晩夏に空想、
次のお話の前日譚。晩夏のお話。
ばいばいもいえないまま、ずっととおくにいってしまった
さようならと。ただ一言、言えたなら変わっていただろうか。いずれは終わる運命だとしても、この想いは消えてくれただろうか。言っても変わらなかっただろうか。そんなのはもう分からない。ここは言わなかった先の未来であって、言った先の未来はどこにも存在しないのだから。
ただ、ひたすらに。まっさらな画用紙に、絵を描き続けている。間違えては消して、頭を掻きむしっては紙を捨てた。色づいた原稿用紙。こんな紙の上でしか君は生きていない。
思い出しては書いて、想っては書いてを繰り返し続けた。陽が昇り、傾くまで、同じ体制で机に向かい続けた。
汗ばむ指先が、緩む涙腺が。もうここにはいない君を象徴しているようだった。変わらないように、忘れないように君が主役のお話を描き続ける。三割がフィクション、七割が現実の物語は僕が思うよりも上出来で、完成したその瞬間、何かが消えた気がした。
夜が明けて陽が昇るのと同じように。君を失った僕はずっと、暗闇の中を一人で歩き続けた。終着点なんて分からずに、重たく動きたがらない足を引きずった。君がいなくなったあの日から、僕だけが先に進みたくはなかったのだ。一人ぼっちの夜道は怖くて、振り返ったらもう二度戻れないと確信した。それでもただ、歩き続ける。傷ついても、一人ぼっちでも、苦しくても、悲しくても歩き続けた。雨の日も晴れの日も雪の日も、あの日と同じ風が吹こうとも。止まることを許されなかったように歩き続けた。
そして、夜が明けた。
薄く開いた障子の隙間から、朝日が入り込んで机の上を照らしている。原稿用紙はキラキラと輝いて、この世のものではないくらい美しかった。
朝日に目を細めた時、自分の中で何かが消えた気がした。頬を涙が伝っていく。とめどなく溢れるそれは、視界を滲ませるのには充分過ぎた。
空想を描いていた。君がいる世界の空想を。しかし、どうだろう。いざ完成した時、君を失った虚無だけが僕を襲った。心の真ん中にぽっかりと空いた穴を埋めるために描いた空想は僕に君を諦めさせるには充分過ぎる理由だった。
会えなくなった人を頭に描いた。いなくなってしまった想いを探した。遠くに行ってしまった君にさようならを言いたいがために書いた空想の物語は、ここで終わりを告げる。
生ぬるい風が髪を攫っていく。風鈴が一度だけ鳴った。煙草を咥えて火をつけた。一度大きく吸い込んでむせた。何度も何度も咳き込んだ。想いを忘れるために始めた反抗は、まだこの身には慣れてくれない。灰皿に押し付けて火を消す。いつか、これが慣れてしまう頃には君のことを好きではなくなるのだろうか。
夏。空想を描き続ける。遠くから蝉時雨が聞こえた。切ないその声音は晩夏の合図だ。
いつか。この空想が遠くに行ってしまった君に届くまで。僕は絵を描き続けよう。