秋に紅灯、
大人になっても、まだ君が好きです
目の前の光に目が眩んだ時、思い出したのは誰かとの恋の痕だった。
日中は照り返すような日差しで、こんなにも寒くなるとは思わなかったと、廊下の片隅で独り言ちた。
日が暮れてあたりはダスティブルーが支配し始める。しかし校舎は騒がしくて色めきだっている。階下の広場に集まった生徒がこちらに手を振ってきたから軽く返した。男子生徒のグループは大声で、「先生こっちに来ないの?」と叫んでいる。私は笑いながら、「君たちの後片付けで忙しい」と声を大にした。
本当は嘘だ。文化祭の後片付けなんてもうとっくに終わっている。振り向いて去っていく背中が、記憶の中の誰かと重なって眩しく感じられた。一人が女子生徒に声をかけられて集団から抜ける。仲間たちは野次を飛ばしていて、女の子は照れながら彼の腕を引っ張っていった。
若いなと思いながら窓の外、陸上トラックを眺めた。教室の鍵を閉めておくのでと教頭に行って構内の見回りに回ったが、教師陣も多少浮かれているようでここでサボっていても、階下から笑われるだけで特に怒られる様子もなかった。
「だって一番いい席で見たいじゃないですか」
教室のベランダでたった一人、手すりにもたれかかっている。学生の時はこの席で見れなかったなと思い出した。案外いい身分になったもんだ。
下には続々生徒たちが集まってきている。文化祭で使った段ボールを地面に敷いてその上に座るという賢い選択をした子たちもいたが、ちゃんと帰りに捨ててくれよと呆れ笑いをしてしまった。ああ、でも自分が学生の時もそうしたっけななんて、十年以上も前の出来事を思い出した。
母校の教師になってから早数年。後夜祭に上がる花火を見るのは実はこれが初めてだったりする。学生時代には三年間欠かさず見ていたのだけど、教師になってからというもの、文化祭の後は仕事が忙しく、羽目を外す学生も多かったためその見回りにあたっていた。だから、実は教師になってからはこれが初めて。
あの頃と変わらない制服の子供たちが色めきだっていて、今か今かと紅灯が上がる瞬間を待っている。今日何度目か分からない、若いなあという言葉を呟いて紅灯を待つ私もまだ子供と言えるだろうか。ただ、歳だけを重ねた。あの子たちと同じ考えを持っているだろうか。そんなくだらない事を考えていた時、アナウンスが聞こえて、生徒たちのカウントダウンが聞こえた。
「あ」
声が漏れた瞬間、空に一筋の光が打ちあがり、赤い大きな花が咲いた。歓声と共に降ってくる灰の中、君の背中が見えた。
君は制服を着ていて、教室の隅の席で伏せて寝ていた。隣に座っていた私はノートを一切取らない君に小さく声をかける。シャープペンシルの反対側で軽くつつけば、少し不服そうな声と共に顔がこちらに向いた。
「当たるよ」
小さい声で。私は黒板を指さす。教師は質問する生徒を選んでいた。
「大丈夫だよ」
小さい声で。低く優しい声が聞こえる。私は知らないといわんばかりに顔を背けた。そしたら案の定、君は当てられて飛び起きる。その様子がおかしくて、小さく噴き出してしまった。答えて席に座る君が腕に軽くデコピンをするから、もう一度そちらを見る。
「言ったじゃん」
「くそ」
一気に不機嫌になった君の姿がまたまたおかしくて。私は笑いが止まらなくなって肩を震わせた。最初は嫌そうにしていた君だったけど、最後には呆れてほほ笑んだ。その笑顔が、眉尻を下げた優しい笑みが。
花火の音と共に消えた。
「え…」
突然のフラッシュバックに驚きを隠せない。あたりを見渡せば先ほどと同じ、歓声と生徒たち、爆音で上がる花火が見えるだけだ。
再び。ヒュルヒュルという音が聞こえ空を見上げる。夜空に咲いた紅灯が綺麗で。
君が見えた。
初めましての挨拶は売り言葉に買い言葉。腹が立った私を見て君は笑っていた。
話したこともなかったのに体育祭で突然接近してきて、ハイタッチを強要されたこと。
なぜか一日時計を交換したこと。朝来たら私の席に座っていたこと。それも何度も。何十回でもおはようと言って、ばいばいと返したこと。少しずつ、不器用な君が口を開いてくれたこと。
同じ委員会で一緒に居残りをした日のこと。私の愚痴を聞いてくれたこと。逆に聞いたこと。
くだらない。くだらない日々が、紅灯を見る度に何度もフラッシュバックする。有り触れた日常の、憶えてもいない一コマの連続で。君は笑っている。眉を八の字にして、口角を緩め変わらぬ笑みを浮かべている。
もう一度。紅灯が咲く。
その背に体を預けたこと。大して変わらぬ身長で、自分よりずっと大きかった手が私の手に触れたこと。その身長を気にしていたこと。見知らぬ後輩に好かれるくらい人気だったこと。でも君の眼中にはなかったこと。あの日、文化祭で後輩の女の子と写真を撮ることを強要された君を遠くから見ていたこと。本当は嫌だったこと。でも言えなかったこと。模擬店で一緒に当番をしていたこと。なぜか隣にいたこと。私がナンパにあっているのをさりげなく助けてくれたこと。それが嬉しかったこと。
もう一度。
寒がりの私に何度もカーディガンを貸してくれたこと。ネクタイピンを忘れたとか言ってなぜか私に借りたこと。他のクラスに友達が沢山いるのに、なぜ同じクラスでと疑問に思ったけど嬉しそうだったからいいかと思ったこと。後輩の子も、君を好きな子も知らないその表情を、私だけに見せてくれたこと。優しさを、私だけにくれたこと。
もう一度。
傷つけたこと。本当は寄り添わなくちゃいけなかったのに、支えたかったのに。子供だった自分にそれが出来ず君を傷つけたこと。少しずつ離れていったこと。
ばいばいも言えず最後になってしまったこと。
君が笑って私の名前を呼んだ。見た目によらない男前の声だ。低くて優しくて落ち着く。大好きな声だった。君の隣でだけは息が出来る気がした。辛いことがあっても、癒される気がしていた。
遠くなっていくその背に手を伸ばして掴もうとする。
「待って!」
大きな爆発音が聞こえ我に返る。いつの間にか花火は終わっていて生徒たちの拍手が暗闇の中で反響していた。ここはどこだ、と考えて私は今学校にいて見回り中だと思い出す。立ち上がる生徒たちを見て、自分の役目を思い出しベランダを後にしようと足を進めた。つもりだった。
「あれ」
地面に水滴が零れている。それが自分の頬を伝っている涙だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
拭っても拭っても収まらないそれを見て、胸が苦しくなってしゃがみ込む。よく分からないくらい嗚咽が出て、心臓が締め付けられるように痛い。
ああ、そうか。忘れ去ろうとした痛みはまだここにあったのだ。溢れ続ける涙が視界を歪めている。寒くなってきた風が身体を震え上がらせた。けれど、もう、カーディガンをかけてくれる人はいない。隣で悲しみを共有してくれる人もいない。何も言わず、背を預けてくれる人もいない。
「馬鹿みたい」
もう戻れない青春の中で微笑んでいる君はいつまでも綺麗で。取り残された私はただ一人、君の思い出に浸り失った恋の悲しみに嘆くしかないのだ。
秋の風はいつまでも、私の身体に吹き付けていた。