拝啓、愛おしかったはずの君へ
君が言った言葉が、今もまだ、僕の心の中に生き続けている。
追想も追憶も、似てるようで意味は少し違う。追想は誰かを想う事、追憶は誰かを思い出す事。そのどちらも、古い過去の出来事に関係している。
過去はいつも紺碧の夜空だ。大星雲のような、記憶のほとんどにもやがかかっている。その中で忘れられない出来事だけが、紺碧の夜空に白い点を成して美しく輝いている。手を伸ばせば届きそうなのに、それは随分遠い所にあって二度と戻れない場所にいる。月はどこかに消えてしまったのだろうか。過去の記憶は星ばかりで、一番の光はどこにもいない。古い過去を誰かがセピア写真のようだと言ったが、僕の脳内では、いつも夜空しか見えないのだ。だって、まだ。過去と思いたくないから。
過去と受け入れてしまったら、この脳内に広がった夜空はセピア色になるだろうか。星は消え、もやも崩れ去るだろうか。それを簡単に出来たならよかったけれど、人間というものはノスタルジーが好きだ。追想を、追憶を、簡単に消し去ってはくれないだろう。
思い出は美化される。君が世界で一番綺麗ではなかったのに、記憶の中の君はこの世界に生を受けた生物の中で一番美しかった。夕暮れ、潮風、砂利道を裸足で歩いた真冬の日。水平線に落ちる太陽を背に笑った。君が背景に溶ける。あの瞬間は今でも思い出せるのに、その後どうやって帰ったかはどれだけ頭を抱えても思い出せはしないんだ。
踏みしめた砂は柔らかかったと記憶している。けれど、今同じように真冬の海で裸足になって踏みしめればどうだろう。固い。寒い。ノスタルジーなんてありはしない。現実がただ、そこにあった。
夕暮れが世界を染める。落ちかけた空の上は暗紅色に染まっていた。紫色の雲が宙に浮かんでいる。太陽が揺れた。水平線にゆっくりと落ちていく。背景に溶けた君はもう、ここにはいなかった。
何てことのない恋の終わりだった。上京と共に離れていって、やがて連絡も取らなくなり、さよならの言葉を告げる留守電だけが残っていた。
忙しかったと言えばそれまでだろう。新しい環境に馴染むために頑張り続けた。新しい土地、新しい友人、不安もあったけれど全てが全て、新鮮で楽しくて、待っていたはずの人を蔑ろにした。一夜限りの浮気だってしたし、本当はもう好きじゃないかもしれないなんて思った。私と友達、どっちが大事なのと言われた日には、こんな面倒な事を言う人間がまだこの世に存在したのかと呆れた。クッションを投げられて目を腫らした君を、追いかけることもしなかった。そこから別れは加速した。メッセージが来なくなり、忙しさは加速し、そのうち機嫌を直すだろうとほったらかしにした。さようならを告げた留守番電話の声は震えていた。
よくある話だ。上京と共に彼女と別れる。何てことのない、有り触れた恋の終わり。けれど、なぜだろう。そうなってしまったのは自分のせいなのに、この目から流れる涙は止まりそうになかった。
セーラー服でマフラーを巻いて、段差の上を軽快に歩いていた。手を繋いで転ばないように気を付けながら、僕は君を見続けていた。一本結びにされた黒髪が、風と共に舞って背景と同化していく。幾度となく繰り返されたその瞬間が、もう二度と見られない事に気づいてしまう。
この町にはあの頃の僕らの影が溢れている。どこを歩いても思い出が居座り続ける。あの日、背景に溶けた君は、僕の世界で一番美しく、愛おしい存在だった。
涙が止まらず、太陽が水平線に消えていった。
僕は背景に溺れる。