泣いた振りをした
感情なんて、もうどこにも落ちていない
誤魔化す事が上手くなった。
六畳半のワンルームで、ただ原稿用紙に向かい合っていた僕はもうどこにもいない。夏の茹だる様な暑さを、扇風機で回避しようとした。窓は全開で蝉の鳴き声が脳内を直接刺激する。首にかけた真っ白なタオルは汗を吸い、加えたアイスは喉元に垂れる。そんな夏はもう来ない。
鉛筆を握りしめマス目を埋め続けた。消しゴム跡が消えない。勢いよく動かした右手が紙を破って溜息を吐く。前髪を掻き揚げて奇声を発しながら頭を抱えた。僕のこの癖だけは消えなかった。
広い自宅の一室で、パソコンの画面に向かい合っている。夏の茹だる様な暑さは、冷房のよく効いたこの部屋には影もない。窓は締め切られ蝉の鳴き声はヘッドフォンから流れる音楽でシャットアウトされる。首元まである洋服に顎を埋め、マウスの横に置いたチョコレートを一つ、口の中に入れた。
両手を忙しなく動かして、指が踊るように打ち続ける。突然真っ暗になった画面に驚いて何度かクリックをする。それでもデータは戻ることなく、僕は前髪を掻き揚げて奇声を発しながら頭を抱えた。ヘッドフォンを外し顔を手で覆う。ノック音が聞こえた。僕はやる気のない声で返事を返した。
僕はどんな話が書きたかったんだっけ。全てが恵まれてしまったこの空間に、あの日のような熱がどこにもない事には気付いていた。気付かない振りをして笑っていただけで。
書けない。
あの日、誰かの心を動かした僕は、自分の心さえも動かせなくなっていた。
欲しかったものが手に入るようになった。それは喜ばしい事だ。頑張りが認められて得た報酬だ。けれど、手に入れたものは全てそれじゃない。
僕の心を揺さぶったものはもうどこにもいなかった。
嬉しくて零れる笑みも、悲しくてたまらなくて流す涙も、今の僕にはない。
書き始めた手が止まる。僕はいつの日か、自分の為に書く事を止めてしまっていた。
君の為に書いた話だとか嘘をついて。
本当は僕の弱さを、頑張りを、誰かに認めてもらいたかっただけなんだ。
努力をするのが当たり前で、書き続ける事に意味はなくて。辛いことを誤魔化すように笑って、何もない僕を認めたくなかっただけなんだ。沢山の宝飾で飾り付けた無価値な僕を認めたくなかっただけなんだ。
頑張ったねなんて言って、子供の時のように頭を撫でてもらえたなら。ただ、一度。それが出来たのなら。今の僕はいなかったのに。
分かっている。いい歳をして何を言っているのかって。分かっているんだ。それでも、人は一人では生きて行けない。僕はその事を充分に理解していた。誰かに頼らなくてはいけない大人なんて社会的にどうなんだって。分かっているさ。そんな事は僕が一番。けれど、この虚しさはどこに仕舞えばいい?
君の声が聞こえなくなって。思い出はいつか消えるようになって。思い出す事さえも出来なくなって。それが寂しいと感じられなくなってしまった。
クロエの甘ったるい匂いが好きだった。爽やかな君からは想像もつかない、女性らしい匂いが。
ティファニーのシルバーピアスが視界に揺れて、僕は何度だってそれを目で追った。
中身とは裏腹に、品のある格好に身を包む君が好きだった。良識のある人だと思っていた。食事を口に運ぶその姿勢は絵画のようで。伏目がちな目元がパールのアイシャドウでキラキラと反射している。
美しい人だった。世界で一番好きだった人。愛した人。だからこそ、結ばれなかった人。
僕はまだ、あの日のままで。
君に恋をした、一人の愚かな人間のままで時間が止まっている。
僕を肯定したたった一人は、どこか遠くの世界へと消えてしまった。