スノーフレークの夏
雪が降ったから君に伝えようと思ったんだ。
スノーフレーク
ヒガンバナ科 学名 Leucojum aestivum
原産地 中部ヨーロッパ
開花期 3月~5月
スズラン型の花の先端に緑の点模様がある 葉はスイセン似
この事から別名スズランスイセンと呼ばれている
原産地では夏に咲く事が多く、サマー・スノーフレークと呼ばれている
花言葉 汚れなき心
足元から軋むような音が連続して鳴ってしまうのは、私が歩みを止めないからだろう。一体、どうすればあの水分の塊が白く染まり降り積もり音を成すのか、この世に生を受けてから何十年も経って、理論はもう学んだくせに、不思議で不思議でたまらないのは子供心がまだこの身に残っているが故なのか。
私は傘を差し街を歩いた。すっかり冬景色に染まったロンドンの街並みは曇天のせいなのかどこか寂しそうだ。
ガス灯に明かりが灯る。揺らめくオレンジは、私の影をよりいっそう長くした。まだ夕暮れにもなっていないというのに、降り続ける白い物体のせいで街は暗くなり行き交う人々は少なくなっていく。時折走る馬車が私にその白い物体を飛ばすものだから、右半身はとうに濡れてしまった。
黒い傘に相反するように白い物体は降り積もる。手袋越しに手が震えるのが分かった。息は白く、世界という舞台を脚色し、外套は白く染まってはあっという間に黒い染みになり幕を閉じる。
左手が震える。
持っていた花束を落としそうになった私は思わずそれを抱き寄せた。大の大人が何をそんなに恥ずかしい事をしているのだろうか。花束を抱きしめてよいのは、うら若き乙女だけだ。私のようにいい年の男がやるものではない。それでも、左手は動かなかった。彼女に渡すのだ。大事にしなければならない。薄桃色のリボンは風で靡く。君は春のような人だった。だからどうも雪景色には似合わないんだ。
やがて大通りに差し掛かる。先程の暗さは一変し、クリスマスの装飾が街のあちこちで煌びやかに光っていた。窓からは暖かそうな部屋、幸せそうな家族が見えて、さながら自分はマッチを売る少女のような気持ちになった。もう、その幸せは味わえそうにないから。けれど、後悔はしていないしそれもまた人生であると思った。最後に幸せなクリスマスを過ごしたのは、彼女が自宅にこっそりとやってきた時だ。反対されるのが目に見えていたからと言いながら小さな食卓を二人で囲んだのは、生涯忘れられない幸せな時間だった。
眩い光に目を細めながらも、私は歩みを止めなかった。
さて、彼女に会う前に思い出話をしよう。
聞きたくない?まあ良いじゃないか、黙って聞いてくれても。今夜は聖夜だから、私の独り言にだって耳を傾けてくれる誰かがいても良いだろう?先程、彼女には雪が似合わないと言ったがやはりそれは撤回しよう。きっと、君はどの季節だって輝いていたのだから。
ジュリアと出逢ったのは、彼女が18の冬だった。
その頃既に私達の年齢は7つ離れていて、私から見れば彼女は子供にしか見えなかった。今日のように雪が降り積もっていたウェストミンスター寺院で、君は一人地面に足跡をつけて遊んでいた。18の女性がたった一人、こんな所で何をしているのだろうか。植物研究の傍ら大学で教鞭をふるっていた私が帰り道見た、不思議な光景だった。ドレスの裾は濡れ、帽子には雪が降り積もっている。いったいどのくらいの時間彼女はこうしていたのだろう。
くしゅん。
小さな音が聞こえた。私は呆れて彼女にコートを被せた。
これが、最初のお話。
「レディがこんな所で一人でいたら危ないし、何より風邪を引きますよ」
私は黒い大きな傘を彼女に差す。彼女は振り返り私を見上げた。こげ茶の髪にエメラルドの瞳を持った彼女は思いの外美しくて、私は年甲斐もなく赤面したのを覚えている。
「ありがとうございます。見ず知らずの人間にコートを貸して傘を差すなんて、紳士的ですね」
「英国紳士ですからね」
彼女はクスクスと笑った。
「ここで何をしてらしたのですか?」
彼女の足元を覗く。そこには小さな植物があった。
「この植物が雪に埋もれていたのが気になって、雪をどかしていたのです」
足元にいくつか作られてた斑点は、彼女が雪をどかしたもののようだった。
「スノーフレークですね」
「お知りなんですか?」
「はい。一応植物研究者ですので」
「すごい!じゃあ先生ですね!」
彼女は嬉しそうに手を叩く。変な子に会った。それがこの時の印象。
「スノーフレークは見た目よりずっと頑丈なので自生しているものは放置していても大丈夫ですよ」
「そうなの…いつ頃咲くんですか?」
「夏ですね」
「スノーフレークという名前なのに夏に咲くのですね」
「ええ、不思議ですよね。空から舞い落ちる雪のようだからその名がつけられたらしいのです」
「そうなんですか…今すぐにでも見てみたかったのになあ」
彼女は残念そうにスノーフレークを眺める。
「見た事が無いんですか?」
「はい。ついこの前、こんな所に植物が植わっているって気が付いたんです。それまでは地面に咲いている小さな花なんて気にも留めなかったのに」
「私も昔はそうでしたよ」
「研究者なのに?」
「ええ。幼い頃は興味も無かったんです。けれどある日足元に咲いていた花を踏んでから、気に留めるようになったんです」
「じゃあ同じですね」
また笑った彼女は私の肩についた雪を払った。
「ジュリア様ーどこにおいでですかー」
遠くから男の声が聞こえる。彼女は苦笑いをして私に向かって頭を下げた。
「行かなきゃ」
走り出した彼女に、私は呆然と立ち尽くしていた。
「私の名前はジュリア!ジュリア・キャンベル!先生は!?」
「え、エドワード!!エドワード・ブラウン!」
「また会いましょう!!」
そう言って去った彼女は、雪の降り積もる中訪れた春の風のようで。
それから幾度も同じ季節を過ごしてきた。
今日が彼女と出逢って10年目。
私はウェストミンスター寺院に足を運んでいた。黒い傘を閉じて、あの日の彼女のように雪を肌で感じてみようか。風邪を引くなんて、今度は私が君に言われてしまいそうだ。
「やあ、来たよ」
雪が降り積もった墓石を眺めて、私はそれを手で払った。花束を置き、私はしゃがみ込んで彼女と目線を合わせる。
「今年もスノーフレークは君の周りに咲き誇ったね」
雪を払い地面に植わった植物を見た。
「夏は綺麗だったろう?君は夏になるといつもはしゃぐからなあ」
夏の始まり、咲き乱れたスノーフレークを見てはしゃいでいた彼女を思い出して私は笑ってしまった。
「秋も紅葉が綺麗だったな。研究が忙しくてなかなか来れなかったけど」
雪は止むことを知らない。
「なあ、君と出逢って今日が10年目だよ」
私は帽子を取って、それを胸元に抱えた。
「ずっと言いたかった事があるんだ。10年経ったら言おうとしてたんだけど、君ってば返事を聞く前に私の先を言ってしまったから言わなかったつもりだったんだ。けれど、今日があの日と同じように雪が降ってきたから、これは神が私に与えた最後のチャンスかと思ってさ」
彼女は何も言わない。
「実は来週からロンドンを経つんだ。もっと田舎の方で、植物に囲まれて生きていこうと思って。君はここを離れられるかい?」
貴方とならどこへだって行くわ。そんな声が聞こえた気がした。
「なあ。ジュリア」
「結婚しよう」
風が止んだ。
「私の気持ちは生涯変わる事はないし、君は私を掴んで離さないから、ずっと一緒にいてくれないか?」
私は何度か咳をする。
「この通り肺を患ってね。次のスノーフレークが咲く前に君の元に行くことになるかもしれないな」
私は笑う。きっと君は馬鹿な先生ねと笑っているはずだ。
「そしたら式はそっちであげようか。ああ、出来れば冬以外にしてくれよ?私は寒いのがあまり好きではないんだ」
立ち上がり空を見れば、雪はいつの間にか止んでいた。
「ははっ止めてくれたのかい?ありがとう」
私は笑いながら帽子を被る。心が晴れたような気がした。
「じゃあジュリア。私は君を愛しているよ」
とある夏の日の事だ。私はロンドンに来ていた。ウェストミンスター寺院の庭先に、小さな花が咲いている。これは何だろう?するとその横を通り過ぎたおばあさんが声をかけてきた。
「それはねスノーフレークっていうのよ」
「スノーフレーク?夏に咲いてるのにスノーフレークなんですか?面白いですね」
「ああ、不思議だろう?しかもそこの墓石を囲むように咲いているんだ」
「あ、本当だ」
指差された墓石の周りには、スノーフレークが咲き乱れていた。
「誰かが植えたんですか?」
「いや、野生のものが増殖したのよ」
「へえーすごいですね」
思わず魅入る私に、おばあさんは語りかけた。
「そのお墓はね、一昨年の夏に亡くなった貴族のお嬢さんのものなんだよ」
「え、そうなんですか?」
私とは身分が違う人のお墓だとは知らず、驚いてその場を離れる。
「ああ。その子は変わった子でね、貴族だというのに自由気ままに動いてよく怒られていたものさ。あんたと同じようにね」
「一緒にされたら彼女が可哀想ですよ」
「そうかい?まあ彼女には年の離れた学者の恋人がいてね…両親が認めてくれず、結婚が出来なかったんだ。そんな夏の日、彼女は馬車に轢かれて亡くなってしまったんだ。彼女の恋人も、今年この花が咲く前に亡くなってしまってね」
「…そうだったんですか」
見知らぬ人の恋物語。こんなにも悲しい結末だなんて想像すらしていなかった。
「彼女の恋人はね、死の間際まで彼女だけを想っていたらしい。私は素敵だと思うけど」
「…天国から、見えているといいですね」
スノーフレークはただそこに咲いている。
在りし日の彼の気持ちを代弁するかのように。