沈んだ国に遺された最後の想い
じゃあ一緒に終わろうか
海面上昇の影響により、この小さな島国は数時間後に海に飲まれるらしい。人間たちが起こした地球温暖化の影響が長年に渡りこの時代までやってきた。南極の氷は既に溶けてしまったらしい。
そんな事を一週間前のニュースで見た。長ったらしい説明の後、この国が滅ぶ事を知った。僕は実感が湧かなかった。しかし、周りはそうじゃなかった。
急いで荷物をまとめ、別の大陸へと旅立つ航空券は一瞬で満席になった。小さな島国を救おうと、多くの船が訪れて僅か一週間でこの国から人はいなくなってしまった。僕はその様子をただ窓の外から眺めているだけだった。
両親から渡された航空券は彼らが目の前からいなくなった後、泣き叫んでいた近所の子供にあげた。彼は家族に置いて行かれたらしい。いわゆるお荷物だった。しかし、僕にはそうは思えなくて全てが入ったリュックサックと一枚のチケットを彼に手渡して旅立てと背を押した。彼はもうすぐ別の大陸に着く所だろう。
世界最後の日、僕は丘の上で木に背を預け本を読んでいた。遠くには海が見える。後数時間後にはこの国を飲み込むだなんて思わないくらい穏やかな波が光り輝いていた。
生きたくなかったんだ。
不意に後ろから足音が聞こえた。
「やっぱりいた」
聞き慣れた声だった。振り返った僕は驚きを隠せなかったが、君はそんな事を気にも留めず近づいてきて隣に腰かける。読みかけの小説を取り上げて読み始める。君は細い指でページをめくりながら僕の方を見ず問いかけてきた。
「行かなかったんだ」
「うん」
「てっきり行くと思ってた」
「行かないよ。先には何もないから」
「悲観的だね」
「悲観的にもなるさ」
君は顔を上げて読みかけのページに人差し指を差し込み小説を閉じた。そしてその本で僕の頭を叩いた。
「今ならまだ間に合うよ」
「行かないって。行って欲しいの?」
「行って欲しかったよ」
じゃあ一緒に来て欲しかったと言いかけて口を閉じる。君の足先が透けてタンポポの綿毛が見えた。一緒に来れない事の証明だった。
「僕はさ、君のいない未来で息をしていたくないんだ」
君の瞳から涙が零れた。手を伸ばしてもそれは拭えず空を切る。
たった一つ、君が触れられるものは君のものだったこの本だけだ。
「人生の価値は終わり方なんだよ。君のいない未来で息をするのか、君のいた場所で終わりを迎えるのか、僕の選択は後者だったんだ」
君の頬に手を伸ばして包み込むように添えてみる。重なった手からは温もりも感じない。
「終わり方を選べればと思っていたんだ。君が死んで僕の前から消え去った時から、一緒に終わる事が出来ればと思っていた。だから、この国が沈んで無くなるって聞いた時ちょうどいい機会だなと思ったんだ」
先程まで遠くに見えていたはずの海面が、いつの間にか数十メートルの所まで迫っていた。街をすっぽりと飲み込んで、文明が止まってしまった海底都市がそこに出来ていた。
「結局人類がまいた種なんだ。温暖化も海面上昇も、僕らが繰り返し続けた事の末路だ。なら報いを受けるべきなんだよ、ここで逃げてもいつかは追い付かれる。然るべき時に僕らは裁きを受けるべきなんだ」
「君は裁きを受けるべき人間だと思っているの?」
「僕はどちらかと言うと死ぬ理由を探していたんだ。だから裁きを受けるべくして受けるわけではなくて、利用して死のうとしているだけだよ」
波の音がすぐそこにまで迫ってきた。少しずつ地面が濡れていく。着ていた服が色を変えていく。
「僕は君と一緒に終わりたかった」
潜水艦で逃げれば良かっただろう。空を飛んで、船を使って、いくらでもこの地から離れる事は出来た。けれどそれをしなかったのは、僕は僕の選択でこの命を終わらせたかった。この人生を価値のあるものだと僕の中で納得がいくように証明したかった。
君が死んだ時、僕はこの世界から光が消えたと感じた。あてのない暗闇に放り出されたと思った。君が僕の人生の道標だった。だからこそ、君と一緒に死にたかったのだ。けれど君は僕を置いて勝手に一人で人生を終わらせてしまった。
連れて行って欲しかったのだ。君には未来があるからとか、そんな言葉が欲しいわけじゃなかった。君のいない未来を数年過ごしたが味気のない毎日だった。その悲しみに寄り添わせて欲しかったんだ。
身体の半分が水に浸かった。読んでいた小説は水面に浮かんでいる。酷く透明な水の中にゆっくりと身体を任せた。目の前の君はまだ泣いたままだ。
「好きだから生きてて欲しかったんだよ」
「僕は好きだから君と一緒に死にたかったんだ」
一生交わる事のない僕らの想いはこうやって終焉を迎えた。君が死んだその日から、僕は選択を間違えた。取り返しのつかない事ばかりだ。
「私のせい?」
「そうだな、君のせいだ。君が好きで堪らないから、今のこの胸に存在し続けて、この瞬間にも幻を見続けるくらい君に惑わされてしまったから僕はこうなったんだ」
「何それ」
険しい顔をしていた君が笑った。涙を頬に流しながらおかしそうに笑った。僕の首にまでやってきた水は、もう時間がないぞと声を上げている。
「責任取ってよ」
僕の言葉に君は目を見開いてはにかんだ。その背から夕焼けが見えた。君の身体を透けてオレンジ色の光が僕に差し込む。まるで後光が差し込んでいるようだった。天使か何かが、僕を迎えに来たようにも見えた。
「じゃあ一緒に終わろうか」
その言葉に僕は頷いて君の身体を抱きしめて息を止めた。頭のてっぺんまで飲まれた僕はゆっくりと海の中を落ちていった。止まってしまった文明がそこにあった。口から吐き出した息は気泡となって遠くの空に上がっていった。陽の光が届かない所まで落ちていく最中、僕は君の事だけを想って目を閉じた。
そしてこの生を終わらせた。