空飛ぶ風船葛
君と僕が一緒に飛べないなんて、ずっと前から分かっていた事なんだ。
風船葛 フウセンカズラ
学名:Cardioapermum halicanabum
別名:バルーンバイン
原産地:熱帯アメリカ アフリカ インド
花言葉 あなたと共に あなたと飛び立ちたい
空を飛べたら良いのにと思う。
あの青い澄み渡った世界。地上からは手を伸ばす事しか出来ない世界。キャンバスに塗りたくったような。そこにあるのにそこに無いような空間。非現実的な青。
「そんなに好きかい?」
貴方は問う。真っ白なシーツが干されたその間から。立ち尽くしたままこちらを見ている。
「好きよ、飛べたらいいのにと思う」
私は答える。片手は空をかざしたままで、もう片方の手は金属製の手摺を握る。無機質なそれは冷たかった。座ったまま空を仰いだ。いや、座ったままでしか出来ない。私はもう立てないのだと脊髄がそう言った。
不意に風が吹いて膝掛けが飛ぶ。手を伸ばしても届かない。一瞬にして攫って行ってしまった風に、私は反応すら出来なかった。
地面に落ちた膝掛けを、貴方は拾って軽くはたく。シーツの波を抜け、いつの間にか隣に立っていた。
「汚れてなくてよかったね」
「ありがとう」
私の膝にそれをかけて、彼は目線を合わせるように隣にしゃがみ込む。
「いつか、連れてってあげるよ」
「どこへ?」
「空」
そう言った彼は笑って立ち上がり私の背後に立った。持ち手を掴んで押し始める。二つの車輪はゆっくりと動きはじめた。
「今日はここまで。身体に触るから」
「ケチね」
「何とでも言ってくれ」
ねえ、私知ってるのよ。貴方が空に行きたい事。けれど私がここに縛り付けてしまっている事。だから、言わせない。そのポケットの中に入った箱に気づかない振りをする。緩やかに、彼を拒絶する。だって貴方には先に行って欲しいから。私の為に、夢を捨てる必要なんてないじゃない。幼い頃から隣で宇宙飛行士になりたいって言ってたの、憶えているのよ。そのために頑張っている事も、今もまだ諦めてない事も。私のせいで、地上に居続ける選択をしようとしているのも。全部、全部。分かっているのよ。
だから私は貴方を突き放す。大好きだから。私一人の為に人生を狂わせるわけにはいかないの。
本当は、空を飛びたいなんてそこまで重要じゃなくて。ただ、貴方が昔から憧れていた世界を隣で見たくて。ただ、貴方の隣を歩けたら。それだけで充分なの。
けれどそれはもう叶わぬ願いだと分かっている。貴方は気付かない振り。私も気付いていない振り。だけど終わりがもうそこにまで迫っている事を分かっている。それに気づけないほど、貴方も私も馬鹿じゃない。
病室は嫌い。真っ白な空間。そして、もう動かない足を、痛いほどに痛感するから。
ああ、泡になって消えるのも一興かもしれない。貴方が憶えていてくれるのなら、終わりなんてどうだって良いの。だって貴方ならどんな姿で消えても憶えていてくれる。それ程までにずっと一緒にいたでしょ。
足が動かなくなってから。私は変わった。口下手で貴方の後ろに隠れていた自分はもういない。だからもう、先に行っていいよと言うのに、貴方は私の強がりに気づいて離れてくれなかった。全部全部、貴方のためなのに。どうしたって貴方は離れてくれなくて、どうしたって心は傷ついていく。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、今の私には貴方にそんな顔しかさせられないの。いっその事人魚にでもなれたなら、海の泡になれたなら。貴方はもう、私に縛られなくて済むのに。貴方の為に、人魚になりたかった。私が消えた後、他の女の子に幸せにしてもらって欲しい。本当は自分がそうしたいけれど、無理だって分かっているから。貴方が幸せになれるなら、私がどうなっても構わない。
窓の外には赤い風船が飛んでいる。空へと飛んでいくその姿に、私は酷く憧れた。
「私、風船になりたい」
「いつか割れちゃうよ」
「それでもいい。人はいつかいなくなるもの」
人魚も風船も、案外大差ないのかもね。人だっていつかは消える。それが早かっただけよ。
君の隣を歩きたかった。他愛もない話をして、笑いあってふざけ合いながら、歩幅を合わせて歩きたかった。でも、それはもう叶う筈もない願いで叶える時間もない願い。
「いつか連れてってあげるって言ったじゃん」
「空へ?」
「そう」
「それは無理だよ」
「どうして」
私は笑った。貴方は酷く悲しそうだった。
「一緒に飛べない事なんて、ずっと前から気付いていた事でしょう」
あと何日で、私は空から一番遠い場所に行くのだろう。それは分からないけれど、もう遠くない未来の話だ。
貴方と飛びたかった。でもそれは無理だから、私は風船になろう。遠く遠く、身体は地に置いたまま、心だけ飛び立って、大気圏に突入する前に割れよう。
貴方と歩きたかった。でもそれは無理だから、私は人魚になろう。泡になって貴方の前から消えて、心はずっと貴方の隣に居続けよう。貴方が他の誰かと幸せになるその日まで、私は貴方を守り続けよう。
そしたら次は、貴方と共に飛べるかもしれないから。