君が死んだ。綺麗な夜だった。
だから歩かせてくれ
君が死んだ日の話をしよう。あの日は確か、星が輝く綺麗な夜だった。夏の大三角形が夜の隙間から零れ落ちるように光っていた。頭上には鉄塔、電線が風で揺らめいている。右手にある鉄塔の先、繋がった電信柱との間に流れ星が落ちた。
君が死んだ合図だった。
昔の人は偉大な人が死んだ時、その命が流れ星として空を輝かせると言っていた。僕もその伝説を信じている。そうでなくては、今、僕の目の前に落ちた星は何の意味も持たないから。
見渡す限りの田んぼの中、電気の切れそうな街灯がチカチカと足元を照らしていた。鉄塔は赤い光を点滅させた。周りには誰もいない。満天の星空の下、僕が世界を支配していた。
幸せは当たり前のようで当たり前でない。小さな出来事が幸せを作り破壊する可能性を秘めている。神は細部に宿るのと同じだ。毎日が幸せの連続であったなら、アダムとイヴは禁断の実を口にしなかっただろうし世界はまだエデンの園のように温かな世界だっただろう。でもそうでないから、人生なんだと今なら分かる。
二十数年生きてきた。何度も夜を越して夜明けと共に目を覚ました。時には昼下がりの白藍の空を眺めて朱色から紫紺に変わる間まで眠った日もある。空はいつでもそこにあって色を変えた。
僕が思うに昨日と同じ空を見ることなんて出来ないと思うんだ。人が移り変わる生き物であるなら、絶対不変の物なんてこの世に存在しない。もしそれを目にする日が来るとしたら、きっと僕が人をやめた日だろう。季節も変わる。成長し退化する。想いは変わらないなんて嘘だ。そしたらさよならなんて一生聞かなくていいはずだ。一生言わなくていいはずだ。一生言わせなくていいはずだ。
今日、君が死んだ。田舎町古びた病院の一室で、ウエディングドレスとは程遠い純白に寝かせられた君が息を吸うことをやめた。生きることを諦めた。
突然のことではなかったから、いつかの覚悟は出来ていた。数年前から病に伏した君はよく頑張ったと思う。一年も持たないだろうと言われた三年以上持たせたのだ。感服するしかない。でも、助からないことなんて知っていた。淡い幻想を抱けるほど僕らは子供じゃない。けれど淡い幻想を否定するほど僕らは大人でもなかった。目の前に迫る現実をどうにかして避けようとした中途半端な大人は今日現実を突きつけられた。
明日から何をしようか。毎日君の所に通っていたから大学の単位が足りてない。このままじゃ留年するから真面目に授業でも出てみようか。週二回入れていたアルバイトの量を増やしてみようか。毎日君にプレゼントを買っていたからお金がもうない。プレゼントと言っても小さなお菓子くらいのものだったけど。ああ、でも貯めていた貯金であのネックレスを買わなくちゃいけない。明日は君の誕生日だからずっと目をつけていたんだ。金色の細いチェーンの先、小さな星にダイヤモンドが輝くネックレス。君が好きな星のモチーフだった。
「…買っても、もう渡せないんだ」
足が止まった。カナブンが音を立てながら横を通って行った。道はまだずっと遠くまで続いている。
歩かなくちゃいけないんだ。前に進まなくちゃいけない。僕はここで立ち止まってはいけない。けれどこの先に進んで何があるのだろう。どんな幸せが待ち受けているのだろう。どれだけ歩いても、君はそこにいない。道の先で笑っていてはくれない。だってもう、君は星になってしまった。
空を仰いでも流れ星は落ちてこない。一度だけだった。流れて落ちて消えてしまったのなら、この空を見ても君の星はいない。君は成層圏で燃え尽きた。
神様がもしいたのだとしたら、君じゃなくて僕を殺して欲しかった。どれほど凄惨な死を遂げても構わない。君が生きてさえいてくれれば良かった。笑っていてくれればよかった。地に足をつけて歩いてくれればそれだけで充分だった。僕の命を引き換えに君を返して欲しかった。
「返せよ」
目の奥が熱い。鼻がツーンとして頬が熱くなる。心臓が脈を打って締め付ける。顔を覆った手の隙間から涙が零れ落ちた。
「返せよぉ…」
瞼の裏側にいるのは笑顔の君だ。僕の名を呼んで笑いながら歩く君だ。最後の瞬間じゃない、まだ元気だった頃の君だ。
幸せがこの道の先に存在するのなら僕はこの先に進みたくない。だってもうこれ以上喪失感に苛まれたくはない。今すぐ引き返して君と生きたい。君と死にたかった。僕だけを置いて行かないで欲しかった。さよならは一生聞きたくなかった。気長に待ってるなんて言わせたくなかった。今すぐ君に会いに行きたかった。けれどこの人生に君が存在するのなら簡単に命を終わらせることなんて出来なかった。
君が好きだった絵本がある。それは絵本というには小説的で、小説というには詩的で、詩というには現実的だった。恋人の死を描いたその本はたちまち大ヒットした。僕はその本の内容が嫌いだった。その本を描いた彼女の言葉が全部偽善に聞こえた。今ならその気持ちが分かる。この喪失感はどうやったって拭えない。僕は彼女を否定することで君に近づく死を無いものにしようとしていただけだった。
「生きていかなくちゃならない。君がそこにいなかろうと。」
何度も読んだ絵本の台詞を代弁する。君はこの台詞が好きだった。愛する人が死んだとしても自分が死ねばその存在を一番に憶えている人間がいなくなるから背負っていつか隣を歩くために生き続けなくてはいけないという思いが詰まった言葉だ。偽善に聞こえたその言葉が、今僕の背中をゆっくりと押している。顔を覆いながら、涙を流しながら、よろめく足で一歩ずつ前に進んでいく。
「立ち止まることが悪いことではない。でも、いつかは歩かなくちゃ。そうでなくては僕の心に存在する君が死んでしまうから。」
絵本に書かれた台詞を口に出していく。君が何度も読み聞かせるから、もう内容も台詞も全部憶えてしまったんだよ。
彼女は恋人を月と例え、自らを夜と例えた。君が星なら僕は何だろう。僕は君にとってどんな存在だった?問いかけても答えが返ってくるわけではない。けれど問わずにはいられなかった。僕はずっと、星に手を伸ばしているだけの人間になってしまうから。
夜はまだ明けそうにもない。このまま一生明けないままでいい。そしたら君がまだ空に生きているはずだ。成層圏で燃え尽きても、まだ僕の心に生き続けている。太陽なんて一生見たくない。君の人生になりたかった。君の代わりに死にたかった。君の生きる希望でありたかった。君を生かす技術が欲しかった。僕がその命を救いたかった。
『でも、夜は明けるよ』
脳内を反響した声に思わず振り返る。しかし、そこには何もない。誰もいない。ただ、歩いてきた道だけが続いている。
『どれだけ苦しくても、悲しくても、いつかは夜が明けるんだよ。想いは消えなくても、いつかは悲しみが優しい思い出に変わるんだよ』
君の声だ。病院のベッドの上で上体を起こしながら、あの絵本を読む君の姿が見える。
『だから最後まで足掻いて足掻いて、星になりたい。そしたら君は…』
「´そしたら君は、地上からいつまでも見守っていてね´」
視界が歪んで見えなくなって、心に星が降っていく。君との思い出が星になって降っていく。僕にとっての生きる希望は君なんだと言わんばかりに頭の中を君の思い出が入り乱れる。浮かんでは消えて浮かんでは消えてを繰り返し歩けと背を押される。
「大好きだ」
どうしようもなく。
「だから歩かせてくれ」
君を忘れないために。
明日は何をしようか。君を想ってこの夜を泣き明かした後、久しぶりに大学でも行こうか。久しぶりに友人に会ってカラオケでも飲み会にでも連れて行ってもらおうか。その肩を貸してもらおうか。そして、あの絵本とネックレスを買おうか。ファンだった君の想いを作者の彼女に代わりに伝えようか。
見上げた空には眩しい星々。頭上を一筋の光が流れ落ちていく。それを見て僕はまた涙を流し前を向いて歩き始めた。
君が死んだ。綺麗な夜だった。