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苦みは君の口づけで甘味に変わる

僕はビール好きです


子供の頃、大人にしか飲めない金色の炭酸に目を奪われた。


透明なグラスの中に注がれた黄金は細かな泡を吐き、上部には綿あめのように柔らかな白い泡が盛られている。口を着ければ中世ヨーロッパで男性の威厳を誇示するために整えられた髭のように上唇に泡がつく姿を見ていた。羨ましがってせがめば、これは大人の飲み物だと父が言った。苦くて酸いも甘いも知った人間が飲むものだと。私も大人になるまでにはそのおいしさが分かるようになるだろうか。そんな期待を黄金は抱かせた。


しかし、今。大人になった私の口に入る黄金色の飲み物は苦くて苦くて堪らなかった。ベランダにて一人、夜風に当たりながら缶ビールを煽った。階下の街は光輝いていて、ネオンは煌びやかに様々な色へと姿を変えていく。


生ぬるい風が髪をさらって、開けっ放しの窓から部屋へと侵入した。机の上に置かれた紙が舞って地面に落ちていくのが映画のワンシーンのようにスローモーションに感じた。


苦い。美味しくない。一口飲むたびに舌を出して風に当てる。これを大人の飲み物だと言ったあの頃の父の年齢とそう変わらないはずだが、私はまだ大人になり切れていないのだろうか。


人間の味覚は甘みから発達し、最後に苦みへたどり着く。その苦みにたどり着いていない私の人生経験はまだまだ足りないのかもしれないと思った。冷たい缶ビールは指先を冷やしていく。胃の奥から込み上げてきた衝動に身を任せ息を吐けばアルコール独特の匂いが鼻についた。


ビールの匂いは不思議だ。原材料は麦芽。ホップ。大麦。その他諸々。発酵させるだけでこんなにも独特な匂いが生まれる。さらに会社により味が様々。濃さも違う。私が手に取っている黄金は比較的飲みやすいものだそうだが、果たして本当に飲みやすいのかは分からない。美味しくない。けれど癖になってもう一度口をつける。それを何度も繰り返していればいつの間に缶が軽くなり始めていた。


酸いも甘いも知った大人とは何だろう。ビールのおいしさが分かるようになれば一人前の大人だと、昔どこかの誰かが言っていたが、ならば私は大人になりたくない。苦みをかき消すようにポケットの中に入れていた四角形のチョコレート。包みを破き口の中に放り込む。歯につくようなキャラメルは決しておいしくはなかった。けれど子供の時何度も食べた、懐かしい味だった。


アルコールは大人の逃げ道だと思う。現実に向き合わなければならない。けれど辛いことはいくつもある。子供は大人が守ってくれることが多い。金銭面でも、精神面でも。けれど大人は違う。誰も守ってはくれない。子供の頃のように、近所の友達たちと遊んで夕暮れになって家に帰れば母がいて、当たり前に温かいご飯があることがどれだけ幸せだったのかを知る。アルコールを飲んでいる時だけは、過去に浸っても、辛いことがあっても、夢の出来事のように吐き出せることが出来るから不思議だ。


「ただいま」


部屋の中から声が聞こえて、もう一人の住人が帰ってきたことを知らせる。一度振り返って窓から顔を出せば私の持っている缶を指差して声を上げた。


「それ俺のなんだけど」


少しだけ怒った顔も愛おしくて、アルコールが入った頭は緩くなり私の表情筋に笑う指示を出した。笑った顔を見た彼は近づいてきて缶を奪う。


「酔ってるだろ」


「酔ってないよー」


「嘘だ。酔っ払いは皆そう言うからな」


缶の軽さに驚いた彼は、「ビールは苦いんじゃなかった?」と聞いてその缶に口をつけた。ベランダに並んだ健康サンダルに足を入れ私の隣でアルコールを飲み始める。光に照らされたその横顔が何よりも綺麗だと思っていることは私の中で留めておく。


「私も大人になれたかなって」


何がとは言わない。特に何かあったわけでもない。ただ、冷蔵庫の中にいつも彼が飲んでいる缶ビールが見えて、それが不思議とおいしそうに見えて目を奪われたのだ。たったそれだけの理由。ご飯も食べず、ただ初夏の風を感じたかった。これだけ近くにいるのに、まだ足りないと言わんばかりに君に近づこうとした。それだけのお話だ。


「なれた?大人」


君は煌びやかなネオンを見ながら問うた。長い前髪が風にさらわれて額が露わになっている。


「分かんない。でも癖になるっていうことだけは分かった」


あと喉ごし?と首を傾げれば君の顔が近づいてきて唇が重なった。至近距離で嗅いだ息が、私と同じ匂いになっていることに気付いて何だか嬉しくなる。アルコールを飲むのも、キスをするのも初めてのことではないのに、唇を重ねるたび幸せになる私はまだまだ少女の心を捨てきれていないようだ。


「風邪ひくから戻ろう」


私の背を押して部屋に戻った君は飲み終えた缶を流し場に投げた。私は冷蔵庫を開けて昨日の残り物と今朝作った作り置きのおかずを取り出した。まだ飲み足りない彼は私の背後から手を伸ばしまた同じ缶ビールを手に取ったから、私も隣に並んだカラフルな缶チューハイを手に取る。


「ビールはもういいの?」


からかうように笑ってきた彼に腹が立ったのでマウントを取るにはどうしようかと考え冷凍庫を開け枝豆を手に取りお皿に移しレンジに入れた。プルタブの小気味良い音が聞こえて再びアルコールを胃に流し始めた君の横顔はやっぱり綺麗で、かさついた唇を見て最大級の仕返しを思いついた。いつもは口に出さない恥ずかしい台詞だが、全部酔っているということにしよう。


「うん、もういい」


「苦かった?大人になれなかった?」


「そうお子様だから」


缶ビールを持つ彼の手を取る。背後からレンジの温めが終わった音が聞こえた。


「貴方のキスで緩和させて」


でも子供にはこんな返し出来ないだろうから、私はもう、大人になってしまったんだろう。

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