間でジオスミンが香りにくいのはそういうことだろう。


「でも私は雨の降る前の匂いのほうが好き」


そう言った彼女は僕の少し前を歩いていたが、振り返って高い位置に一つ結びにされた髪を尻尾のように揺らした。首筋の後れ毛が無造作に出ている。彼女はそれを気にしていたが、そこまで気にしなくてもいいんじゃないと僕は言った。むしろそれが男にとっては好物だとは言うまいが。


「ペトリコール」


「雨の降る前の寂しそうな匂い。そっちの方が好きかな。ああ、今から雨が降るなって感じが」


「昨日は雨が降るって言ってすぐ帰ろうとか言ってたくせに」


「雨の降る前の匂いが好きかと、雨が好きかは結び付かないのだよワトソン君」


得意げに笑みを浮かべた彼女の足元に大きな水たまりが見えて、僕は思わずその腕を掴んだ。彼女は僕の方向へ身体を傾けたが転ぶことはなかった。


「水たまりに突っ込むよ、足」


「せっかくおろしたばっかりのサンダルが駄目になるところだった」


白いリボンがついたコルク生地のサンダルは小さくて、そのつま先を彩る色は夏を迎えるための鮮やかな色であった。汚れ一つないその靴を今日履くのは選択ミスであろうと思ったが、それを口にすると不機嫌になるのは間違いないので黙っておく。言わない方が良いこともある。


新しいサンダルのせいか、歩きにくそうな彼女の手を取って僕は歩き始める。水たまりを先に片足で跳んで彼女を見る。僕の手を強く握りしめて勢いよく跳んだその姿は軽快であった。


「さっきの話、ワトソン君」


「まだそのワトソン君使うんだね」


「何で私がペトリコールが好きかって話」


「ああ、無視ね。はいはい、どうぞ」


少し下を向きながら歩く彼女は嬉しそうで、時折見える横顔からは口角が上がっているのが見えた。


「雨が降りそうな匂いがしたらね、ああ、今日は二人でいられるなって思うの。こうやって外に出てどこかに出かけるのも好きだけど、雨の降っている日に電気のつけない部屋で、二人で他愛もない話をする瞬間が私は何にも代えがたいくらい好き」


君と暮らしてから分かったことだ、と彼女は言葉を続けた。


「鼻がツンとして寂しくなる匂いを嗅いだ時、ああ、会いたいなって思ってたの。一人で過ごすには感傷的だけど、二人でいればその匂いが温かな思い出になる。アスファルトの匂いや、土とか草木、地面の石の匂い。くだらない話をしながら共有できるっていうのがとても素敵な事だって思うようになった」


だから好きだ、嬉しそうに君は頬を綻ばせる。少しだけ顔は赤くなっていて照れているのが分かった。


「きっと日常ってくだらないことの連続なんだよ。似たような会話をして、似たような季節を過ごして、くだらないことを口にし続ける。でも、ふとした瞬間に共有してくれる人がいることがどれだけ贅沢なのか、どれだけ幸せなのか分かるの」


「例えば?」


「昨日話したあのドラマの続きとか、雑誌に載っていた時計が格好良かったねとか、生乾きになっちゃった洗濯物とか、ちょっと失敗した夜ご飯とか、君の匂いとか」


「まさかあの子が犯人だったとはとか、その隣の服が君に似合いそうだったとか、生乾きのまま着たとか、火をかけすぎたカレーとか、同じ柔軟剤を使ってるはずなのに違う匂いだとか」


「あれは一生の謎だね。何で同じ匂いじゃないんだろうね」


繋いだ手を振り回す彼女はまるで子供のようで僕の眉が下がって笑みがこぼれるのが分かった。


「くだらないことの連続ね」


「そう、雨の日はそれを凄い感じるから降る前のペトリコールが好き」


「僕はそれでも降った後のジオスミンが好きだけどね」


「どうして?」


足を止めた彼女は首を傾げる。


「君とこうやっていつまでも雨上がりの日を歩いていたいから」


この匂いが鼻を掠める度に、何度だって今日を思い出して、何度だってくだらない話をするだろう。何度だってその手を引いて、何度だって共に歩くだろう。それでもやっぱり雨上がりの空の下を歩く彼女が眩しくて、ジオスミンが鼻を掠める度にその笑顔を思い出すし、彼女は彼女でペトリコールが香る度に狭い部屋で過ごす時間を、他愛もない会話を思い出すだろう。


それが一生続いていけばいいと思いながら、六月の雨上がりの空を仰ぎ花緑青を目に入れていたら水たまりに足を踏み入れて笑われたのは全部、二人で歩く幸せを教えられた、君のせいだと言おう。

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