君が人魚になった日の話
泡になって消えるハッピーエンドなんて、君は望んでいなかったから。
ずっと、君と一緒に飛びたかった空だ。
幼馴染と言えば聞こえは良いだろうか。彼女はどう思っているのかは分からないが、とりあえず、僕には幼馴染がいた。その子は酷く臆病で口下手で、あまり声を発さないような、目立たない子だった。長い黒髪で目を隠しながら、ジーンズ生地のジャンパースカートを履いていて、いつも何かの陰に隠れていた。一つ年上の僕は彼女の引っ込み思案を見かねて、出来る限り日向に導いていた。
外よりも中が好きだった。鬼ごっこよりも読書の方が好きで、一人でいる事が好きではないくせに一人でいたがるような子だった。僕はその手を引っ張って外に行くのが日課になっていて、彼女が読書を始めた時には、隣でお絵かきをしていた。
傍から見たら面白くない子だと言われるだろう。可愛くない、子供らしくないとも。けれど僕は知っていた。彼女は口下手なだけで、本当はとっても優しい事。些細な事に気づいて、誰にも感謝されない事をやってしまう事。長い前髪で隠れた顔が、本当はちょっと可愛い事。僕は幼いながらに君に恋をしていた。
中学生になって、僕らの仲は一変した。僕は思春期特有の反骨精神を抱いていたし、女の子と一緒にいる所を見られたくなくて君を避けていた。君は変わらなかったのに、僕だけが君を突き放した。君がクラスでのけ者にされているのを知っていながら、僕は助ける事が出来なかった。結局そのいじめは何とかなるけれど、君が一番辛かった時に、僕は傍にいれなかったのだ。
そして今も。
君が人魚になってしまう前に、僕は気が付けなかった。
「何でそんなに悲しそうな顔をしているの?」
車椅子に乗った彼女が笑っていた。あの頃の口下手な君はどこに行ってしまったのだろう。君はよく喋るようになった。大人しくて控えめだった君はどこにもいない。車椅子に乗りながら笑って、明るく馬鹿をやっていた。その変わりように、僕はついていけないままでいる。
「お前、昔の方が可愛かったなって」
「何それひどーい」
ケラケラ笑いながら病院の敷地面積を歩く。初夏の風が、彼女の黒髪を攫って行った。庭先には風船葛が巻き付いていて今にも飛び立ってしまいそうだ。
「だってそうだろ。昔のお前はいっつも俺の後ろに隠れておどおどしてた。そんなはっちゃけた奴じゃなかった」
「まあ確かに」
「おしとやかな方がモテるんだよ」
「かもね」
「適当だな」
あの頃の泣き虫だった君はどこかに消えた。今だって車椅子の生活が辛いはずなのに弱音一つ吐かず笑っている。何だったら今、僕に車椅子を押させておいて、自分はアイスを口にしている。随分なご身分になったものだ。
「溶ける溶ける」
「じゃあ病室で食えよ」
「分かってないなあ。外で食べるから風流なんだよ?情緒よ、情緒」
「食うの遅いくせに」
食べるのが遅いのは変わらずに。零れたアイスはもう動かない足を隠すようにかけられたひざ掛けに落ちて行った。
「ああー」
「だから言っただろ」
「ティッシュー、ウェットの方ないー?」
「あるわけねぇだろ、ドライの方で我慢しろ」
ポケットティッシュを差し出してそのアイスを拭き取る。いつの間にか庭先を抜けて、シーツが干されている洗濯物スペースに入ってしまったようだ。近くに見つけた自動販売機で飲み物を買うために、一旦車椅子から手を離す。彼女は真っ白のシーツの間から空を見上げ、同じ色のアイスバーを空に掲げた。僕は遠目でその姿を見ながら炭酸飲料を口につけた。食べかけのアイスはきらめいている。
「そんなに好きかい?」
空が。僕は指を差す。彼女はアイスを口にしたまま、雲一つのない空を仰いだ。
「好きよ、飛べたらいいのにと思う」
けれどその青が海に見えてしまうのは何故だろうか。君の足がもう二度と動かないからか。その長い黒髪が人魚のように流れ落ちているからだろうか。君が妙に饒舌になってしまったが故か。
不意に、風が彼女のひざ掛けを攫って行った。あ。と小さな声を漏らした彼女は、最後の一口を口にした。隠れていた足は酷く痩せ細っていて血管が浮き出ている。青白く骨と皮だけ繋がれたこの世のものとは思えないそれに、もう彼女は無関心だった。
僕はひざ掛けを拾って何度か払い、彼女の膝にそれを戻した。先程零したアイスの染みはもう目立たなくなってしまった。
「汚れてなくてよかったね」
「ありがとう」
ついでに僕に食べ終わったアイスの棒を渡してくるあたり、図々しいなと思う。こんな奴が簡単に消えるなんて思えないから、多分一生この腹立たしい奴に振り回されるんだろう。足なんて動かなくても、君が君である事に変わりはないから。
飲み終わった缶の中にその棒を入れゴミ箱に投げ入れた。分別しろと怒られるかもしれない。でも今日くらいは許してほしいなあと思い彼女の隣に目線を合わすようしゃがみ込んだ。この視線から見る空は随分遠くて子どもの頃を思い出した。
「いつか、連れてってあげるよ」
「どこへ?」
「空」
海の底になんて沈んで欲しくはないから。僕は立ちあがって再び車椅子を押し始める。
「今日はここまで。身体に触るから」
「ケチね」
「何とでも言ってくれ」
ブーブー文句を言う彼女を放置して、僕は来た道を戻り始める。先程庭先にあった風船葛がいくつか消えていた。大方落ちてしまったのだろう。飛んでいったなら素敵だろうけど、それは現実的ではない事も分かっている。
院内に戻って廊下を歩いていると、窓の外で赤い風船が飛んでいった。それが空の水色と綺麗なコントラストを描いていて、僕は思わず足を止めた。彼女は空に消えていく風船を目で追っていた。
「私、風船になりたい」
「いつか割れちゃうよ」
「それでもいい。人はいつかいなくなるもの」
そう言った彼女はその後、貴方だって明日死ぬかもしれないでしょ?人生って何が起こるか分からないものと笑った。お前よりは長生きだよって僕は嫌味を言った。彼女は笑いながら、男性の平均寿命って知ってる?と言い出した。僕はその表情がムカついたから車椅子のスピードを速める。彼女は叫びながら手すりにしがみついて、僕は病院内を爆走し看護師さんにばれて小一時間説教を食らった。でも彼女は、ジェットコースターみたいだったからまた今度やってくれと言ったので、僕は本物を乗りに行けばいいだろなんて無責任な事を口にしたんだ。
「楽しかった!!」
「お前…あれだけ怒られたのに」
「元はと言えば貴方が走ったのが悪い。私は悪くない」
「お前…このやろー」
「え、ちょ、やめて、あはははは」
ベッドに戻った彼女のわき腹を容赦なくくすぐる。肉付きのないお腹も、浮き始めたあばらにも全部気付かない振りをして。ひとしきり攻防を続けた後、空はまだ綺麗な青空だった。陽が長くなっているから。君はまた空を眺める。
「いつか連れてってあげるって言ったじゃん」
「空へ?」
「そう」
「それは無理だよ」
「どうして」
君は笑う。その顔が酷く綺麗で。変わる前の君も、変わった後の君も見せた事のないような笑顔だったものだから、僕は本能的に別れを飲み込んでしまったんだ。
「一緒に飛べない事なんて、ずっと前から気付いていた事でしょう」
それから一週間後。君は空に飛べないまま海の泡となって消えた。僕に本当の気持ちを言わないまま、僕に本当の気持ちを言わせないまま。もう二度と会えない場所まで言ってしまった。
変わったんじゃない。あれはただの虚勢だった。君が死に抵抗する唯一の手段だったんだ。もう自分の終わりを悟っていたから、わざと明るく振る舞っていた。僕に空を飛んでもらいたいがために。
結局僕は、あの時も今も君の事が好きだったのに、その先の言葉が言えなかった。右ポケットに隠し続けた指輪は嵌める事も許されず、君はそれに気づいていたから僕が指輪を出そうとしても、ことごとくタイミングというものを潰した。本当は訪れるはずの幸せなハッピーエンドは、泡となって消えてしまった。僕の涙は止まる事を知らず、この涙で出来た海で、君と共に死にたいと思ったけれど、君はそれを許さないだろう。風船葛はもう、一つも残っていなかった。
本当は空じゃなくても良かったんだろう?ただ、隣を歩けたらそれで充分だった。それでも空を飛びたいと言ったのは、もう二度と隣を歩けないと分かっていたからだ。
君が空を飛びたいと言ったから、僕はそれを叶えるために生きようと思う。何年かかるかは分からないけれど、君を人魚姫のままで終わらせたくはないから。
ダイヤモンドの光る指輪を小指に嵌めて、僕は君の泡をひとすくいだけ手に握りしめ、歩き始めたのだ。
聞こえていますかと機械音が反響した。首元にかけた小さな巾着が宙に浮いている。僕は目を開けて動き始めた。画面の向こうでは打ち上げが成功したと、多くの人が声を上げて喜んでいる。窓の外には君の好きだった水色は見えない。ただ、暗闇と光る惑星が見えるだけだ。
僕は口角を上げて宇宙服を脱ぐ。首元にいる君を握りしめて向こうで待つ仲間たちの元へ飛んでいった。
「ほら、一緒に飛べたよ」
大気圏を越すとは思わなかったと、どこから笑い声が聞こえた気がした。振り返ればあの青い星が見えて、君が好きだった空が広がっている。
「これからも一緒に飛ぼう」
『日本人宇宙飛行士で現在宇宙で任務中の――』
大きなパネルの向こう、一人の男性が映っている。見た目は40代くらいだろう。アナウンサーは続けてニュースを読む。これは彼が飛び立つ前に受けたインタビューの映像だ。
『なぜ宇宙飛行士になろうと思ったんですか?』
彼は笑った。それはとても綺麗な表情で。待ちゆく人々は通勤時間だというのに思わず足を止める。彼は胸元から下げた小さな巾着を握りしめていった。
「いつか、連れて行くと約束したので」
人魚姫は空を飛びたがりました。しかし、自分にはもう、空を飛べない事は気付いていました。海の底に落ち、泡になって消える結末を受け入れるしかなかったのです。やがて、彼女は泡になりました。しかし、彼は諦めませんでした。いつかの約束を守るため、空を飛びます。大気圏を越えても、空は続く事を彼女と一緒に知るために。そして、いつかの夏。彼は彼女と一緒に空を飛びました。