紺碧に晴れ間なし
取り留めのない誰かの
君が僕の世界だった
僕らは表現者だ。この身を使って、技術を使って、才能を遺憾なく発揮し世界を描く。常人には描けない世界を作り出す。僕らは表現者だ。どれだけ世界に嫌われようと、自分の中の世界を描く事に命を懸ける人々だ。
夜の雲は霞がかって君を迷子にさせる。月明かりは今もまだ、この胸に閉じ込めたままの想いを察して前に出ようとはしない。星が君との思い出だとするのなら、流れる度この脳から消えていくのだろうか。
この頭から君が消えるのが怖かった。思い出す度締め付ける心臓も、燻る鼻も、熱くなる目頭でさえ君がまだ僕の中で息をしている証拠だった。
かの有名なゴッホは、生前売れずに精神がおかしくなって耳を切り落とした。しかし現在、彼は歴史に名を馳せる芸術家だ。皮肉だ。彼が生きていた時間では評価されず、身を滅ぼした結末が美しいと言われるのなら、死を以て完成する芸術などいらないのだ。
君は表現者だった。自らの内に存在する世界を描いて世に出した。それは売れずとも、僕の心に響き続けた。君の芸術に触れている時、僕は君の世界の一部になれた気がした。どうしようもない現実から飛び出て、君が見ている世界で息をすることが出来た。君と同化出来た。そんな世界を作る君が好きだったから、僕も表現者になった。
君と新しい世界が作れたらいい。それだけで充分だった。例えるなら子供の頃に描いた絵空事のような、売れずともお互いが同じ目線で同じものを見れたならそれでいいという理由だった。君の芸術を僕が色づけたい。秘密基地を作ったあの日と同じだ。しかし、僕らは大人になってしまった。
表現者が二人いて、同じような世界を作り出すのなら。優劣をつけられるのは当たり前の話だった。僕らの作り出した芸術はいつだって優劣をつけられた。隣に並べられ数多の人々から批評を得た。そして、僕は君を越してしまった。
僕らの芸術は、二つで一つだった。割れた皿のように、合わせれば一つの作品が出来上がる。欠片だけでは何も出来ない。そのはずだったのに、僕らは強制的に割られて別の物にされてしまった。そして、君が劣をつけられた。
崩れた僕らの関係は悪化し君は自らその身を投げた。星見丘の頂上から落ちていった。その日は流星群が降る日だった。
それ以来、僕は表現する事を辞めた。何をしていても、君が息をしているからだ。僕らの中に出来てしまった優劣に、君は何も言わなかった。僕を責めもせず、ただ笑っていた。けれど本当は悔しくてたまらなかったはずだ。僕を憎んでいたはずだ。そうでなければ言葉一つも残さず、死にはしないだろう。
二人で芸術を作り出した絵の具だらけの屋根裏部屋は君の描き途中の絵だけが置かれている。僕はその絵を完成させる気もなかった。しかし、世界はその未完成の絵を何よりも高く評価した。それまでの君の作品、僕が作り出した作品以上に、その絵は世に浸透した。
僕は分からなかった。何が芸術なのだろう。作品に神様が宿るのではないのだろうか。これでは作品でなく、君が死んだ背景に神様が宿っている。未完成の絵は、君の死を以て完成されている。そんな皮肉あるだろうか。生きていた頃の君の苦労は誰かに美化されて歴史に名を遺すのだろうか。僕の知らない君になっていく気がした。
僕はスケッチブックと鉛筆を片手に旅に出た。記憶の中で生きている君を探しに行った。君と共に生きた場所、君が生まれ育った町、一人で見た世界。君の全てを拾い集めて死のうとした。しかし、君とゆかりの地に足を運ぶ度、僕の頭の中から君が消えていった。
全てを捨てて君の思い出と共に死のうとした僕に待ち受けた結末は、少しずつ分かるように君を忘れていく事だった。時間はいつだって残酷で君が描いた絵のように形を残してはくれない。正解は一つだったはずなのに、それすらも見つけられなくなった。
僕はスケッチブックに描き続けた。過ごした場所、微かに残る思い出、不完全な君の似顔絵。涙ながらに描き続けた。忘れないように紙の上で君を生かしたかった。君を奪った芸術なんて大嫌いだったのに、君を遺す手段は僕にとって描く事しかなかった。
長く短い旅を続けて君が身を投げた星見丘に来た。流星群の季節だった。紺碧の空には白く輝く星が流れている。その辺にある岩に腰を下ろし一歩前に出れば地のない場所で僕はただ泣いた。
これから僕はどうすればいいのだろう。どこへ行けばいい。何をすればいい。君と作ったから芸術だった。僕らだから表現者と言えた。一人では何も出来ない。この想いは消えないのに君の姿だけは曖昧になっていく。
最後に、君は何を描きたかった?あの真っ白なキャンパスに何を描こうとした?紺碧に塗り潰して夜空でも描きたかったのか?僕はもう、何も知る事が出来ない。
言葉よりも大切な物を探す旅だった。君が何も言わず死んだから、僕なら何も言われずとも君を理解できるだろうと思った。言葉より大切な何かがあって、君は僕にそれを遺していったのではないのかと思っていた。でもそれはただの勘違いだった。
言葉よりも大切な物はどこにもなかった。どこへ行っても君が僕の名を呼ぶ幻聴が聞こえる。靄がかかって見えない君が蜃気楼のように揺らめいて消えていく。結局、何を伝えたかったのか分からなかった。君の死はただの死で、誰かにとっては芸術に成り果てた。残された僕は何も知らないまま日々を生きていく。年老いて君を忘れていく。時間が君の残したものだというなら最低な贈り物だ。だって僕は君と共に年老いて死にたかった。最後の瞬間まで、僕らの世界を描いていたかった。お金がなくとも、生活が苦しくとも、君がいて芸術がそこに成り立つのならば、それで良かったのだ。
流星が落ちて、君の声が思い出せなくなった。君の笑顔が思い出せなくなってまた流れる。ずっと、ここで立ち止まったまま、どこにも行けないままの。
「君が僕の世界だったんだよ」
何てことのない、どこかの誰かのお話だ。